エッセイを書き始めて今年で、3年目を迎えます。 自らブログを開設してから1年が経ち、そして新たなチャレンジとしてnoteを開設しました。 「社会の底辺からこんにちは」は、ワタシが開設したブログのタイトルになっています。 エッセイを書き始める前、ワタシは地獄のどん底に落ち、そしてある日を境に社会の底辺のような生活を送るようになりました。 幼少期からの夢であった保育士を辞めざるを得なくなり、いつしか生きる希望を見失ってしまったのです。 「結婚」という幸せの絶頂を迎えるときに、
これは「非モテ女子」がアプリによって勘違い街道を爆走してしまったが故に、あらゆるクズ彼たちと遭遇し、そしてボコボコに振られていく話を、なるべくコミカルに、そしてなるべく心の傷を掘り返さないように綴っていく物語です。笑 もしも、「あなたにとって恋愛とは?」そう聞かれることがあれば、ワタシは真っ先にこう答えるでしょう。 「ネタの宝庫です」と。 今まであらゆる媒体で元彼の話を書いてきたワタシですが、とうとうこのnoteにまで書く日が来るとは・・・。どれだけ擦り倒すんだと思われ
周りと比べて「羨ましい」と思ってしまう自分が嫌いでした。 出来ないところばかりを探して「どうせ私は」と悲観的に考えてしまう自分が嫌いでした。 どうしてもその癖が抜けることはありませんでした。 その言葉のどれもが、過去の私が言われてきた言葉だったから。 誰かと比べられて、出来ないことを笑われた過去がありました。 同じ名前の同級生と比べられて「同じ名前なのにお前はダメだな」と言われ続けたことが、今でも心の傷として残り続けています。 外見至上主義だった学生時代は、容姿を比べられ
顔色をうかがうことは、息を吸うのと同じくらい自然と出てしまう行動でした。 「そんなに気を遣わなくていんだよ」そう言われても素直になるやり方も、自分の気持ちを出す方法も分からなかったのです。 周りが当たり前に両親に甘えられて、わがままを言えている頃、私はなるべく怒られないように、家族が仲良く居続けられるように必死で空気を読んで、言葉を選びました。 けれどもいつ怒りの爆発が起きてしまうか分からない状況だったから、どれだけ気を張っていても、言葉を選んでいたとしても、理由もなく怒
ワタシは過去にマッチングアプリであらゆる人と付き合って来ました。 20歳前から密かに始めたアプリは、今でこそ「出会うための1つのツール」として普通になって来たけれど、あの頃はまだ「出会い系」と呼ばれることも多く、付き合っても出会った経緯を答えることはできませんでした。 だから彼氏ができて「どこで知り合ったの?」と聞かれると、「友だちの紹介かな?」とか「合コンで出会ったよ」と言うことしかできなかったのです。 そしてワタシはこのマッチングアプリを約10年ほど愛用し、数々のダメ
昔から私は寝るのがあまり得意ではありません。 ひんやりと冷たい布団の中に足を入れて、体全体が包まれるような感覚になっても、目だけは冴えてしまって、中々眠ることができないのです。 一人きりの夜は、いつも以上に布団が冷たく感じて、その上、孤独が一気に押し寄せてしまいそうになりました。 忙しすぎる頭の中では、ありとあらゆる不安なことを思い浮かべて、そして布団の角をキュッと握りながら体を丸めて、ただただ気絶するように明日が来ることを願いました。 周りと比べてしまう癖を悔やんだり、
25歳くらいで出会った人と2、3年付き合って結婚して、なんとなくの家庭を築いていく。 そんな漠然とした未来を想像していた学生時代のワタシは、今の結婚した姿を見たらどんな気持ちになるのか、正直想像もつきません。 「こんなはずじゃなかった」と言うかもしれないし、「これでよかったのかもしれない」と言うかもしれないし・・・。 それも全く検討がつかないんです。 ワタシが住む地域は特に結婚して、子どもを産んで、家を建てて、老後の資金を貯めながら子どもと共に生きる考えが根強く残ってい
抱きしめている私を同じように抱きしめ返すことをしなかったあの日、頭の中で別れを悟るしかありませんでした。 どれだけ強くぎゅっと離れないようにしても、彼は同じように抱きしめ返すことはしなかったのです。 機械音だけが響く部屋の中は、いつも以上に寒く、孤独が大きく重くのしかかってくるようでした。 「どうして・・・」そう聞いても、彼は答えようとはしませんでした。 その代わりに私の肩を持って体から引き離して、「ごめん」とだけ答えたのです。 その言葉に全てが込めれらているように、もう
「ねえ、せんせい。わたしね、いつかゆかせんせいみたいなせんせいになるのがゆめなんだ」 「そっか。じゃあいつか一緒にお仕事できるのかな?楽しみだなぁ」 「うん!やくそくするよ。だからね、ゆびきりげんまんしよう」 「うん。ゆびきりげんまん🎵〜」 そう約束を交わしたあの日から、私は保育士になる夢を持つようになりました。 大好きなゆか先生と同じ「先生」になりたくて、温かくて優しい手をした先生と二人だけの指切りをしたのです。 あの日からずっと、私の夢が変わることはありませんでし
保育園で働いている時、子どもたちに言い続けた言葉があります。 「夢を持つことはとても素敵なことなんだよ。それがたとえ、途中で変わったとしても、それは悪いことじゃないんだよ。それだけやってみたいと思う気持ちが、面白そうだなってワクワクする気持ちが芽生えていることだから」と。 だから私が受け持った子たちは、多くの夢を持ち、同じ夢でも、はたまた昨日言った夢とはまた違う夢を持ったとしても、その気持ちを後ろ向きに考えることはありませんでした。 そしてその姿を近くで見ていた私も、同じよ
「愛してほしい」そう何度も声にだして、叫びたくなる日がありました。 「私だけを見てよ」そうやって、すがりつきたい日が数え切れないほどありました。 私に向けられなかった愛情は、別の誰かに向けられて、その視線をただただ羨ましいと思いながら眺めていたのです。 けれども決して口に出して思いを伝えることは、できませんでした。 だから顔色をうかがって、大好きな人たちが喜びそうな言葉を探して、必死に見てもらおうとしていたのです。 同じように、ただ純粋に愛して欲しかったから。 けれど
9月の終わり頃になると「肉まん始めました!」とポップが書かれ、肉まんたちがホカホカの香りを漂わせながら「買いなよ!美味しいよぉ」そう誘っているような気がしてなりません。 だからいつも、始まってすぐについつい肉まんを買って、一人で食べることに小さな幸せを感じます。 けれども、この肉まんにはとても悲しく、そして虚しい思い出がたくさん詰まっていることも確かなのです・・・。 中学生の頃、友だち欲しさに太ることに一生懸命になった過去がありました。 一人でいることが怖くて、誰でもいい
ワタシは大人になって初めて「痩せた」喜びを感じました。 それは適度な運動でも、管理された食生活の賜物でもなく、ストレスと鎮痛剤の繰り返しで得た負の喜びだったのです。 それでも、嬉しかったんです。 人生で初めて痩せて、太っていた自分からは想像もできないくらい、オシャレが楽しく思えて仕方がなかったから。 側から見たら不健康だったとしても、当の本人は満足感で溢れていました。 痩せてるってこんなに素晴らしいことなんだ。 こんなに世界が広く、美しく見えるんだ。 そんなドラマの主人
これはワタシが小学6年生の頃のお話です。 学校での思い出なんてこれっぽっちもないワタシですら覚えている、とても恥ずかしくて謎が多すぎるエピソードだなと今でも思っています。 もしかすると、ワタシと同じ体験をしている人がいたとしたら、きっと仲良くなれるだろうなと思うほど、あの日の出来事は記憶に残り続けています。 ワタシの小学校は緑化活動と音楽に力を入れている所でした。 昔からやっていた風習なのか、米のとぎ汁を各家庭で持ってきて川に流す活動をしたり、定期的に川の掃除を学年ごとに
放送室の独特な匂いが鼻の奥に残り、鈍い痛みが手の平をジーンとさせた小学五年生のあの日。 ワタシは、恐ろしく冷たい大人の嘘の正義によって、一生心に残る傷をつけられました。 あの日のことを、これからも忘れることはないでしょう・・・。 小学五年生になった時、担任になった先生は変わった人でした。 周りには常に可愛らしい女子たちが教卓を囲み、時には肩を組んだり、頭を撫でたりしながら楽しそうに話をしている姿を今でも覚えています。 先生と呼ぶには少しだけ違和感があるその人を、ワタシは好き
心地のよい眠りの朝、連続で鳴り響くスマホの着信に、無意識に腹が立ったように電源を消そうとボタンを探しました。 見つけた時には着信は鳴り終わり、再び眠りにつこうとするとまた、着信が鳴ったのです。 何度も鳴り響く音に根負けしたワタシは、仕方なく電話に出ることにしました。 「もしもし、お母さんです」 「・・・なに?」 「最寄りの駅で人身事故があったみたいなんだけど、電車がかなり遅れるみたいだよ」 そう電話越しに話す母は、少しだけ興奮気味でした。 ワタシの夫は、仕事に行く時には電車