未来をつくる言葉

『 言語が技術であり、それを身に纏うということにすると、それはすなわち人間は既にサイボーグ化しているという主張が「おおおお、おもしろっ」ってなった。

 その辺り以降から一気に引き込まれる内容になっていて、また読み返すこと。


言語的なサイボーグ

 フィードバックの観点から言語を考えてみる。

 日言語の無意識と言語的な意識の連関もまた、相互にフィードバックを連絡し合う、ある種のサイバネティックなループ構造をなすシステムとみなせる。身体の外界からの様々な情報刺激が体内に取り込まれ、意識の俎上に上る流れと、世界に現れた自らの言動が再び無意識とフィードバックされる流れが並走している。人は長期的な記憶において、他者から観察されるのみならず、自らを観察する存在でもある。

 例えば、情動伝染。自分自身に対するのは自己暗示。アスリートのルーティーンも同じ。無意識を制御対象とした身体的言語の一例。

 上記の例のように、言語は体に影響する。そして外界の刺激を受容する近くもまた、言語的イメージの形成に影響する。このフィードバックループが存在するからこそ、言語と言う体の上に装うことのできる技術を獲得した時点で、人間はすでにサイバネティックの構造体[cyborg](cybernetic organism)なのである。

 考え方は、カナダの研究者マーシャル・マクルーハンの「メディア論」とも通底するもの。言語から電子技術に至るまで、あらゆる道具の使用は人間の意識を変容させてきたと論じた。

 言葉は機械部品よりも人間の体そして無意識とより有機的に結合するもの。機械的な外相物は生物身体の物理的制約に従わなければならないが、言語は基本的にどんな文字の組み合わせであっても新しい意味やニュアンスを柔軟に付与することができる。確かに言語にもそれぞれ固有のルールは存在するが。

開かれた生命

 人間の知性を機械によって増幅しようとする知能増幅[Intelligence Amplifier,略してIA]という思想が、人工知能の議論が本格すると同時に、50年代に入ると立ち上がった。

ダグラス・エンゲルバート『人間の知性を拡張するための概念形態』[Augmenting human intellect: A conceptual framework]

 人間の知性を拡張するという事は、人が複雑な問題にあたる能力を増大させ、必要とすることをより容易に把握し、問題を解決できるようにすることだ

使用するテクノロジーで知能が左右される

 重しのついていない通常のペン、そしてタイプライターで書かれた文章と比較すると、タイプライターの方が最も正確に情報伝達を行えると言う意味で「効率的」であると評価している。

 つまり、使用するテクノロジーの表現の経済効率性に応じて、人間から発現する知性が左右するとエンゲルバートは考えた。

 サピア・ウォーフ仮説

 この仮説の本質は、言語というインターフェイスの種類に応じて世界の認識の仕方が異なると言う点にある。しかし19世紀の哲学者フンボルトのように、特定の民族の知的な優位性を説く文脈で主張する考えを持ってきていた。

 エンゲルバートにとっての知能増幅とは、問題が明確に定義できる場合の「知能 intelligence」に関係するものであって、新たに問題を提起したりルールを定義したりするといった高次の「知性 intellect」の領域には到達していないと言える。

生命的なシステムとは何か

 チベット仏教徒でもあったフランシスコ・ヴァレラは、神経生理学研究における細胞の観察を通して、生命現象の本質が「自己を構成する要素を自律的に生産し続ける働き(オートポイエーシス)」であると言う考えを発展させた。

 サイバネティクスを立ち上げたウィーナーは、今日のいわゆる人工知能による人間存在への影響の議論を60年以上先取りする論考を残した。代表的な著作『The Human Use of Human Beings  人間機械論:人間の人間的な利用』の中でこう記している。

 --機械的知性そのものが人間の脅威になるのではない。最終的には、他者を機械的に制御可能であると人間が考えるほどの脅威は他に存在しない。

 定量化される情報単位に基づくフォン・ノイマン型のシステムは他律的であるとヴァレラは考えた。意味や価値、そしてルールは外から「指示」され、「表象」されるものであって自ら生み出すものではない 

 他方で、ウィナーの思い描いた生命的な認識論に基づくシステムは自律的なものだとヴァレラは考えた。そこでは、ベイトソンのように情報を「差異が生み出す差異」として捉えられ、意味やルールはあらかじめ与えられるのではなく創発する。 

 創発とはシステムの作動の結果、ある秩序が生まれることを意味するが、それは基本的に予測できない。このようなシステムにおいては、アナロジーや相同といった緩やかな整合性によって情報同士が関係を結び、システムに固有の文脈を作り出す。「縁起」を「相互依存的」な「生起 arising」と表現している。


ありえたかもしれない生命

 生命の動きをシュミレーションで表す研究も行っていた。細胞の自己喪失を数学モデルで記述したのが「オートポイエーシス」のシュミレーションだ。

 人工生命は[Artificial life]を略して[ALife]とも呼ばれ、「今ある生命」[Life as it is]ではなく、「ありえたかもしれない生命」[Life as it could be]を探求する分野。

 AIと ALife、この両者を分かつ根本的な思想上の違いがある。それは、人工知能はシステムの自動化を目指すのに対して、ALifeは自律的なシステムの構築を求める点だ。これこそが彼らが区別した自立と他律、つまり行為する動機が外部から与えられるか、それとも自ら作り出すかという違いである。

「野生」のシステム

 自動化と自律化の差異は、例えば自動運転車を例にとって考えられる。どれほど生き物のように見えるとしても、AIカーはそれ自体に動機はなく、あくまでも企業や国の設定した機能を果たす存在である。「自律運転車」ではなく、正確には「自動運転車」に過ぎない。

 気まぐれで自律的な馬を人工的に作り出し、都市の中に大量に放牧する動機を、私たちの社会はまだうまく定義できていない。事故リスクを孕んだシステムを積極的に作ると言うアイデアは、現代社会にはまだ受け入れづらいものだ。

 つまりは、自律人間型AI(?)を都市に大量に放り込むことにもリスクがある?

[開かれた進化 Open-ended evolution= OEE]

 OEEにおいては、未来はあらかじめ決められておらず、あらゆる可能性に開かれているものとして捉える。自然の中で、多様な生物が無目的に変化し、環境と適合した者が生き残ってきた進化史のように。 

 私たちの産業文明は、その進化の「開かれ」具合をできるだけ最小化しながら制御しようとしてきた。

 well-beings 今までは西洋という単一の指標に収斂させてきたが、これからは開かれた進化が必要。西洋では個人、アジア諸国では集団や共同体の関係性の充足がwell-beingの向上に繋がることが判明してきた。

 わたしのwell-being→わたし達のwell-beingに


 

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