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ドイツってどいつなん?(激寒) ~フランスが大嫌い、プロイセン編~ 2023/6/12 てけ Vol.2

どうも、最近6年遅れて「Los! Los! Los!」にはまっているてけです。
いつか幼女戦記本編も見てみようと思います。
さて、今週も月曜から歴オタを天国にお連れし、理系を地獄に突き落としていきます。
先週の他メンバーの投稿を見ていただければわかると思いますがOrient、理系が多いです(というより主の友達自体理系が非常に多いです)。
主は文系なのにね。ふしぎだねー。
まあそんなことはどうでもいいです。自分の投稿をやっていきましょう。
今回は、前回告知した通りドイツについてです。

ドイツの前身、プロイセン

まずはやっぱりここから。プロイセン王国(本当は東フランクや神聖でもローマでも帝国でもないやつから話し始めてもいいんですがめんどくさいので割愛です)。
プロイセン王国とは神聖ローマ時代のブランデンブルク辺境伯、ホーウェンツレルン家が王として君臨していた国家です。わかりやすく言うと神聖ローマっていうクラスの中のお友達グループのボス、ガキ大将ですね。
フランス革命戦争、つまりナポレオン1世とかいうやつがクラスの外から爆速で突っ込んできて、神聖ローマが学級崩壊します。その後ナポレオン君が懲罰されて、もともと神聖ローマ内で力のあったプロイセン王国とオーストリア帝国という二つの巨大なグループが新しく「ドイツ連邦」を再結成します。その後しばらくは安定を保ちますが、今度は前述の二大お友達グループが仲間割れして(普墺戦争)、ドイツ連邦が学級崩壊します。
この盛大な仲間割れにてプロイセン王国が勝ったので、北部ドイツ諸侯というお友達がもらえました。これによりプロイセン王国は「北ドイツ連邦」へと進化しました。

北ドイツ連邦(赤)と南部諸侯(黄)とエルザス=ロートリンゲン(薄橙)

普仏戦争、そして「ドイツ帝国」へ

さて、晴れて北部ドイツを手に入れたプロイセンはフランスと対峙します。
プロイセンとフランスがスペインの王位継承問題で緊張が高まる中、プロイセン宰相ビスマルク(かの有名な鉄血宰相)が「エムス電報事件」というものを起こし、フランスを煽りました。また、この際「北ドイツ連邦」に参加しなかった南部ドイツ諸侯の北ドイツ連邦への一体化も図りました。
1870年7月19日、フランスはプロイセンに対して宣戦布告。フランスは初戦こそ勝利しましたが、南部ドイツ諸侯の対フランス参戦や「大モルトケ」という偉大なプロイセン陸軍のおっさんが超上手な戦い方をしたの戦況は終始プロイセン側有利となりました。その後、メス攻囲戦やパリ包囲を経て、戦争中であるにもかかわらず、プロイセン王ヴィルヘルム1世はパリ近郊のヴェルサイユ宮殿にて「ドイツ皇帝」として他諸侯に推薦される形で戴冠式を迎えました。ここに晴れて、「ドイツ帝国」が誕生しました。
戦争の結果としては、ドイツ帝国の勝利としてエルザス=ロートリンゲンの割譲や賠償金で決着。フランスは完全に敗北し、独仏関係に遺恨の残る終わり方をしました。この険悪さはこの後20世紀中盤に至るまで続きます。

ドイツ帝国旗

文字数的にもいいところなので、今回はこの辺で。
この調子だと三回に分けなきゃ終わらなさそうですねー…。
そうそう、今回は私の得意な範囲では全くなかったのでみんな大好きWikipedia先輩にお世話になりました。参考文献です。
ただ自分の知識や口調でだいぶん補完しているので、引用ではないですね。
来週もドイツ…と言いたいところですが、未定です。悩んでおります。なんせ"あるイベント"が近いので、そのための特集を作ってもいいなーなんて思っています。
なんにせよ次回もしっかりと投稿していきますので、よろしくお願いします。
それでは、また来週~!


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