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ウィーン体制ってなんぞや??2023/6/19 てけ Vol.3(考査前特別号)

最近定期考査の時間割が発表されて絶望しているてけです。
近年まれにみるゴミ時間割です。終わりました。(いつも言っている)
まあそんなことは置いといて…と言いたいところですが!やはり歴史を語ってnoteの投稿ターンを凌いでいるものとしては!考査範囲に触れなければ名が廃るというもの!!
ということで今回はタイトルに書いてある通り「ウィーン体制」について話していきます。

「会議は踊る、されど進まず」なウィーン会議

さて、「ウィーン会議」はご存じでしょうか?
ウィーン会議とは、時のオーストリア帝国の首都、ウィーンにてヨーロッパ全国の代表たち(ただしオスマン帝国は除く)で行われた会議です。
ウィーン会議には、フランス革命~ナポレオン戦争の一連の流れにおいて破壊されたヨーロッパ秩序の再建、並びに戦後の領土分割という目的がありました。
この会議では、オーストリア外相「メッテルニヒ」が議長を務め、その他イギリスの「カースルレー子爵」やナポレオン戦争にて敗北したフランス首相「タレーラン」も活躍しました。
この会議は、各国の利害が一向に一致せず、数か月を経ても進捗しなかったので、「会議は踊る、されど進まず」と言われていました。
しかし、ナポレオン戦争の諸悪の根源であったナポレオン一世が追放先のエルバ島を脱出したという速報が入ると、立て直そうとしていたすべてがふりだしに戻ると危機感を抱いたヨーロッパ諸国たちがそれぞれ妥協し、1815年6月15日、「ウィーン議定書」が締結されました。ここに「ウィーン体制」が成立しました。このウィーン体制はこの後30年に渡ってヨーロッパに平穏をもたらすことになります。

「会議は踊る、されど進まず」の絵

凄腕!タレーラン!

さて、この会議の中で最も重要と言っていいのがフランス首相「タレーラン」。
彼は「正統主義」を掲げ、ヨーロッパ秩序をフランス革命以前に戻す、つまり正統な統治者を復位させる、ということを強調しました。そう、タレーランは「革命の発祥地であるフランスをわざわざブルボン王朝という旧体制の支配者に戻す、ということを約束したのです!
これには、タレーランの思惑がありました。
それは「敗戦国となったフランスの領土を守る」ということです。
敗戦国は領土をむしり取られることが運命です。ドイツ帝国なんかがいい例ですね。
このままでは確実に領土を奪われる…ということで一芝居。
タレーランは「ブルボン朝の人間」として会議に参加し、今回の一連の出来事におけるブルボン朝としての立場を全面的に利用して、フランス本土への被害を最小限に抑えようとしました。結果的にこれは大成功。タレーランは革命をつぶされたフランス国民から批判を浴びますが、彼の作戦は大成功!と言っていいでしょう。

タレーラン先生。首ないね。

ということで、今回はこんなところで。
もっと書ける所があるにはあるんですが、如何せん考査前で時間がありません。
これから僕は数学と理科をやってこようと思います。
来週は投稿できればドイツ編の続きをば。
それでは、また来週~!

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