米津玄師之『檸檬経』について 2

 登場人物
 A教授:インド思想、仏教の研究者
 B氏:A教授の弟子 

 A「やはりここまでの考察を振り返ると『米津玄師』のいう『あなた』とはどうも仏教的な存在である可能性が高いように思えるね」
 B「そうですか? ボクはまだ違うんじゃないかと思うんですけどね」
 A「それも続けていけばいずれわかってくるだろう。よし、次はここだ。

   『あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ
    そのすべてを愛してた あなたとともに』

 うん」
 B「彼女と一緒に過ごした悲しい時間も苦しい時間もすべて愛してた、ですよねえ」
 A「いや、この最後の『あなた』はやはりブッダのことだろうから、そうはならない。
 おそらく。

 『あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ』

 とは特定の人間の経験や感情にとどまらず、すべての人間が背負っている苦しみ。『生老病死』のようなものじゃないかな」
 B「え、でもそうすると、『そうした様々な苦しみのすべてを愛してた』になっちゃいますよね」
 A「思うんだけれど、この『愛してた』というのは恋愛感情の愛ではなく、『慈悲』のことなんじゃなかろうか」
 B「『慈悲』!?」
 A「これまでの詩は『自分がブッダの導きで悟りの道を得ることができた』という宣言だったけれど、ここからはブッダの教えのありがたみを説いているように思う。そうするとこれに続く。

 『胸に残り離れない苦いレモンの匂い
   雨が降り止むまでは帰れない』

 という詩の意味を解釈する手掛かりになる気がするんだ
 B「レモンの匂い、雨が降り止むまでは帰れない、ですか」
 A「このレモンの匂いが胸に残って離れない、というのがどうもわからない。おそらく何かの比喩なんだろうけどね」
 B「恋の思い出では・・・?」
 A「この人物は『雨が降り止むまでは帰れない』といっている。雨・・・雨はなんだろう」
 B「ボクの話聞いてないですよね」
 A「この雨とは『人々の苦しみの涙』をあらわしたものかも」
 B「苦しみの涙!」
 A「そうすると『雨が降り止むまでは帰れない』とは、『人々の苦しみの涙が続く限り彼岸にはいけない』となる」
 B「いや、でもそれだと悟れないじゃないですか」
 A「そう。つまりこの『人々の苦しみの涙が続く限り私は彼岸にはいけない』の根拠になっているのが『胸に残り離れない苦いレモンの匂い』なんだ。すると、このレモンの匂いは喜びというよりはある種の苦しみ、執着の源と見ることもできる何かと解釈すべきなんだろうね」
 B「なんか、よくわかんないんですけど」
 A「いや、これはや『菩薩』(仏になるために修行していて、ときに人々を導く僧侶)のことを述べているのかも知れない」
 B「ぼ、菩薩ですか・・・」
 A「そう。ほら、お地蔵さんを知っているだろう。地蔵菩薩」
 B「それは知ってますけど」
 A「地蔵菩薩は強い慈悲の心を持っていて、地獄に落ちた人々をも救ってくれるありがたい仏さまとして日本ではあちこちで大切にされているんだが、地蔵は彼岸(悟りの世界)にいくことがなく、人々を救済し続けないといけない。この地蔵菩薩はまさに『人々の苦しみの涙が続く限り彼岸にはい』存在だね」
 B「つまりお地蔵さんのことを歌っているんですかこれ!?」
 A「うん。そうするとこの曲の主題でもある『Lemon』(レモン)とは、『本願』という、菩薩が立てる誓いであると考えることができる。つまりこれはやはり信仰を告白している歌なんだよ」
 B「そ、そうですか」
 A「それに続く。

 『今でもあなたはわたしの光』

 の光は、導きとなる光。つまりブッダは『わたし』にとって光である。その仏に対して向かう気持ちは過去に様々な誓いを立てられた菩薩と同じである、という意味になる」
 B「あー。なんかもうそれでいいような気がしてきました」
 A「よし、ここでまとめてみよう。

  『あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ
    そのすべてを愛してた あなたとともに』
 
  この世のあらゆる悲しみさえ、あらゆる苦しみさえ
   そのすべてはあなたの慈悲により救われるのです 
     ともに歩まれるブッダよ

  『胸に残り離れない苦いレモンの匂い
    雨が降り止むまでは帰れない』

  偉大な菩薩たちはレモンの果実のように
   苦い誓いを胸にたてられ
    あまねく人々の悲しみが除かれるまで
     彼らを救い続けておられるのです

   『今でもあなたはわたしの光』

   遠い時代を隔た今でも    
    ああ、ブッダよ。
     あなたは私(とすべての人々の)光なのです

   という感じになる」
 B「なんかもうほんとにお経みたいになってきましたね」
 A「次の詩は・・・うん。ここもまた視点が変わっていそうだ。

  『暗闇であなたの背をなぞった
   その輪郭を鮮明に覚えている』

  ふうん」
 B「あ。暗闇は・・・『無明』(煩悩にとらわれた状態)ですかね。もしかして」
 A「そう! 君もわかってきたじゃないか」
 B「いやもう、そういうノリなのかなと思いまして」
 A「暗闇が『無明』なら『あなたの背をなぞった』はブッダの背中・・・その教えをなぞる・・・そうすると次の

 『その輪郭を鮮明に覚えている』

 は、仏の教えに出会ったときの気持ちを覚えている、という回想になる」
 B「じゃあ。

 『受け止めきれないものと出会うたび
   溢れてやまないのは涙だけ』

  というのも過去の回想になるわけですね」
 A「うん。『『受け止めきれないもの』とはさっきの詩、『あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ』と同じ意味合いで、生きていく上で人が避けることのできない苦痛や苦悩だろうね。そしてそれと出会うたびに涙を流すしかなかった、という告白になる」
 B「しかし、次の。

  『何をしていたの 何を見ていたの
    わたしの知らない横顔で』

 はどういう意味でしょうか」
 A「おそらく、私はこれも回想の一部だろうと思う。『悟りを開かれたブッダは一体どんなものをご覧になったのだろうか。それを私は知ることはできもしないのだが』という感じじゃないだろうか」
 B「かなりブッダですねこの歌!」
 A「そう。ほとんどブッダだよこれは」
 B「あ、でも次の詩はそうするとどうなるんでしょう。

 『どこかであなたが今 わたしと同じ様な
   涙にくれ淋しさの中にいるなら
  わたしのことなどどうか忘れてください』

  これはどうも今までと違うんじゃないかと思うんですけど・・・」
 A「うん。これはね・・・あなたがブッダだとしたら『わたしと同じような涙にくれ、淋しさの中にいるなら」』という意味はまったく通らない」
 B「これは・・・さすがに詰みですかね」
 A「難しいね。ただ、どうもこの『わたし』と『あなた』はこれまでの『あなた』と比べるとだいぶ近い存在である感じがする」
 B「確かに、なんか近い感じはしますよね」
 A「もしかすると、作者である『彼』はここで『あなた』にはじめて呼び掛けているんじゃないだろうか」
 B「つまりあなたはブッダではなくて他の人・・・恋人に自分を忘れてくれとかいう意味じゃ・・・さすがにここまでの流れだともうないわけですよね」
 A「そうだね。この『あなた』とは、特定されない一般人。あまねくたくさんの人々、というくらいの意味だとすると話がわかるよ」
 B「そうすると、過去の自分のように生きる上で味わう色々なことで『涙にくれ淋しさの中にいるなら』になりますね。うん。なるほど。でも、そうだとしても『わたしのことなどどうか忘れてください』はどう解釈すべきでしょうか」
 A「この『わたし』もたぶん作者のことじゃないんじゃないかな。前に。

 『古びた思い出の埃を払う』

 という詩が、魂の汚れを取り払うことだと(正しい教えを守ることによって穢れを払う)解釈したのと同じように。

 『わたし』とは自分自身への執着や煩悩だとすると、それを『どうか忘れてください』という意味になる」
 B「やったじゃないですか! これでできましたよ!」
 A「うん。まとめてみよう。

  『暗闇であなたの背をなぞった
    その輪郭を鮮明に覚えている』

  かつて私が煩悩にとらわれて苦しんでいたとき
   ブッダよ 私はあなたの教えを学んだのです
    そのときの印象は今でも鮮明に思い出せるでしょう

   『受け止めきれないものと出会うたび
     溢れてやまないのは涙だけ』

   この世の様々な苦悩や苦痛と出会うたびに
    人々はただ無力に涙を流すことしかできません
     そしてその涙はけして止まることがないのです

   『どこかであなたが今 わたしと同じ様な
     涙にくれ淋しさの中にいるなら
      わたしのことなどどうか忘れてください』

   『あなた』よ。もしかつてのわたしと同じように
     世の中にあまねく存在する苦しみと悲しみにとらわれ     

     尽きることのない涙を流す
      淋しさにとらわれているのなら
 
       その苦しみと煩悩の源である『わたし』というものを
        どうか忘れてください

 
 こうかな」
 B「すばらしいです。ちゃんと最後に『自分を捨てるべきだ』という教えまで説いている」
 A「そう。まったくすごいんだよこの歌は」


 
 (続く かも)

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