米津玄師之『檸檬経』について

 登場人物
 A教授:インド思想、仏教の研究者
 B氏:A教授の弟子

 研究室でイヤホンしてスマホをいじっているB氏にA教授が話しかける。

 A「Bくん、また音楽かい?」
 B「あ、すみません」
 A「そんなに慌ててしまわないでもいいよ。日本の歌?」
 B「はい」
 A「ふーん。今の若い子ってどういう曲聴くの? うちの娘もなんか毎日色々いじってるけどね。私にはさっぱりわからない」
 B「いや、ボクもそんなに音楽詳しいわけじゃないですけど、とりあえず米津玄師とかですかね」
 A「米津玄師? お坊さん?」
 B「違います。歌手です、歌手」
 A「どんなのそれ」
 B「あ。よければちょっと聴いてみます」
 A「うん。どれどれ」

 B「これ『Lemon』っていうんですけど、普通のまあ恋愛ソングですよね。でも歌詞も割といいんで」
 A「はあ。こういうのなんだ・・・うん? これは・・・」
 B「やっぱり気に入りませんか」
 A「いやこれ・・・歌詞とかある」
 B「あ、はい。ネットで見られますけど」
 A「ちょっと見せて」
 B「わかりました。待ってください・・・はい。これです」
 A「ほお・・・」
 B「どうしたんですか先生?」
 A「B君、これはもしかするとなかなかすごい曲かも知れない。いや、きっとそうに間違いない」
 B「先生?」
 A「いいかい。まずこの歌詞。ちょっとおかしいんだよ」
 B「はい」
 A「最初の歌詞は

 『夢ならばどれほどよかったでしょう』

  だね」

 B「ええ。ですね」
 A「これはつまり、『今私がいるのは夢ではない』という覚醒した状態、はっきりとした意識があるということを示している。それでいて、現実が『夢ならばどれだけいいだろうか』という迷いの心境をあえて示していることになる」
 B「は? そうなんですか?」
 A「ところが次の歌詞を見ると

 『未だにあなたのことを夢に見る』

 となっている。これは明らかに前の詩と矛盾しているんだ」
 B「『もしも現実の方が夢だったらいいのに』という意味じゃないんですか。そうすれば夢の中のようにあなた・・・たぶん昔の恋人を見ていられる、っていうくらいの意味だと思ってたんですけど」
 A「いや、最初の歌詞で『夢ならば』とまず断言しておき、自分はすでに『目覚めた状態にある』といった上で、なお夢に執着するという、矛盾した論理をこの作者はあえて展開しているんだ。そのくらいの論理性を持っている人間がそんな単純な恋愛ソングを作るとはどうも思えない・・・ひょっとするとこの『あなた』というのも、恋人やそういうものではないんじゃないかという気がするよ」
 B「え、そんな難しい曲なんですかこれ!?」
 A「うん。次とその次の詩がまた難解だ

 『忘れた物を取りに帰るように 古びた思い出の埃を払う』

 か」
 
 B「恋人との思い出ですよねたぶん」
 A「いやそれなら、『忘れた物を取りに帰る』という表現は不自然だ。最初の歌詞で『それは夢である』といった後で、それを「『取りに帰る』とすると『夢の中にあるものを取りに帰る』という意味になってしまい、これは実体のないものを追いかけていることになるじゃないか」
 B「いやあ、そうですかね・・・普通に恋人との思い出のことだと思うんですけど」
 A「そして次の詩が『古びた思い出の埃を払う』。」
 B「昔の記憶を思い返しているんですよね」
 A「この古びた思い出とはなんだろう。埃というのは・・・もしかするとこれは魂のことをいってるのかも知れない」
 B「魂? はい?」
 A「日本やインドでは人は何度も生まれ変わるとされている。いわゆる輪廻の思想だよね」
 B「ええ。それは知ってますけど、え、これ輪廻のことなんですか?」
 A「インドの思想では人間が生まれ変わるたびに生じる、人生での業(カルマ)とか功徳による報い(因果)を説いているのは前に話したじゃないか。しかし、これはどちらも場合によっては輪廻への執着を強め、解脱を妨げる要因にもなる。そうした世俗の汚れ、あるいは輪廻によって生じた業や功徳を『埃』。『古びた思い出』を過去世から現世にいたる魂の記憶とすると、それを『払う』ことは生への執着を捨てることを比喩していることになる」
 B「そういう比喩してないと思うんですけど」
 A「そうすると

  『夢ならばどれほどよかったでしょう 未だにあなたのことを夢に見る』

 とは。すでに目覚めた立場から不確かな現世に対する執着を断ち切ろうとしつつ、夢に見る誰かに未だに執着していると解釈できるし

  『忘れた物を取りに帰るように 古びた思い出の埃を払う』

 とは、過去の輪廻で生じた様々なものを取り払い、魂が執着を持つ前の状態に戻ることを説いているものといえる。この忘れたものというのはすなわち肉体も欲望もなく、執着もない、純粋な状態。インドでいうところの『アートマン』だろう。するとこの『あなた』もやはり恋人のことではないのだろうと推測できる」
 B「えぇ・・・」
 A「次からの詩がそれを裏付けているんだ。ほら、見てみなさい。

 『戻らない幸せがあることを あなたが最後に教えてくれた』」
 B「過去は戻らないんですね」
 A「おそらくこの『戻らない幸せ』とは『彼岸にいたる』ことを述べているんだろう。もう輪廻(生まれ変わり)をすることがない幸せ。これはインドでいうムクティ。仏教でいう解脱だよ」
 B「解脱しちゃった!?」
 A「すると、それを『最後に教えてくれた』『あなた』とは、悟った人間である『ブッダ』。あるいはインドの『ギーター』でいう最高主(ブラフマン)かも知れない」
 B「なんか先生がいうと無駄に説得力あるんでやめてくださいもう」
 A「ほら。

 『言えずに隠していた昏い過去も あなたがいなきゃ永遠に昏いまま』

 というのなんかはそのままだよ。
 『言えずに隠していた昏い過去』とは人間それぞれが持つ業や罪を指す。そしてその『永遠に昏いまま』を終わらせる『あなた』はやはりブッダ。あるいは最高主のことを賛美したものだろう」
 B「あー・・・なんかもうそんな気がしてきました」
 A「うん。こうして読み解いていくと、おそらくこれはインドの聖典や、仏教の思想にかなりの影響を受け、しかもそれを理解した人間が作ったことがわかる。この

 『きっともうこれ以上 傷つくことなどありはしないとわかってる』

 とは、すでに作者が解脱の手前の状態にあることを歌っているに違いない。つまり『もう生まれ変わることがないと確信している私はこの世で傷つくことなどないとわかっている』という告白をしているんだ」
 B「逆にすごいですねなんか」
 A「ここまでをまとめると

 『夢ならばどれほどよかったでしょう 未だにあなたのことを夢に見る』

 とは。

 『現世の苦しみがいっそ夢であればと願う(目覚めた人である)この私は、ブッダのお姿(あるいは最高主(ブラフマン)を未だに夢に見て、この現世の苦しみ脱しようとして(今)これを説こう』

 という告白であり

 『忘れた物を取りに帰るように 古びた思い出の埃を払う』

 とは。

 『(人は)肉体を生じる前の魂の状態に戻るために、現世と過去世で積み重ねてきた執着(思い出)を払うのである。それは愚かな魂が肉体を自分自身だと思う気持ち(自我執着)の中で忘れてしまった純粋なもの(忘れた物)を取りに帰ろうとするのと同じことなのだ』

 となる。
 そして。

 『戻らない幸せがあることを あなたが最後に教えてくれた』

 により。

 『もう輪廻によって生じる生老病死などの苦しみを味わなくていい、解脱という最上の幸せがあることをブッダ、あるいは最高主(ブラフマン)が私の最後の人生においてお示しくだされた』
 
 となる。
 これはまさに現代の経典だ」
 B「米津玄師すげえ・・・」

 
 次回に続く(かも)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?