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秀吉が豊臣姓に込めた野心

 「源平藤橘」に続く第五の“氏”を打ち立てる――。日本一の出世人である秀吉の野心によって突如、「豊臣」という新たな氏姓が誕生した。1585年のことだ。

 武家は元来、秀吉ほどは氏姓に執着してこなかった。鎌倉幕府の執権北条氏は平氏、室町幕府の将軍家たる足利氏は偽りなき源氏の名門、江戸に幕府を開いた徳川家康も真偽はさておき源氏を名乗った。わざわざ新しい氏姓を創始しようとした形跡はない。

 秀吉は違う。初期の『公卿補任』には、織田信長に倣って平氏を称していたことが分かっている。その後、藤原氏に改めた。これは関白叙任に当たって、前関白である藤原前久の猶子になったからだ。しかし、すぐに藤原姓を捨て、正親町天皇から豊臣姓の下賜を受けた。武家でありながら氏姓にこだわった背景から、日本にとどまることのなかった秀吉の野心が浮かび上がってくる。

「豊臣」と「羽柴」は併存した
 よく言われることだが、氏姓と名字(苗字)は別の存在だ。氏姓とは天皇から与えられるものであり、名字は原則自称するものである。秀吉の場合、豊臣朝臣が氏姓であり、羽柴が名字となる。豊臣と羽柴は両立されるものであり、実際に秀吉は「羽柴藤吉郎関白豊臣朝臣秀吉」などと名乗っている。

 氏と姓も厳密には同じものではない。天皇からセットで下賜されるのが通例なのでややこしいが、源平藤橘などは氏であり、「八色の姓」でお馴染みの真人や朝臣が姓である。ただし平安時代にはほとんどの官人が朝臣姓になったために氏姓の区別は失われ、むしろ氏の部分が本姓として扱われるようになった。

 日本人の誰しもが、四姓と総称される源平藤橘に属するわけではない。飛鳥時代の物部氏や蘇我氏などが馴染み深いが、平安時代初期までに清原氏や在原氏といった源平藤橘以外の姓は絶えまなく誕生している。

 ただし、源平藤橘が代表的な姓であることは間違いない。源平橘は臣籍降下した皇族に与えられた姓であり、藤原氏は人臣で位を極めた家柄。高貴な本姓として定着し、朝廷で有力な官職に就くには当然のようにいずれかに属しているのが大前提だ。

 歴代の武家政権はこれに倣い、敢えて前提を覆そうとはしなかった。不都合がなかったからだ。秀吉も本来は同じはず。実際、関白に就任した際は藤原氏を称しており、朝廷内秩序において特筆すべき問題は生じていない。しかし、これは少なくとも日本においてはの話である。焦点は海外にあったとみられる。

 秀吉が豊臣朝臣という氏姓を生み出した狙いは、豊臣氏が関白の要職を代々務めることにあった。このことは明白だが、新姓創始の必要条件ではない。北条氏は執権を世襲することに成功しているし、徳川氏も将軍職を15代にわたって独占できた。

 では彼らと秀吉の何が違うかというと国際性である。秀吉は、東アジア全域を支配する野心を早くから持っており、後年に「唐入り」を実行に移している。あくまで仮説だが、彼は中国王朝の実権を握る新たな家柄として豊臣氏を位置付けたかったのではないだろうか。それを傍証するのが明朝征服後の人事構想だ。

 秀吉は中国皇帝に後陽成天皇を据える方針だった。その補佐をする関白として候補に考えていたのが、当時の跡継ぎである豊臣秀次である。一方、日本の天皇は後陽成帝の子孫である親王から選び、その関白は豊臣秀保(秀次の弟)か宇喜多秀家を想定していた。

 中国王朝の関白には豊臣氏を置く一方で、日本王朝の関白は必ずしも豊臣氏でなくても良かったことが見て取れる。つまり、秀吉が子々孫々に世襲させたかったのは中国における関白職だったのではないかというわけだ。宇喜多秀家は秀吉から一門に近い扱いを受けていた人物ではあるが、あくまで親族ではない。

 ここまでくると秀吉が新たな姓を創始した必然性が見えてくる。中国には「源平藤橘」という概念が存在せず、これらの姓に属さなければ要職に就けないといった縛りもない。新王朝における高貴かつ唯一関白職に就ける氏姓として、「豊臣氏」を定めようとしていたのではないかと考えられるのだ。

 しかし実際には秀吉の唐入りは失敗に終わり、豊臣氏そのものが1615年に滅亡。秀吉は豊臣姓を数多くの家臣に与えていたが、宗家の消滅と同時に使われなくなった。源平藤橘に続く第五の“氏”として秀吉が国際的な野心を刻んだ豊臣の姓もまた、わずか30年で露と消えたわけだ。

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