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ずっと何かを書きたかった

文章を読んだり書いたりすることが、昔から嫌いではなかった。
小学校3年生ごろからよく学校の図書館に通ったし、家にある面白そうだと思った本は片っ端から読んだ。『シートン動物記』全10巻を読了したときは、親にもすごく褒められたし、それなりに達成感も味わった。肝心の内容はといえば、きれいさっぱり忘れてしまった。今読んだら面白いのかな。そういえば、『ファーブル昆虫記』には、なぜか手が伸びなかった。虫にはドラマがない、そう思ったのかもしれない。

授業で作文があるときは、あまり苦しんだ覚えはない。ただ、まとまりのある精緻な文章とは程遠い、とっ散らかった文章を書いていたように思う。小学4年生の夏、原稿用紙13枚にわたってあらすじだけをダラダラ書きたくった読書感想文を提出したことがあった。褒められるに違いないと思っていたが、予想に反して先生の反応は渋いものだった。物語の説明は「読書感想文」ではないから当然である。(読書感想文の指導って難しい)しかし原稿用紙13枚も書いたという事実は、少年の私にとって、書くことに自信をつけさせる出来事ではあったのかもしれない。

書くことが好きだと気づいたのは小学校で非常勤講師をしていたときのことだ。いや、「気づいた」というか「好きになった」という方が正しい。

そこの校長は国語科畑で、中でも詩の授業研究を熱心にされている方だった。学年教師陣と積極的にコミュニケーションをとり、スムーズに学校運営を行う優れた管理職というより、背中で語るタイプの昔気質の先生だった。職員室でモクモクとタバコをくゆらせる姿も、平成末期においては衝撃的だった。彼は不定期に職員室の先生方に向けて『職員室の小さな文学館』という通信を発行しており、そこには自作の詩や童話、生徒の作品の紹介、随筆などが掲載されていた。長身で真っ白な髭をたくわえた威圧感のある立ち姿とは対照的に、かな文字を多用した柔らかい、幼いころの記憶を思い出すような、どこか朧気な文章だった。廊下に掲示された生徒作品を、目を細めて、慈しむように眺めていた白髪の横顔。

多くの先生は多忙を極め、机上に置かれるだけのその通信を手に取ってゆっくり味わう…ということは少なかった。話題にのぼることもあれば、黙殺されることもあった。ただ、非常勤という立場上、暇の多かった私にとって、それはひそかな楽しみであったのだ。

「大の大人が詩を書く」という行為が、国語教育を志したばかりの私にとっては非常に美しい理念を体現したものに見えたし、ハードボイルドな立ち居振る舞いに単純に憧れていた部分もあった。とにかく私も詩を書こう、と思った。

八月

生まれて初めて泳ぐことに積極的になっている。
五年生の海浜学習にて救命胴衣を身につける機会があった。
初めてのことだ。

一切の力を抜き、ただ波に身を任せ漂うことは
海月か何かになったような気にさせて楽しいものだった。
泳ぎの得意な者はいつもこうなのか、と思うと
不細工な我流をうっちゃって、少しはまともな泳法を体得したくなった。

幼少の頃より中耳炎持ちである。
耳に水が入るとたちまち押し寄せる雑音と鈍痛。
プールの授業は見学することが多かった。
中学にもなると友が道草に漁港へ泳ぎに行こうと誘う。
本当は行きたかったが私の父は許さなかった。
子どもだけで水と遊んではならないというのは我が家の鉄則であったのだ。
周りが魚であった頃、私はハゼであった。
このハゼは耳鼻科への通院だけは手慣れたもので、プールの授業がある日は
登校前に診察の予約を取り、学校が終わると小さく痛む耳を押さえながら病院へ向かう。
手術をしても完治することはなく、おまけにド近眼も手伝ってか
自己ベストは五年生のときの二十五メートルで、それはきっと泳いだというよりも、もがいていたと言う方が近い。
しかしそのハゼにとっては
「人に見せられるものじゃあないが、おれは決してカナヅチなんかじゃあないぞ。」
という妙な自信をもたらす出来事ではあった。

十五年が経って、救命胴衣をつけたハゼは、泳いでみるのも良いかもしれない、と思った。

海浜学習明けのプール開放日。
岡田先生に教えを乞うて、何とか形は整ったようだ。
子どもたちは帰る。
ドボンッ――――――シュワシュワシュワ!

一人水の中に入る静けさよ。
死んだ微生物の透明さよ。
主役の失せた校舎の物寂しさが息継ぎのたびゴーグルの内で滲む。
ああ、私は大人になったのだ。
この景色は大人にだけ許された景色だ。
それにしても何と期間の限られた景色であることか。
夏の虚勢を見た日。
右耳にやって来る懐かしい不快。

この詩を校長の机に置いた。翌日の『職員室の小さな文学館』に掲載された。ただ載っていただけで、批評どころか紹介コメントすらなかったが、嬉しかった。それは彼に認めてもらったという意味ではなくて、表現それ自体が持つ喜びであり、自分だけの領域を持つことを許された晴れがましさである。

表現することは、家を持つことに似ている、と思う。書くという作業は思考を具現化することだとよく言われるが、それならば具現化された言葉の根源は十人十色の思考であり、同時にそれらは一つとして同じものがない。
他の誰の土地とも違う、自分だけの土地を耕し、家を建てる。広さや強度、装飾の多寡、機能性には差があれど、そこはいつでも立ち返れる場所になりうる。自分だけに分かればよい、という意味では隠れ家になり、誰かに理解・共感を促すという意味では、客を呼ぶ家になる。

ただどちらの家にしても、どっかと腰をおろせる場所があるいうことは、それだけで心を豊かに保つことに繋がるだろうし、同時にそれは安心して世界を眺める場所を得ることでもある。家の比喩を借りれば、町を眺望できる高層マンションの窓か、半地下に僅かな光を取り入れる高窓なのか、いずれにしても我々は、その家にある窓からしか世界を眺めることはできない。

黴は何と愚かな習性を持っていたことであろう。常に消えたり生えたりして、絶対に繁殖して行こうとする意志はないかのようであった。山椒魚は岩屋の出入口に顔をくっつけて、岩屋の外の光景を眺めることを好んだのである。ほの暗い場所から明るい場所をのぞき見することは、これは興味深いことではないか。そして小さな窓からのぞき見するほど、常に多くのものを見ることはできないのである。

井伏鱒二『山椒魚』

書かれた文章は、そのジャンルや筆致にかかわらず、書き手の眺めた世界である。もっと世界が欲しい。自分だけの世界が、まだ足りないのだ。

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