サイコパス=悪ではない -「鈍感」であるということ(箇条書き段階)
注)箇条書きっぽく下書きにまとめてたんだけど、うまく文章をつなげてまとめるのがだるすぎるので、一旦この形で投稿する。わかる人にはこれで分かるから問題ない。んで、わかんない奴はちゃんと書いても基本わかんないから、これでもいいのかも(よくない!いつかちゃんと書くよ!)
サイコパス。
昨今ではかなり有名な概念となっているが、有名になればなるほど、その言葉の意味は大衆の集合的な欲望によって意味合いが薄められ、組み替えられていく。
今やサイコパスは、「凶悪犯罪などと結びつきやすい心理傾向」という過程、反復可能なものとして研究に値するようなものではなく、「凶悪な結果を引き起こす者」という反復不可能なその結果と一対一で結びつく情報量のないゴミのような概念に成り下がりつつあるように思える。
私としては、サイコパスという概念を、このようなくだらないーつまり「一般の人とは異なるパーソナリティに命名しー厳密さも何もないままにただ素朴な悪しき対象として気持ちよく殴れるだけの玩具、凡俗の忌み物」で終わらせるのは、あまりにも勿体無いと感じる。
この記事では、「サイコパス」の辞書的、医学的定義がどうという話はしない。そんなことは極めてどうでもいい。というか、それらの定義が不合理で、有害ですらあるとこの記事では主張する。少し調べればわかることとして、「サイコパス性そのもの」と「反社会的行動傾向」は、専門的研究ですらあまり分けて考えられておらず、「サイコパス性があり、反社会的行動のない人間」が想定されていないことがわかる。これはある種当然である、なぜなら「反社会的行動を犯した者を分析して、サイコパス性を定義付けようとしている」研究がほとんどだからだ。(というか、そのような研究以外見つからない。あったらぜひ教えて欲しい。)
分析こそ思考の要であろう。論理必然的にこの二つが結びついていないのならば、分けて考えてみるべきだ。
私は、「サイコパス性そのもの」「反社会的行動傾向」の二つを分けたい。そして、この記事で言うところの、「サイコパス性そのもの」に対する「素朴な嫌悪感」を取り除きたい。
そしてここでは、「サイコパス性そのもの」を、「共感性が低く、衝動性が高いパーソナリティ」と呼ぶことにする。これは一般的なサイコパスの素朴な実感的定義とも合致するだろうし、かつ嫌悪されている特徴そのものである。
ーしかしこれは、この「サイコパス性そのもの」は手放しに悪いものなのだろうか?私は、そうではなく、ここでいう「サイコパス性そのもの」を持ち合わせる人の中にも、「良い人、悪い人がおり、一律で嫌悪するようなものではない」ということ、むしろ、ある種の聖人にはここでいう「サイコパス」が多いのではないかということまで、主張したい。
(そして、悪人にサイコパスが多いとして、この主張とは矛盾しないことに留意していただきたい。サイコパスは聖人も悪人も多くなる傾向がある。というのが、この記事で伝えたいことの画一的で単純でもなければ、もしかしたら市井の皆様方からしたら不愉快かもしれないサイコパス性の本質のうちの一つだ。)
それでは順を追って解説していく。
1.共感性の低さ
共感性が高いということは美徳として語られる。
目の前の人が涙を流したら自分もまた涙を流し、嬉しそうなら以下同様……なるほど確かに(途中)書くのめんどい。
結論:要するにサイコパスは「周りからの逸脱」と蓋然性で結びつくのだ。(要するに部分そんな難しくないので皆さんで補完してください)そして、「反社会的行動」は、この「逸脱」のあり方の一つ、具体例にすぎないだろう!
そしてここからも書くのめんどい。補完してくれ。いつか書く。
↓これ結構関係あるよ サイコパス性って普通に必要だよねっていう
・何かを能動的に成すということは、何かを傷つけることを意味する。
2.「衝動性」(本当に?)
「衝動性」というのは、本来内的なものであるから、自ずと外的な「結果」から内面を推察することによって得られる情報である。そして、「衝動性」と聞くと、「感情のコントロールができない結果」として解釈するのが一般的に妥当な解釈であり、それ故にサイコパスは悪しきものとして捉えられる。
しかし、「衝動性」は、ここは重要なので繰り返すがーそれ自体を観測できるものではない、よっね、「急に周りにとって意味のわからないことをし始めた」などの外的結果から、内的に「感情のコントロールができていない」と推認されることによって、サイコパスは「衝動性が高い」という言葉で評されることになった。と言える。
そして、ここには大きな飛躍があることを見逃してはならない。
「急に周りにとって意味のわからないことをし始めた」というのは、むしろ感情や実感を排した冷徹な、徹底的に理性的な判断故のものである可能性もあるということが見過ごされている。
というか、情動が薄いのに感情のコントロールができないって何だよ?もちろんあり得ないことではないが……ふつうに不自然であることぐらい全人類が思い至ってほしいものである。
よって衝動性という表現は不適切であり、それは「独断性」とでも言うべき性質と言えるだろう。
サイコパスの本質は「迷いのなさ」にあり、
これは間違いなく「強さ」である。
「左右されない」ということなのだ。
言うならば「絶対値をクソデカくする力がある」
偉業と大悪、両方と蓋然性で繋がる性質である。
ここでいうサイコパスは、右頬を打たれたら左頬を差し出すと決めれば、どう思おうと左頬を差し出すのだ。
反面、殺しまくると決めれば、憐憫や慈悲を超えて、迷いなく殺しまくる。
サイコパスでない人には難しいだろう。
だってそう決意しても、やはり右頬を打たれたら普通むかついて左頬なんか差し出したくねーよって強い感情がやってきて、それに負けるのが「普通」だろう。あるいは、思想犯だか何だか知らないが、大量殺人計画を実行しようとしても、実際に苦しみながら死にゆく人を間近で見続けたら感情的に断念したくなるのが「普通」だからだ。
特定の主義主張を、感情がどうあれ無私に実現し続けるのは、サイコパスに向いている。
(もっとも、ここでは感情を抑圧しているからそうなれる人と、感情がそもそも薄いからそうなれる人が同視して語られていることには留意する必要がある、そして勿論、これらは両立する)
いちいち感情を感じることは、目的の遂行にとって邪魔でしかない。
死刑廃止論者の弁護士が身内を殺されて死刑肯定論者になってしまうみたいな話があったらしいが、これこそ感情を感じてしまうことの弊害といえよう。死刑廃止論が正しいか否かと、その人の経験との間には、何の関係もない。
俺は身内殺されても死刑が正しくねえと思ったら正しくないって言うね。下でも言うけど俺はこの記事で言うところのサイコパス的で、俺はそれこそが正義だと思う。身内殺されたのに死刑制度そのものの正しさとは別だとかいう理性保てるのが非人間的って価値観もあるんだろうけど。
いわばサイコパス性は「アクセル」のようなものである。それがあることによって交通網が発達し、世界が狭まる。圧倒的な有用性がそこにはある。しかし勿論人を殺しうるリスクも孕む。
共感性や情動は「ブレーキ」だろう。確かに安全だが、それだけでは何の意味もない。
そして上でも述べた現状のサイコパス研究は、人を轢き殺した車(反社会的行動をする者)には、アクセル(この記事で言うところのサイコパス性)がついている!アクセル、ヤバい!みたいなことを言っているのであり、マジでアホでしかない。
ブレーキが弱いの、ヤバい!というのはそれはそうである。しかし、それは良さにも悪さにもなるということは先ほど説明した。
公道では事故りまくるだろうから、どこかレースにでも参加するべきなのだ。
そしてサイコパスの特徴としてあげられる「傲慢さ尊大さ」も、「独断性」を発揮し動くためはそりゃ必要だろう。こんなものは卵と鶏であって、双方が双方をより強化していくのはごくごく自然なことだろう!なるほど偉人がサイコパスと言われるのも納得できる、自分の頭の中の概念が全世界に通用するという傲慢さなくして、ニュートンは万有引力を主張し得るだろうか?
私は謙虚さという概念が嫌いで仕方がない。中学の頃、同級生と共にとある先生から「謙虚たれ」とのご高説を賜ったことがある。
周りはその先生の理路に割と感心していたが、つまるところ言われたことの要旨はこの2点。
1.世界は広い。上には上がいるから、自慢することは恥ずかしい
2.傲慢で普通だと嫌われるけど、謙虚で普通だと褒められる
なるほどなるほど。
みみっちくない?
1に対する反論
・お前自分の教え子に「頂点」もしくは「上とかない、新しい何かを作り出す者」が生まれうる可能性を否定すんなよ。前者的には、身の程をわきまえて小さくまとまるより、半端者としてイキって殴られて、その悔しさをバネに頂点に漸近せんとすることのほうが俺は全然かっこいいと思う。
そんで俺は後者(✝️新しい何かを作り出す者✝️)だから、無視されててむかつく。
2に対する反論
ハードル下げてる方がコスパ良く評価される、なるほど!その意味で謙虚さは「単に自己利益的」だからみんなそれを選んだ方がいいと!しかも謙虚さは「他者優先的な雰囲気」をも纏っている!さぞかしコスパのいい概念ですこと。気持ち悪い。キモすぎ。死ね。
そして俺はこの意味で言うところのサイコパスである。間違いなく。幼少期虐待受けてた防衛規制からなのか知らんけど、基本的に感情全般薄いし、信じるテーゼの徹底ために感情を抑圧するなんてのは3歳でみんな当然のことと理解していると思っていた。
だからこそ、中学時代の俺のテーゼである「常に不確実性を意識すること」……常に断言することを避け、形而上学的で現実的でないスケールの話を日常レベルでも常に意識し続けると言う気味悪がられるし自分にとっても大変なことを徹底できたのである。何故なら、決めたことの実現を妨げる「感情」なるものが薄い上、抑圧できるから。テーゼが「悪性の開き直り」になればある種のニーチェ性、ゴミの意味の方のサイコパスになるし、「キリスト教の価値観」になれば、俺は無私に聖人になるだろう。繰り返すが、ここでいうサイコパス性は善悪とは関係ない。善悪を増幅するものでは間違いなくあるがね。
俺は傲慢に、周りの目など気にせず、独断的に、類型化と例外化(https://note.com/organofsaul/n/n9d70b9006890)が「法律学にとっての万有引力」「法学版モーリーの定理」であると信じている。
人には優しくすると決意したから、感情がどうあれ優しくする人と、優しくしたいという実感があるから、その実感が湧いた時に優しくするという人がいる。前者は決意が変われば優しくなくなるし、後者は実感が湧かなければ優しくしてくれない。
そして前者がサイコパス的と言う話だ。
俺は完全に前者である。人が困っていても、俺は困らない。全く。共感性に欠ける非人間と思われるの嫌って感情はかろうじてあるし共感性があるふうに擬態するけどね。
いや、なくはない。嘘ついた。ある時もある。
まあその辺はどうでも良い。俺を「こっち側」の鋳型として説明する方が話が綺麗だからそうさせてもらう。(ちょっと話すと、俺は「意図的に感情を消すことができる」と言う表現が近い、だから議論中相手が泣いてもとどめ刺すべきだと思ったら感情消してとどめ刺せる。そう言う経験が実際ある)
でもこっちはこっちで質の違う優しさとして評価してほしいもんですね。何も感じてないのに、実感とは独立にそうするべきだって、人が傷ついてるのは良くないことだって倫理打ち立てて徹底してるんですから。
演技的にならざるを得ない人だっているんですよ。この場面ではどこまで冷静でいて、どこまで狂うのが正常なのかが常に推測だから、たまに失敗します。
こうやって結局自分の話ばかりになります。サイコパスで、傲慢で、尊大で、感情が薄く揶揄されるリスクに、恐怖に疎いので。
いつも俺が一番適切だった。
あ、でも巨乳はガチで好きです。
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