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表象がどうとかどうでもいいだろという怒り 自分で考えろ

表現は"とある表現"である以上一面的な表現になる。すべてを慮ることはできない。もしくは、矛盾しない筋の通った一種類の解釈をすることが美徳だと思っている人間が表現を解釈するとその表現が一面的なものに見える。それだけのことだ。

表象にキレる奴がわからない。

町中のポスターを見ると異性同士のカップルしかいない。これは同性愛を疎外している。的な言明。抽象してとある表象が何か暗に社会の普遍的な欲求を表しているみたいな主張。宇崎ちゃんポスターだろうと君野ミライであってもなんでもそう。

なぜ嫌いか、嫌いというか二つの意味で俺にはまったくもって理解不能なのだ。そんな話に執心できる理由が。

1つ目は簡単だ。これはありがちな、非常によく言われている話。作者の真意なんて分からないという奴だ。これに関しては説明を省く。

2つ目。これこそが一つ目よりも私は強く感じるのだが、じゃあ真意が100%人種差別的なものだったからとして、だから何なんだ?そこにそれがあろうとも、思想が確固としていれば、自分で考えるという発想があれば何の問題があるってんだ?

そんなちょっとした"町中のポスターにカップルが居ない"程度のことに思想が左右されるとは全然思えないし、もしそういう意図を作って作者が制作していたとしても俺は知らん。俺はそんなものには左右されない。表象なんか熟考の敵ではないだろう。一切。なぜどうとでもいえる表象のほうを制限しようとするのか。

それは、感覚の話にならざるを得ない。どこからがよくてどこからがダメなのか……

”というありがちな話でもない!” 無いのだ。

皆が自分で考えれるなら表象なんて全部OKだろ。どこからでもよくてどこからでもダメじゃない。てめえの考えと表象は独立じゃないのか?独立じゃない?町中に貼ってあるポスターとか映画程度で左右される奴なんか知るか!ちょっとは自分で考えろ!

もしそんな公共の表象にすべてが左右されて思想が一元化されるってのなら根本的に問題があるのは表象じゃなくて大衆のほうじゃねえのか!表象批判は場当たり的でしかねえ!

さらに仮にそう=人種差別的な表象だとしてそれにその不快な表象はあくまで目に見える形で表出しているだけだ。世の中にはたくさんの思想がある、人種差別的な思想も、そうでない思想も、何でもだ。逆に社会的に一般的とされる表現はとてもじゃないが全て、一般的な表現なんかじゃない。もっとストレスにさらされろ。世界を雑に切り分けるな。その見るのが苦痛なものを無いものとして"社会的で一般的で健全な"一元的な表現にのみにしようとするほうが不健全であるように俺は思える。

俺は町中に黒人差別YES!だとか覚せい剤はやれ!ゼッタイ。というポスターが張ってあろうと知らねえ。そんな表象なんかとは独立に思想として俺は黒人を差別しないし、覚せい剤は吸わないので。



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