サメんなった男 (一話完結)

 ある日サメんなった。

 だいたい、生まれつき心優しい僕がサメなどという、凶暴さの代名詞のような生き物になったことは悲劇だった。

 僕を見かけた小魚、大魚がパニックに陥り、大慌てて逃げていく。
 (ごめんね、ごめんね、ごめんね・・・)と僕は心の中で彼らにひそかに謝ったが、それ以上に悲しかった。
 孤独な最強よりも、平凡な仲良しがいい。

 師匠に出会ったのはちょうどその直後だった。
 真っ青で見るからに恐ろしそうな顔の師匠は、遠くから、何か怒鳴りながら恐ろしい速さで泳いできた。

 あっという間に僕の目の前に来た師匠は、僕から逃げ出した小魚、大魚をその巨大な顎で片っ端から捕らえ始めた。
 地獄絵図だった。
 小魚の鱗と血が辺りに飛び散り、悲鳴が辺りに響き渡っていた、ような気がするが、それは僕の悲鳴だったのかも知れない。

「脅したら喰う!喰ったら脅す!これがルールだ、分かったか!」
 師匠が叫んでいる。叫びながら喰らっている。もう、鬼だ。畜生だ。
 僕はまだ周囲に漂う小魚の鱗や内臓に吐き気がした。いや、実際吐いた。

「お前な、ホオジロの癖にいい度胸してんな。何?ベジタリアンとか?」
 師匠がガチガチと口を鳴らしながら言った。
「いや、違います。違いますけど、生の魚はちょっと・・・」
「・・・ナマのサカナはちょっとぉ~、って、お前、海中でムニエル作る気か?味噌煮か?」
 ガチガチガチガチ。
「いえ、それもちょっと無理かなぁ。」
「・・・無理かなぁ~、って、当たり前だ!よし、じゃ、命令だ!あの群れを襲って来い!」
 師匠の鼻で指す方向には美しい鰯の群れが、その銀の鱗にキラキラと陽を反射させて悠々と泳いでいた。
 美しく、平和を絵に描いたようなのどかな景色であった。
「・・・あれはちょ・・・・」
「行け!」
 にべもない。
 師匠の命令に逆らうことは、サメ初心者の僕にどうして出来よう・・・。

―かるかるかる―

 僕は、僕の存在を彼らに気付かせようと大声を上げて彼らに近付いた。
 ところが、鰯たち、一体脳はどこにあるのであろうか?
 彼らは僕に気付いたのはいいが、恐怖のあまり群れの中心に中心に逃げようとするため、群れは益々コンパクトになっていき、あっという間に僕の一口サイズ大となった。
 これではまるで、喰ってくださいと言わんばかりではないか!

 これにはいくら温厚な僕でも頭に来た。
 よしそれなら、と僕はそいつらを一呑みにしたのだった。口の中で彼らが狂ったようにジュワジュワ暴れている。まるでコーラだ。
 こうなったらもう彼らに早く成仏してもらうのがせめてもの優しさというものだ。
 僕は息を止めて何度も彼らを噛み砕いていった。
 そして・・・
 哀しいことに、彼らはホッペタが落ちるほど美味であった。

「よぉ~し。まずは合格だ!」
 師匠が僕を見てにたぁ~っと笑った。真っ白な、ものすごい歯だった。
「では最終試験に入る。」
「えぇっ!まだあるんですか?」
「ある。あぁ、ちょうどよかった。あれを見てみろ。」
 師匠が指すところに白い、巨大な壁があった。
「はぁ、壁がありますが・・・」
「壁じゃねぇ!よく見てみろ。」
 僕はあらためて壁をじっと見てみた。んっ?壁が・・・。僕は目をこすってもう一度その壁を見てみると・・・やっぱり壁が動いている!

「壁が、動いてます!」
「当然だ。シロナガスのヤツだからな。」
「シロナガス?」
「ああ、クジラだ。」
「はぁ。」
「最終試験はな・・・こいつを喰ってみろ。」
「は?喰えって言っても、これ、・・・壁ですが。」
「壁じゃない。シロナガスだ。」
「どっちでもいいですけど、こんなの喰えるわけないじゃないですか!」
「できる!ホオジロをなめるな!」
「ちょっと待ってくださいよ!じゃあ、あなたは喰えるんですか?」
「無理にきまってんじゃん。」

 リフジン・・・

「で?できないんだな?」
「はぁ・・・」
「では、残念だが、罰を受けてもらうことになる。」
「へ?ウソでしょ?」
「ホオジロ、ウソつかない。」
「しかし、ば、罰って、誰がそんなこと決めたんですか!」
「組合。」
「・・・・・・・・」

「いやいや・・・。自分にも出来ないことを・・・」
「“決まりごと”・・・だよ、君。」
「・・・『組合』ですか?」
「うん。組合。」
「・・・。」
「あ、それから、俺のことは師匠って呼んでいいぞ。」
「・・・。」
「ほれ、呼んでみ?」
「・・・、し、師匠。」
「なに?」

 というわけで僕は罰を受けることになった。

     ※

 海の中は案外喧しい。
 ゴボゴボと、どこからか水の湧き出てくる音や、魚達の泳ぐ音、大陸棚から潮の噴き上げてくる音や遠くの火山から噴き出る溶岩が水を押しのける音・・・。
 全速力で泳ぐ僕の周りを様々な音が飛び去っていく。

 ‟組合”の課す罰というのも、『俺に見合った女を連れてこい』、であった。
 正確には、‟メスザメ”であろうが、どっちでもいい。
 僕はとりあえず、師匠の鼻指す南方へと向かったのだった。
 『南の女は活きがいい』というのが理由だそうだ。

 出発して十五分ほども経ったろうか、僕の目の前に絶世の美女が現れた。
 突然のことであった。
 サメではない。
 人間である。
 クレオパトラと楊貴妃と高見恵子を掛けたような顔。
 キュッと吊りあがった真っ赤な唇に生まれる淫靡な微笑に僕は耐えることが出来なかった。
 いや、それに耐えられる男が果たしてこの世にいるのだろうか?

 なぜ海の中にクレオパトラ楊貴妃高見恵子がいるのか?と、なぜ僕はこの当然の疑問を持たなかったのか?
 永遠のナゾである。
 強いて思うに、サメだから、であろうか。

 疑問を持たなかったどころか、あまつさえ僕は彼女に話しかけたのである。
 いや、正確には彼女に話しかけようと僕が口を開いた瞬間、なんと彼女の方から僕の口の中に飛び込んできたではないか!
 あぁ、この感動、この感激!
 彼女の柔らかい肌が僕の唇に当たる。
 
 あぁっ!
 しかし、何ということだろう!
 僕は忘れていたのだ。
 僕がサメだということを・・・。
 僕の口の中には師匠のそれとまったく同じような恐ろしく鋭利な牙が口内の上下にびっしり生えている、という事実を・・・。
 
 僕のこの憎たらしい牙は彼女の体をまるで粘土のように易々と突き刺した。
 唯一の救いは彼女の苦痛に満ちた顔を、悲鳴を、聞かなくてすんだことだった。
 と、その時だった。
 僕の口の中で何かが跳ねた。「んっ?」僕は最初、それが何か分からなかった。
 と、僕の血が(誓ってもいい。僕の鼻は大層良く、自分の血と彼女の血を嗅ぎ分けることなど朝飯前なのだ・・・)口の中に溢れ出してきた。そして、僕の口の中から何かが恐ろしい力で僕の体を水面に向かって引っ張っていた。
 
 後から知ったのだが、彼女は実は本当の人間なのではなく、‟疑似餌”と呼ばれる、本物の餌に似せて作られた餌なのだそうだ。
 ところが、その時の僕はもちろんそんなことは知らない。
 
 グイッと僕は強く引かれた。
 グイッ、グイッ。・・・これじゃあまるで、釣られる魚だ。僕はそう思ってちょっと笑った。しかし‟組合”の罰を控えて、そんな冗談で笑ってはいられない。
 とりあえず僕は引かれる方向とは反対の方に行こうと向きを変えて泳ぎ出した。
 すると、僕を引く力はまるであわててしまって、グイグイグイグイ無暗に引っ張りだした。

 僕は無我夢中で、今度は海底に向って泳いだ。
 と、何ということだろう。僕は一向に前に進めなくなっているではないか!
 それどころか、ジワリジワリと後ろに引き寄せられ始めていた。
 
 しばらく僕は、闇雲にその力に対抗していたが、すっかりくたびれ果ててしまった。
 ちょっと休もうと体を休めた瞬間だった。僕はかなりの早さで水面へと引きづられていったのだった。
 次の瞬間、僕は最後の力をふり絞って、逆に、引っ張られる方向に自ら泳いだ。
 相手の裏をかく、素晴らしい手だった。
 これがうまくいった。

 僕の頭上に浮かんでいる小島らしきものの下を通り過ぎたときには僕を引っ張る力はすっかり無くなって、僕はようやく疲れた体を休めることが出来た。
 そして・・・。
 水面近くにいた僕は、当然ながらそれから数分も経たずに頭上の小島に引き寄せられ、とうとうその小島の上に引き上げられたのだった。

 その小島の上で僕が何を見たか?
 人間だ。
 男が三人。女が二人。
 あぁ、とうとう僕は助かったのだ。
 もうこんなサメなんかで存在しなくていいのだ!
 小魚を襲う必要も、師匠に脅されることも、無くなったのだ!
 いや、嬉しかった。
 ただ、僕のその嬉しさがほんの数秒しか持たなかったことは残念だ。
 僕の嬉しさは巨大な釣り竿を手にしている汗びっしょりの男(五十歳代・赤ら顔)の一言で消えた。

「あやぁ~、こりゃ食い意地の張ってそうなみごとなホオジロだべ!こぉんな立派なカタのサメなんてこの辺でもめったに出ねぇべよ!まぁったく、苦労すただけはあったべぇよ、このサメ!」
 と、このオジさん、二回も僕を『サメ』と呼んだ。

 今まで僕は、やはり、どこかで、やっぱりサメではないんじゃないか、と甘いことを考えていたのだ。
 師匠とはちがう、と・・・。
 でもどうやらそれは、悲しいかな、僕一人の思い違いだったようだ・・・

     ※

 その船『大和丸』は普段は漁船として近海の魚を捕っていたが、時々は変わった依頼も引き受けていたようだ。
 僕の‟捕獲”は、そういった依頼の一つで、サーカスから頼まれたそうだ。
 『雄で凶暴なホオジロザメ一つ、頼む』って、メールで。
 この話は、水槽の中で気落ちする僕を覗き込んでいた一群の人間達が言っていたからたぶん間違いはないだろう。『あんな餌で・・・』『スケベな・・・』という言葉も聞こえたが、聞こえなかった。

 港で僕はトラックに移された。
 親切なトラックで、移動の間、水槽に移されたサメが飽きないよう、水槽の四方の壁が透明になっている。
 おかげで僕は移動の間中ずっと、景色と、そして人々を見物しながら行くことが出来た。
 
 着いた先がサーカスだった。
 あの、お椀を逆にかぶせたような形のテントをしたあれだ。
 そのテントの中に様々な大きさの水槽が置かれていた。
 小さなものではタコが。大きなものではザトウクジラが入っている。
 僕の水槽は、タコと飛び魚の群れの入った水槽に挟まれるように置かれた。小さな水槽で、向きを変えることもできやしない。
 それでも必死に向きを変えようとする僕をタコが、飛び魚達が、バカにしたように見ている。イライラしていた僕はガキガキと歯を鳴らしてそいつらを睨んでみても無駄だった。
 
 しかし、彼らが新参者に興味を示したのも数日だけだった。
 サーカスが一旦オープンしてしまうと、彼らの興味は水槽から見える雑多な人間達へと移っていった。
 もちろん、その水槽の間を流れている人間達に興味を持ったのは僕も一緒なんだが、僕の周りだけ妙な感じだった。
 人々がなぜか僕の水槽から離れて歩くのだ。おかげで彼らの姿は水槽のガラスと水で屈折して、なんとも変てこな、そう、まるで溶けそうなコンニャクのように見えるのだった。
 
 サーカスのオープンから二日目に、突然僕は広い水槽に移された。前にザトウクジラが入れられていた、という曰くつきの水槽だ。
 広くなったのはいいが、どうもザトウさんは多少、ワキガの気があったと思われる。
 
 僕がその臭いにようやく鳴れてきた頃だった。
 外の様子が何だか変だった。
 人々が続々と僕の水槽の前に集まって来だした。
 サーカスの団員で僕の担当の男(三二歳・独身・老け顔だが茶髪、長髪)が僕を指差して何やら言っている。
 
 やがて、僕の水槽に生きたままのウサギが放り込まれた。
 (何て可哀想なことを!)と僕は急いで、水中でバタバタ暴れるウサギの元へと駆けつけて、そいつを助けてやろうとした。
 僕の鼻先で彼の体を押し上げ、水槽の縁から下に落としてやればいい。
 それで僕は急いでウサギに近寄った。しかし、その愚かなそのウサギは僕の姿を見るとまるで狂ったように暴れ出した。
 そのせいで彼(彼女?)は僕の鼻先をすり抜けて、何と僕の口の中に入ってしまった。あ、危ない!と思ったときにはもう遅かった。小さな彼女(彼?)の体は僕の歯の三つくらいの大きさだ。
 彼(彼女?)の体が歯の先に触れると、歯先がスッと彼女(彼)の体に入り込んでしまった。そうなるともう僕にはどうしようもない。魚類とはまた別の、脂が多くて匂いのきつい血が彼の体から噴き出して水槽を汚した。

 同じ魚類である鰯を食べてしまった時に比べると良心は全然痛まなかったけれど、ただただ気味が悪かった。吐き出してそのグチャグチャな姿を見るよりは、と無理をして飲み込んだ。
 飲み込んで後悔した。その後の胃のムカムカ、不快感。とても耐えられるものではなかった。
 僕は闇雲に水槽内を泳ぎまわって、気分転換に水槽の外に目を向けて、驚いた。人々が僕に向って拍手喝采しているではないか!

 それからだった。僕は毎晩広い水槽に移されるようになり、その水槽の前には人々が集まり、集まったところで水槽の中に様々な動物が放り込まれるのだった。
 それはまったくの拷問だった。
 僕は、もちろんのこと、どんなに腹が減っていても放り込まれる動物を食べることは無かった。それらを食べるくらいなら自分のウンコ食べる方がまだましだった。
 
 また何日か経った。僕の水槽の周りにあれ程群がっていた人間達が段々少なくなっていった。
 そのうち僕は水槽を移されることもなくなった。
 一日中、狭い水槽の中で僕はぼんやりしていた。退屈だった。時々海のことを思い出しては、思い出すのが海のことであることを情けなく思っていた。

 そんなある日のことだった。
 僕を見ていた客の一人が僕に話しかけてきた。唇の動きからその人(女・推定六十四歳)が、『こんな狭いところに閉じ込められて可哀想に。次の会議で世界に訴えなきゃ。』というので、退屈で死にそうだった僕は当然、彼女の問いかけに対して激しく首を縦に振った。
 その瞬間、彼女の顔が強張った。が、すぐに変な微笑を浮かべると、『そんなことないわよね。まったく、どうかしてるわ。』と言うので僕はまたうなずいてあげた。彼女は次の瞬間、悲鳴を上げてその場から走り去って行った。
 僕は眠かったのでそのまま眠りに落ちた。
 夢は悪夢で、鯛の乙姫様を僕は陵辱したうえ、喰ってしまっていた。

 目覚めると僕の水槽の前に、苦虫を噛み潰したようなサーカス団団長と副団長、そしてあの老婆が何やら言い合っていた。
 『だから、そんなことあり得ませんよっ!』『いいえ、私、この目ではっきり見たんです!これは由々しき事態ですわよ!』『まあまあ、落ち着いて下さいよ』
 すったもんだである。
 とうとう老婆が癇癪を起こして叫んだ。『あなた達、アムネスティ日本支部支部長の私がボケてるって言うのね!これは立派な個人攻撃、いや、人権侵害よ!』
 僕はうなずいた。もちろん団長達の意見に賛成、という意味でだ。・・・どうでも良かったんだけど。
 と、三人の動きが止まった。
 そして数瞬後、老婆が体を震わせて叫んだ。『見たでしょ!見たでしょ!』
 
 団長と副団長が顔を見合わせた。『まあ、うなずくサメっていうのも珍しいですな、ハッハッハッハ』僕はまたうなずいた。と、彼らの顔色が変わった。
 『俺らの言葉が分かるのか?』団長が噛み付くような顔を水槽に近づけてきた。僕はうなずいた。
 『お、お前はサメだよな!』副団長が質問した。
 今までこんな水槽に僕を閉じ込めといて不思議なことを聞くヤツである。
 が、まぁとにかく僕はうなずいた。
 三人の間にかなり長い沈黙があり、その沈黙を破って老婆が質問してきた。
『・・・あなた、サメよね?』
 一体どういうことを考えた末に思いついた質問なのだろう?僕はとりあえず、またうなずいた・・・。

 知能テストを受けさせられた。平面上に無数にある形の中から丸や三角、四角を選び出したり、算数や数学の計算をしたり、なかなか楽しいテストだった。僕の点数は一〇〇〇点。この点数は人間でも滅多に取れないそうで、結果が出たときには僕の周りのサーカスの団員達はひとしきり僕に感心していた。

 それからである。
 僕の生活がおそろしく忙しくなった。
 団長があちこちにそのことを言いふらしたおかげである。
 最初、新聞や雑誌の記者たちがとんできた。そしてその新聞や雑誌を読んだ人たちがとんできた。そしてその人たちの話を聞いた人たちがとんできた。僕はあっという間に世界中の人間達に取り囲まれるはめになった。
 
 当然、人は僕をただ見るだけではなく、様々な質問をしてくる。
 その中で一番多かった質問が、『あなたはサメですか?』という質問だった。
 僕はその質問をしてくる人たちに聞きたかった。
 『あなは本当に人間ですか?』

 僕の人気が高まるにつれて、住んでいる水槽も大きくなっていった。
 僕はどんな水槽だろうと構わなかったのだが、体裁を気にした団長が構った。
 今、僕の住む水槽は、あのザトウクジラの水槽よりも大きく、そして金色をした砂 ― なんて悪趣味なんだろう ― が底に敷き詰められている。そして僕は日がな一日、人々の質問に首を振って答えていた。

 そんなある日のことだった。
 僕の水槽の前に、ある一家が僕を見ていた。
 父親、母親、息子、娘・・・これまで見てきた何万組もの家族に瓜二つのその家族はその会話まで、過去の家族にそっくりだった。
 『このサメがそうね』『本当に計算なんてできるのかしら?』そして父親が出てきて僕にこう聞くのだ。『五たす十は?』と・・・。
 質問というのは、その質問をする人間の程度が分かる。
 特に算数(数学)の質問はそうだ。
 子供二人を養っている大の大人の質問が、『五足す十は』とは・・・。

 いくら僕が、かなり気の長い方であっても少々うんざりしてきていた。
 僕が首をかしげて十二回目、父親がポトリとカメラのレンズの蓋を落とした。
 そして間の悪いことに彼は無意識にそれを後ろに蹴り出してしまったのだった。
 
 僕は、さてそれを伝えようにも言葉が通らない。
 そこで僕は、底にびっしりと敷き詰められていた金の砂に鼻で字を書いて知らせたのだった。
 『カメラの蓋、後方』。
 残念ながらその一家は『蓋』という漢字が読めなかった。
 しかし、僕が字を書いたことは衝撃だったらしい。
 
 またまた団長が、今度は全速力でやって来た。
『じ、じ、じ、じ、字が!書けるのか?』
 僕はうなずき、床に『書ける しかし この砂底 劣悪悪趣味』と書いた。
『おおぉぉ~』
 驚きの声を上げる団長、そして周りの人間たち。誓ってもいい。
 『劣悪悪趣味』を読めた人間はその中にいなかったのだ。
 なぜなら、彼らはそれからかなり時間が経っても僕に『砂談』させるだけで、マッキンキンの砂底を換えようなんて言う人間は一人もいなかったのだから・・・。

 人語を解すどころか文字も書けるサメがいる、というニュースはどうも人間界をさんざん駆け回ったらしい。
 あくる日から僕のいるサーカスには様々な人間が集まってきた。黒、黄色、白、橙、灰色・・・。そしてその人々は皆一様に、文字を書く僕の姿に驚き、その文字が意味をもっていることに驚くのだった。
 僕は世界中の水族館に呼ばれ、研究施設に招かれた。そのうち、世界中を駆け回る僕のスケジュールは、週刻みから秒刻みになり、ホッと息をつけるのは移動中だけ、となっていってしまった。
 
     ※

 インド、アフリカを廻って、数ヶ月ぶりに僕はサーカスに帰ってきた。
 そこで僕を待っていたのは大量のファンレターだった。そのほぼ八割は僕への賞賛、一割は誹謗中傷、そして残りの一割は僕を題材にした、小説、詩、詩、歌の歌詞(目の前の出来事を歌詞にするなどという鳥肌の立つような人間というのはやはりいたのだ、と妙に感心してしまった)などなど。

 そしてその中でも奇妙だったのが人生相談の手紙であった。
 僕への手紙は一応団長も目を通していたのだが、その人生相談の手紙をしばらくぼんやりと見ていた団長の目の色が突然変わった。
 黒色から金色への変化。
 それは、新しいビジネスの思いつきだった。

―サメの人生相談―

 たったこれだけの広告で、世界中からなんと五千二百六十二万三千五百三十二の相談が寄せられた。これでも、一人が何枚も出してきたような重複する手紙は省いてある。一回の相談料を一万円にした、と団長は言っていたが、彼のことだ、おそらくもっと取っていただろう。

 ちなみに、その五千二百六十二万三千五百三十二件の相談のうち、僕が目を通したのは五件だけだ。団長によって厳選された五件というのは、一国の首相であるとか、国際的な巨大企業の社長であるとか、そういったものだ。
 それにしても・・・
 『年頃、娘がダイエット中でなかなかご飯を食べてくれない。どうすればいいか?』という質問は、ある国の独裁者からのものだった・・・。
 他の、五千二百六十二万三千五百二十七件の相談への答えは団員、そして秘密に雇ったアルバイト達が適当な答えを書いて送っていた。

     ※

 あっという間に時は経ち、いつの間にか年の瀬となっていた。
 僕は相変わらず忙しく世界中を駆けずり回っていたが、ある水族館でばったり師匠に出会った。
 
 その頃、第二の僕を探そうと、個人で、会社で、また、国を挙げて世界中でサメを捕ることがブームとなっており、師匠が捕らえられているのも無理は無かった。師匠は僕を見て言った。
「おい、えらく羽振りが良さそうぢゃねぇか。罰はどうした?」
「はぁ、ありましたねぇ、そんなの・・・。」
「あんだと!」
 師匠は相変わらず短気だった。
「何だかここで成功しちゃったんで・・・。師匠とのことはもう、ホント、微かな記憶しかなくて。」
「この野郎!お前、俺をナメたら・・・」
「・・・うふっ。あ、すいません。」
「くっ!・・・まぁいい。ぢゃ、ここから俺を出せ。」
「うーん、無理じゃないかなぁ~。」
「無理なことあるか!お前が来るってだけで水族館中が大騒ぎになるくらいだ。俺をここから出すくらいは容易いことだろうが、あ?」
「いや~、どうかなぁ~。まぁいちおー聞いては見ますけどねぇ。どぉかなぁ~。」
 
 ぼくはししょうをたすけるためならたとえこのいまのちいをすててもいいとさえおもっていた。

「絶対聞けよ!」
「う~ん、頼まれるときにそう怒鳴られても・・・ねぇ。なんか脅迫されてるようで・・・ねぇ。」
「わ、分かったよ。すまん、悪かった。なぁ、頼むよ。こっちの館長に聞いといてくれよ。」
「はぁ、まぁ、聞かないことはないっすよ。ここの館長も誠実ないい人のようですし、僕の意見の一つくらいなら聞かないこともないんじゃないですかねぇ・・・たぶん。」
「なぁ、頼むよう。元はといえばお前を旅に出したのは俺じゃねぇかぁ~。」
「はぁ・・・。元を辿ればそうなりますねぇ。そしてもうちょっと辿ると僕らの先祖がプランクトンだった、と言うことも言えるでしょうねぇ。」
「・・・?まぁ、さ、ほら、友達じゃねぇかよ。」
「師匠・・・、でしたよね?」
「いやいやいや、そんな他人行儀に呼ぶなよぉ。俺のことはホオちゃんって呼んでくれよ、これから。」
「はぁ、そうですか。」
 とその時だった。

『・・・というわけでですねぇ。忙しいっていう状態にも限度というものがありましてな、ハッハッハッハ』
 団長だった。
 団長の横にはまるで風船のように膨れた男が、まるで団長にへつらうようにヒョコヒョコと歩いていた。
「あいつだぁっ!あいつがここの館長だ!ちょうどいい。今、あいつに頼んでくれよ!なぁ?」
「・・・わかりましたよ。」
 僕は彼らが近づいてきたとき、コツコツと鼻でガラスを叩いて彼らの注意を引いた。
『ん?どうした?』
 団長と館長が二人、近づいてきた。僕は底の砂にこう書いた。

―向かいにいるホオジロザメ言う 居心地最高 いつまでも置いてくれ―

『ほお~。さすが世界に名だたる水族館ですな。動物達も幸せでしょう。』
『いえいえいえ、そんなにおっしゃってもらっては・・・。まぁ、うちも飼育には多少の自信がございましてですね。ホッホッホッホッ』

「おいっ、どうだ?」
 師匠が言った。
「何がですか?」
「もうっ!とぼけちゃってぇ!俺を海に帰すって話だよぉ!で、帰してくれるってか?」
「ああ、その話ですね。はいはい。帰してくれるそうですよ。」
「おおおおおお!あなたは一生の恩人だ!俺に出来ることあったら何でも言ってくれ!」
 師匠は泣いていた。
 感謝されるとやっぱり気持ちいいものだ。
 何年か、もしくは何十年か先には彼もきっと心の海に戻れることだろう・・・

 師匠と出会った水族館からの帰り道、僕の入った巨大な水槽を載せたトラックは海辺の道を走っていた。真っ赤な夕陽がちょうど水平線に消えようとしていた。

 もう僕が海に戻ることはないだろう。
 僕はここでさらに成功し、そして死んでいくことだろう。
 何かが僕の胸にこみ上げてくるような気がした・・・が、おそらく気のせいだろう。


「サメんなった男」 了

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?