てんかんと私③

 気を失うということが何度か続き、母が私を地元の子ども病院に連れて行ったらしい。ここで「らしい」と書いたのは、病院の記憶が全く無いためである。母に突然平手打ちされたことやプールの授業に参加出来なかったことは鮮明に覚えているものの、何故か病院の記憶が全くない。病院の……正確には「診察」の記憶がない。
 病院を出たところに人力で移動する昔ながらの石焼き芋屋さんがいて、そこで焼き芋を買ってもらえて嬉しかったことはよく覚えている。ちょっと焦げた皮を剥き、口の中が火傷しそうなくらい熱い焼き芋をちびちびと食べるのだ。スーパーで売っているものでも、家のオーブンで焼くものでも駄目だ。もう今は食べられない、あの石焼き芋が食べたい。

 さて、てんかんと診断された私は薬を飲むことになった。発作自体は小1の時に出たのみだが、薬は小学校を卒業するまで飲み続けていた。
 小5の時の担任が依怙贔屓の達人で、活発な児童が大好きなようだった。活発とは正反対の場所にいる、友だちはいない、運動はできない、勉強はまあまあの私はこの担任から大いに嫌われていた。図工で作った作品を「汚いから持って帰って」と言われた日のことは決して忘れない。
 そんな担任がある日、神妙な面持ちで私にこう尋ねてきた。
「体調はどう? 薬は飲んでる?」
 私のことが大嫌いな担任が、私のことを気にかけている。これは私が考えている以上に私の身体に何か重大な問題があるのだろう、何も考えずに飲んでいる薬は余程重大なものなのかもしれない。でなければ、この担任が私を心配する筈がない。
 大嫌いな担任の言葉で私は、自分の身体のこと、薬のことに疑問を持つようになった。ただ、母にその疑問をぶつけられるようになったのは疑問を持ち始めてからずっと後のことで、大学生になってからだった。

 両親の離婚のストレスでてんかんを発症したと聞かされた。
 それを聞き、私は妙に納得してしまった。両親の離婚が決まった日の朝のことはよく覚えている。脳に異常が生じるくらいの地獄だった。


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