能力なき者にニヒリズム脱却は必要なのだろうか
ここで言うニヒリズムとは、
「そんなに頑張らなくていいじゃん。まぁまぁでも楽しく生きていけるじゃん?」
という思考のこと。末人だ。
つまりこの間書いた「危うく一生懸命生きるところだった」の考え方だ。アクシズ教の教えだ。
だがニーチェはそれを超え、出るかどうかもわからないジョーカーを求めて延々とカードを引き続ける事、つまり超人を目指せと説いている。
それはまぁいい。そう生きたいなら生きればいいと思うし、その生き方は果てしなくカッコいいとも思う。すげーとも思う。
だがしかし。駄菓子菓子。それは能力のある者だからこそ出来る生き方なのではないか。アレがやりたいこれがやりたい、俺はこれを一生やっていくという物がある者の生き方なのではなかろうか。
この世界には、この社会には明らかにスペック差というものが存在している。
いやいやそれはそれぞれ個人が頑張ってきて得た能力じゃないか、という人も居るだろう。確かにそうである。そういった側面もある。
だが僕が考えるに個人の能力というのは、幼少期にどのような環境で、どのような親に、どのような育て方をされたかで決まってしまうものだ。
その後の人生で本人が頑張って能力を得たり上昇させたり出来るか出来ないかもここですでに決している。
高校生になる頃にはもう既にその人の人生は決していて、他者との差はもう埋まらないということだ。
僕はそれを先祖代々昔からその場所に住み、仕事も代々受け継いできた人達と接することで知った。生き方、育てられ方、育ってきた環境が違いすぎるのだ。あぁこうして親から子へ渡していくんだ…だからこの人達はやったら強いのか…と、あの人達の強さのルーツを僕は知った。
そうなったときに。そうではない僕らもニヒリズムを脱却せねばならないのだろうか?という疑問が生じる。
超人を目指すことの出来る人達は幼少から能力の種を植えてもらえている。そして土やら日当たりやら良好な環境に置いてもらうことが出来ており、毎日水ももらっている。
かたや僕らはそもそも種がない。頑張れ頑張れ言われるが、頑張る種が僕らにはない。種もないところに日を当てたり土を変えたり水をやったりしたところで何かが出てくるわけがないのだ。
そうなったときに。そうではない僕らもニヒリズムを脱却せねばならないのだろうか?という疑問が生じる。
正直その答えはわからない。
超人を目指すのも、末人のままで死ぬのも個人の選択だ。超人を目指せなどとは口が裂けても言えないし、末人じゃ駄目だとは僕は思わない。
だがこの社会を生きる以上、超人を目指すべきだとも思う。今回のコロナの一件でその方向はより強くなっていくだろう。
だが、どちらを選ぶかは本当にそれぞれ個人の選択だと思う。
それにしても僕は気づくのが遅すぎた。もうアラサーだ。正直0歳から人生やり直さないといけないと感じたが、そこから人生やり直してると60歳だ。そもそも子供の1年間は僕らの3年くらいあるから、人生やり直している間にやり直し切る前に僕は死んでしまう。
ならば今更超人を目指したところで遅いのではないか?
どうせ何も達成できずに死ぬのなら末人のままで別にいいのではないか?
天の邪鬼でどっち付かずな僕はとりあえず、末人としていきながらとりあえず暇なときに種だけでも探そうかな、という生き方をすることにする。
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