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史実から読み解く、抹茶の本当の旬って?

日本に抹茶文化がもたらされたのは今からおよそ800年前。鎌倉時代初期に留学僧の栄西が中国から持ち帰り広まったとされています。一方で加工用として使用する抹茶の歴史はまだ浅く、その第一歩目を踏み出したのは1943年に軍用サプリメントとして開発された「抹茶錠」でした。
時が経ち、お菓子として「抹茶を食べる」文化が本格的に広まったのは平成に入ってから。ハーゲンダッツ社が1996年に開発した抹茶味アイスクリームの大ヒットがその一因と言われています。

抹茶の味わいは、今や日本のスタンダード。特に秋は一年で最も美味しい抹茶が楽しめる旬の季節とされています。

しかし、抹茶=秋のもの、という認識は必ずしも適切ではないと専門家は言います。その真相は、積み重ねられた歴史のなかにありました。

茶壺を運ぶ、1000人の行列

「茶の湯」が武家社会に生きる者のたしなみとされた戦国時代。他の地域に先んじて被覆栽培を行い、抹茶の原料となる碾茶(てんちゃ)の生産を実現した宇治は、将軍家の庇護を受けていました。

なかでも江戸幕府を開いた徳川家康は大の茶好きとして知られ、幕府は将軍御用の宇治茶の上納を命じて宇治に採茶師を派遣しました。
採茶師は毎年4月下旬〜5月上旬に宇治から茶葉の生育状況の報告を受けると、空の茶壺ともに江戸を出発。茶詰めは彼らが宇治に到着して9日目に茶道頭立ち会いのもとで始まり、碾茶を詰め終えると茶壺は厳重に密閉されます。
今度はこれを江戸まで持ち帰りますが、帰路の道すがら駿河の国(現在の静岡)の山間地に立ち寄り、気温の低い大井川上流や井川大日峠の蔵で一定期間保管されるのが通例とされていました。

冷え込みが増し空気が乾いた11月になると、茶壺は山から降ろされ江戸まで運ばれます。これを「お茶壺道中」といい、徳川家光の時代には制度化されました(1633年〜)。お茶壺道中は毎年規模を拡大し、時には1000人以上の人たちが100を超える茶壺を運ぶ大行列になったといいます。

出典:「御茶壺之巻」国立国会図書館デジタルコレクション

一方、茶壺が道を通る際には周辺の田畑の耕作を禁じられ道の掃除を命じられた庶民たちにとって、お茶壺道中は煩しい存在でもあったようです。

「ずいずいずっころばしごまみそずい 茶壷に追われてトッ(戸を)ピンシャン、抜けたら(通過したら)ドンドコショ(やれやれ、と息をつく)」

この童歌は、お茶壺道中に耕作を邪魔された百姓たちによる風刺の歌とも言われています。

抹茶で祝う、茶人の正月

出典:「御茶壺之巻」国立国会図書館デジタルコレクション

さて、山から降ろした茶壺を開封するのは当然将軍の役目。これを「口切り」といい、茶道の世界の伝統行事として今日まで伝えられています。
現在も全国の茶家で毎年秋に行われる「口切りの茶事」では、徳川の時代と同じく密閉された茶壺から茶葉が取り出され、茶臼で挽いて点てた抹茶が主人から客に振る舞われます。
口切りの茶事は別名「茶人の正月」とも呼ばれる厳粛なもの。この日にあわせて茶室の畳や障子を張り替えたり、竹垣を青竹に替えたりと、茶業界では新しい年を迎える準備が整えられます。

ではそもそもなぜ徳川家康はわざわざ碾茶を保管して秋に飲んだのか。それはやはり、秋のお茶が美味しいと感じていたからでしょう。
採れたての新茶は青臭い。しかし一定期間寝かせることで、青臭みが落ち着き苦味もまろやかになり飲みやすくなる。というのが、古くから続く茶業界の常識でした。
茶葉を寝かせることで起きる風味の変化は「後熟(こうじゅく)」と呼ばれます。後熟させるためにはただ寝かせるだけでなく、低温・密閉状態であることが条件とされ、この条件が満たされることにより旨味豊富で苦味の角がとれた碾茶がつくられました。

しかしこれはあくまでも当時の在来種での栽培、当時の技術でつくられた碾茶の話。
品種改良された現代の茶葉はそもそもの苦味が古い品種よりも抑えられているため、昔ほど保管期間を設けずとも旨味と苦味のバランスがとれた良質な碾茶がつくれるという見方もあります。

また、人の好みも多様化の一途を辿るなかで、青々しい味わいを好む人も当然出てきます。そのため、近年では5月に採れたばかりの碾茶を使った「新抹茶」など、これまで知る人の少なかった抹茶の魅力を紹介する茶園も徐々に増えてきました。
口切りの茶事にあわせて秋に出回ることの多い抹茶ですが、季節ごとの味わいに目を向けてみると表現の幅も広がるかもしれません。


星野製茶園(記事監修)
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