アンコンの記憶

今日は「元弱小吹奏楽部員の記憶(4)」です。これは私が5年生の時の記憶で、吹奏楽に関する思い出の中で、一番幸せなものの一つです。この思い出を、一番文字にして残しておきたかった。削るべきところも全部書いてるから、激長になっちゃった。

また当時の仲間に会えたら、私は感謝の気持ちを伝えたい。こんなにも楽しい思い出をありがとう。どうしようもないクズの私だけど、あの時こんなにも温かく接してくれてありがとう。彼女たちにとっては取るに足らない出来事かもしれないし、あるいは全然幸せな思い出ではないかもしれない。私の記憶が都合の良いように解釈して、一方的に楽しかったと思っているだけかもしれない。むしろその可能性は高い。これこそ自己中心的な考えに他ならない。でも、でも!

それに、私はいつまでもどこまでも愚かだから、幸せに気づくのにこんなにも時間がかかってしまったし、それにもし会えたとしても、口では「ありがとう」の言葉がでない気がする。だからせめて匿名で、誰も見ていないインターネットで書き込みたい。


〈練習が始まるまで〉

アンコンメンバーが先生の口から発表された。

「バリトンサックス、○○」

なんだって?!何人かの部員が私の方を見た。この発表は私にかなりの衝撃を与えた。全くの寝耳に水だった。いろんな考えが一気に巡って、頭がジーンとする。

「……っ、はい!」とりあえず、指示通り返事をして起立した。

まず、選ばれて嬉しい気持ち。次にテナーじゃないのかという落胆、そして1つの懸念が湧き上がる。それは私はこのままバリトンサックス担当になってしまうのではないか、ということだった。


昨年、バリトン担当だった6年生が引退し、一体誰がポジションを継ぐのか、サックスパート内でちょっとした小競り合いがあった。主に同級生のアルトの男の子と私との間で、だ。低音は楽器が大きいだけでなく、人数も少なく負担が大きいため、安易に新入部員に任せるわけには行かない。証拠にチューバの後任も、バスクラの後任も、新5年生(つまり同級生)になった。ちょうどこの年は低音パートの代替わりでもあったのだ。ならば当然バリトンも、となるのだが、私たちはと言うと、どちらも今のポジションを退く意思は全くなく、先生からの打診をきっぱり断った。そして今の楽器がぴったりなんだと主張するように、心なし熱心に日々の練習に励んでいたものだった。(今思えば、この様子は少し滑稽だったかもしれない)先生もことを荒立てないようになのか、私たちへの交渉は止め、結局バリトンは空席のまま保留となった。
そんなところへ新しく4年生が入ってきた。初めはテナーを練習しながら。だんだんと先生のすすめで、バリトンも練習するようになっていた。それで、あれよあれよと自由曲を練習し始める頃には、バリトンを任されていた。彼女は、全く気が進まないようだった。「この曲を1年間やってみて、全然だめだったら、次の年からはテナーに。今年はどうかお願いしてもいいかな」という条件付きで、「便宜的に」バリトンになった。背も高いわけではない、体の細い、初心者の女の子が担当に就いたのだ。そのまま楽器を構えると座高が足りなくて顎が上がってしまうし、逆に高いピアノ椅子にすると足がぶらぶらしてしまう。持ち歩く様子は本当に重そうで、断固拒否した私は、少し気の毒になってしまうほどだった。それでも、愛着の湧いたテナーから離れるなんて絶対にごめんだ!

私が今後バリトン担当になる可能性は十分にあった。彼女がまだテナーに戻りたいと思っている、かつ私がアンコンでバリトンをやってみて結構良いじゃん、となってしまったら、来年からは私が担当になってしまうかもしれない!そもそも背が高く、テナーという時点で、もう1人の男の子よりも適任だったのだ。やっと突っぱねて免れたんだ。絶対に避けなければならない。私は地味で重い楽器なんて、やりたくないんだ!

となると、私はこの発表を受け入れても本当に良いのだろうか?いや良くない!かといって「できませ~ん」などど辞退するなんてのは、プライドが許さなかった。この年は6年生が少ないことを理由に、出場チームが3チームから2チームに減らされており、出場できる人数が少なくなっていた。そんな中で選ばれるという名誉に自尊心は満たされ、その後の仲間達からの祝福という心地よさも、私の心をいっそう煽った。舞い上がる一方で、頭の片隅では不安が頭をもたげる。あー、母親にもなんて説明すれば良いんだろ。母親はバリトン騒動の際に、いけいけそのまま突っぱねろー!と応援していた側だ。親心としては"地味”な楽器はやってほしくなかったんだろう。

この問題に加えて、選ばれなかった同級生に、なんと声を掛けたらいいのか、という問題もどっと押し寄せた。親友のみさちゃんは、メンバーに呼ばれなかった。とても気落ちしていた。私は、ホルンの枠はたった1名だからとても難しかったよ、言うくらいしかできなかった。あー最悪だ、ダメダメだ。思いやりある言葉一つかけられない。なんて気の利かないやつなんだ。自分が全く嫌になってしまうな。

そう、この年のアンコンは、私以外にもかなり波乱があったようだった。出場チームが少なく、2チームのみと宣言されたり、トランペット2ndをめぐって5年生と6年生がオーディションすることになったり、パーカッションが2枠しかなくて3人の6年生全員が出場できなかったり、ユーフォニウムの6年生が既に出場を辞退していたことが判明したりしていた。うまく6年生が全員出られるように、さらに5年生もなるべく出られるように、穏便な編成をしてきた今までが、全く変わったのだった。最大8×3=24が、8×2=16に。これは結構な違いだ。(6年生の人数が少ないから、というのが2チームにした理由だったのは覚えているが、ちゃんとした理由になっていないと思う。ちょっと少ないだけじゃないか。じゃあ、5年生だけのチームができちゃうから?まとめる6年生が少ないようなチームができちゃうから?人数増えるとそんなに質が落ちるわけ?)

帰宅までの道のりも、グルグルと考える。そもそも選ばれなければ、こんな複雑な思いになること無かったのに!今年は出場グループが少ないから、6年生優先、私は出られなくても全然構わなかった。例年だったら確かに残念だとは思うけど、少ないんだったらそりゃしょうがないってことよ。それが、今までやったこともないのを、この短期間でマスターしろだって?!同じサックスだからって低音じゃあ訳が違くないか?!今更ながらだんだん憤慨する。私、ただの数合わせみたいに思われてるんじゃないのか?いいように使われているというか。どれをやっても大してうまくもなく、なんとなくやってるからって、私なんてなんだっていいんだろう?!今年の大編成はピアノも担当だった。あれだったら、私じゃなくてもいいのに使いやがって!!!あーあ、私もほいほい受け入れちゃうし、流されやすすぎるんだ。

とにかく、嬉しさ、落胆、自信・プライド、不安、自己嫌悪、憤慨など。とっちらかった思いがバラバラに交錯して、くたくたになって帰宅した。

ただ、そのうちの1個はすぐに解決することになる。母にバリトンの担当になったことを恐る恐る伝えたが、思ったような咎めはなかったと記憶している。全く拍子抜けだ。「アンコン出れるのすごいじゃん」「新しいの挑戦できるんだからいいんじゃない」「またもとに戻れるんだし、やってみたらいいじゃない!」と明るく言われた。最後の言葉には少しぎくり、としたが、まあひとまず問題は解決したのである。

(とはいえ普通は、担当発表の前に先生から前もって知らせられるものではないか?根回しがあるだろ、根回しが。なるべく穏便、がウチのやりかたじゃあないのかよ。中学校のアンコンの時は、顧問から「アンコンの間だけバリトンやってくれませんか」とちゃんと話があったぞ。ハッキリ覚えている。でも小学校の時は全然記憶にないんだよなあ)


このメンバー発表があったのが、9月中頃のことだった。


〈練習開始〉

10月頭の校内音楽祭が終わり、練習が本格的に始まることになった。(この年はどれも予選落ち、上位大会には進めなかったので、大編成は一旦解散という形になった。よって我々はアンコン練習に専念することになったのだ)

音楽祭翌日。朝の音楽室に、アンコンメンバーだけが集合した。なんだかんだ、初めての顔合わせだった。チームごとに整列して、今後の予定を掲載したプリントが回され、先生の話を聞く。外は曇り空で室内は薄暗く、こころなし冷たい風が、窓を揺らしていたように思う。紛れもない冬の足音によって、もう2ヶ月も立たないうちに本番であることを気付かされた。

私たち混合八重奏チームは、Fl、Cl1st・2nd、BsCl、A.sax、T.sax、B.sax、Percという、木管+打楽器からなる編成だった(以下木管チーム)。B.Clの「もっちゃん」と、B.saxの私が5年生で、他の6人は6年生だった。全員女子である。

もう一方のチームは、同じく混合八重奏、Tp1st・2nd、Hr、Tb1st・2nd、Euph、Tub、Percという金管+打楽器の編成だった(以下金管チーム)。こちらはTp2nd・Tb2nd・Euphが5年生、他が6年生である。

全員の人となりは知れている。現6年生は皆とても優しく、とても仲が良かった。優しい&仲良し、厳しい&仲良くないという学年の傾向は、概ね交互にやってきていた。つまり私たちの学年は後輩に厳しく、あまり仲が良くない学年だったわけだ。まあ、仲が悪いわけではないのだが、女子グループの派閥がいくつもあって、男子グループとの隔絶がある、そんな学年だった。しかも後輩をいびっていた。私も割と厳しくやってたしね……無論そのような態度は中学校では改めた、ということは言い訳させていただきたいが……一方で6年生たちは、全員でかたまってお弁当を食べることもよくあったし、わけのわからないボケをする流れを作って、顧問を笑わせていることもしょっしゅうだった。

さらに素晴らしいことに、そういうノリに後輩も混ぜてくれるのだった。おかげでパート練習の休憩時間には、追いかけっこをしたり、じゃんけん大会をしたり、腹筋大会をしたり。お昼の時間にはデザート交換をさせてもらったものだ。また小学生の時点では「先輩」呼びも敬語も浸透しておらず、「○○ちゃん、ゼリーあげる!」となんて声を掛けていたから、きっと私たちは学年の隔てなく接していているように見えていたと思う。

アンサンブルの練習もごく自然に、こんな風な穏やかな雰囲気で始まった。


私はまず、バリトンサックスに触れる所からだった。初日は後輩のを借りて吹いた。圧倒的首の重量感、顎の使い方、腕の位置、身体の振動する箇所、全てがちょっとずつ違っていた。でもそれは本当にさいしょだけで、ロングトーン、タンギングの基礎練習をしてみた後は、「結構しっくりくるな」とすぐに馴染んでしまった。キーを下ろす重さ、パタパタする音なんかとっても心地よいし。その間パーカッションの先輩は楽しそうに楽器を配置していた。シロフォン、ビブラフォン、サスシンをこう置いて、マレットはどうやって置こうかなぁ、みたいに。クラの先輩はもう譜読みを始めていた。「これ音源で聞いたメロディー!」と、さらりと譜面をなぞる。それに気付いたアルトの先輩も「それ私もあるー!」と吹いてみせた。

以下はメンバーについて

フルートの先輩…背が高く、髪はショートカットで、話し方なんかも、母曰く「アンタに雰囲気似てるね」とのこと。一番近所に住んでいて、小学生の頃は遊んだこともあった。私の父親を「おいちゃん」と、独特な呼び方をする。4歳離れたお姉さんがいる。(アンコンの打ち上げをしよう!となったときに、うちは今年お姉ちゃんが高校受験でピリピリしてるからダメだな、と言っていた)ぼそっとツッコむので、「ちょいちょいもっかい言って!」と繰り返してもらって、2回笑っちゃうことになるタイプだった。

クラリネットファーストの先輩…仕草や言葉選びがとっても可愛らしい先輩だった。天然、というのかしら。変なところで急にツボに入って涙を流しているし、合奏中にリードを直していたら、リガチャーを吹っ飛ばしたこともあった。「なんで?!」と先生も笑っていた。

クラリネットセカンドの先輩…このチームの唯一の良心だったかもしれない先輩。他のメンバーがバカやっているところを、優しく笑って見ている感じ。年の離れた弟さんがいたようなので、そのせいなのかもしれない。練習をサボったりしない、ひたむきな先輩だった。

アルトの先輩…チームリーダー兼副部長。しっかりしているけど、しっかりふざける。明るくて優しいので、自然と輪の中心にいるような先輩だった。クラリネットファーストの先輩と、トランペットの先輩とのトリオが、おふざけの戦犯になっているイメージ。

テナーの先輩…直属の先輩。初めて会ったときは怖い先輩なのかな、と思っていたけれど、実際は面倒見が良くて、ひょうきんなところもある先輩だった。それと、チーム内で一番よく運動ができる。チーム内縄跳び大会一位。おそらくそれゆえに、リズム感にも優れていた。

パーカッションの先輩…オシャレさんでクールな感じの先輩だった。クールにじゃんじゃんボケるからすごい。パーカッションの人っていうのはなんであんなに面白いんだろう。耳が早いのはこの先輩。自分は大編成の時にピアノ担当だったので、主に鍵盤系担当の先輩とは、合奏中に結構しゃべっていた。

バスクラのもっちゃん…幼稚園からの幼なじみ。家も隣同士で、クラスも一緒なのでかなり長い時間一緒にいた。(休日も遊び、交換日記をするくらい仲が良かったのだが、一年後に信じられないくらいの大ゲンカをすることになる。仲直りはしたものの、それからはちょっと距離を置くことになってしまった)ちょっとオタク気質なところがあって、自分と考えることが似ていたのでよく気が合う友人だった。

というように、個性的なメンツが揃っていたのだった。


ここからは練習の風景をバラバラと書き連ねる。

・私たちのホームは「学習準備室1」だった。学習準備室とは名ばかり、古いおはじきや算数セットがぽつぽつと雑多に置いてあるだけの部屋だった。児童が多い昔はちゃんと教室だったらしいし、私が低学年の頃は鉄製の棚が置かれて「準備室」の様相を保っていた気がするが、今は全くただの空き教室だった。積もった埃をゲホゲホしながら掃除した後、隣のパソコン室から椅子、そしてストーブを運び込まれて私たちのホームとなったわけだ。

・だいたいのところ私が一番乗りに練習にやってくるので、窓際で黄昏れながら音出しをしていた。練習がないみさちゃんも一緒に音出しをしてくれた。練習ないからって楽器に触らないとなまる、と。ちゃんとしてるね。がらんどうの教室に響くホルンとバリトンの音。落ち葉の舞う季節にちょうどよい柔らかさと、朗々とした強さがある。

・この頃には、楽器庫から引っ張り出してきたボロボロのバリトンが私の相方だった。彼女はその見た目からは思いもよらない、凛とした音を奏でた。前の主人がよく可愛がっていただろうことが伺えた。私はそんな彼女をいたく気に入り、ピカピカの楽器よりもこちらで大会に挑もうと心に決めていた。あんなに嫌がっていたのに、こうも愛着が湧いてしまうとは不思議なものである。

・ぬいぐるみ型のキーホルダーでキャッチボールをしていた。しばらく遊んでいるとそれが急に消えてしまった。「あれ?どこいった?」探せど探せどちっとも見つからないので、その日は諦めた。
後日、バリトンの中からそれが出てきた。「え?!キーホルダー出てきたんだけど!」「え?!どっから?!」「多分…バリトンの中…」爆笑。「それじゃあ見つからないわ」「この2週間くらいキーホルダー入れっぱなしで演奏してたってこと?」「なんで今になって出てきたの」「キーホルダー、緑の汚れ付いてんじゃん。ゲバゲバ?!」「うえ〜〜〜」

・準備室にはでんぷんのりが沢山置いてある。練習の最中、パーカの先輩が「そういえば、でんぷんのりって食べられるらしいよね」と言い出した。そう言われれば、食べるしかないじゃないか。「じゃあ、私食べる!」と宣言すると「らんちゃんやばい!」「いけいけ!」「ほんとにだいじょぶ?!」と声が飛んだ。
指先にニュッと出してもらって、ペロッと舐める。ゴクリ。「…どんな味?」「別に味しないかも!」「うそ~~~」「ほんとに~~~?」「じゃあ私も舐める!」
先輩も同じように指にちょこっと出して舐め、「まずい!!!」と言い放ち、爆笑が巻き起こった。

・メトロノームが鳴っているだけで面白い、というのは割とあるあるだ。じゃあ何小節目からやります、と言ってザッツまでの少しの沈黙の間に、誰かが「ブフォ」と吹き出す。「ちょっとぉ~」「○○ちゃん笑わないでよ~」と口では言うものの、もう次の瞬間からメトロノームの音がおかしくて仕方なくなるのだ。

テンポに合わせて「にゃ」「にゃ」「にゃ」「びょーん!」みたいに声を出す流れになったこともある。ちょうどゲームの「たけのこにょっき」のような具合である。「にゃ」が他の人と被っちゃうだけで爆笑できる。

・「そういえばさ、今年の6年生送る会ってやっぱり○○?」とクラ1の先輩が聞く。ウチの吹奏楽部では、毎年3月のサンクスコンサートの後、6年生を送る会と称して部員全員で遊園地に行くのが恒例だった。
「それがね、うちのお母さんが今年はディズニーランドも検討してるって言ってたんだよ」お母さんが保護者会をやっているパーカの先輩が言う。
「マジで!!!」全員で同じ反応をしてしまった。
「やば、絶対行きたい」「ディズニーランド!!!」「めっちゃお願いしよう、みんなで!?」
とそこからはひとしきり、みんなでディズニーランドに行ったらという話で盛り上がった。お揃いのカチューシャつけよう、ポップコーンは何味派か、ビックサンダーマウンテンは大丈夫か、ミッキーに会いたい、など。可愛らしい小学生の会話である。結局それは叶わなかったのだが……

・毎週水曜日が「プチ発表会」だった。そこで互いのチームの進捗を確認することができた。最初は顧問からのダメ出しの嵐だったのに、ピッチが安定し、連符がハマり、テンポアップし、呼吸が合っていくのが明確に分かるのはかなり愉快だった。(恐らく我々側もそうだっただろう)
金管チームの発表を廊下で聞いている間、私はその演奏に合わせて振りを付けて踊っていた。飛び跳ねたり、脇をワキワキさせたりするちんちくりんな振り付けは結構ウケた。繰り返しやっているうちに、アルトの先輩、テナーの先輩…と順々に伝染していき、最終的に金管チームの人達も踊ってくれた。そのメロディーが聞こえるたびに、ちんちくりんなダンスをすることが定例となった。

・外部の講師の先生がいらっしゃって、グループごとに指導をしてくれた。その先生は、町内の小中高校全てがお世話になっているおじいちゃん先生であった。先生は、「まずはちょっと聞かせてもらえるかな」といって演奏した後は、必ず「大変結構!」「大いに結構!」と言ってくださった。その後で指導が入る。この「大変結構!」が一番嬉しかったかもしれないな。小学生にも分かりやすいように例えを使ったり、リズムに言葉を当てはめたり(らーららーヤマダハナコさーん(三連三連)、とか)、楽しいレッスンだった。イタリアでタクシーに急いでもらいたいときは、「アッチェレ!」って言うってほんとですか?大会本番にもほとんどかけつけてくださって、本当に熱心にこの町の児童生徒を応援してくれているのだな、と有り難く思った。

さて、先生のレッスンが終わって、木管チームだけ先に帰るわけにはいかないので、金管チームの終わる遅い時間まで別室で練習していたことがあった。ストーブがガンガンに効いて、ぼうっとする暖かさだった。頭がふわふわする感じだ、笑い出すと止まらなくなる現象は、そういった部屋では一層拍車がかかった。その上夜遅くて眠いので、終始ハイテンションといったところだ。その部屋から抜け出して、廊下に出る瞬間は、なんともいえぬすがすがしさがある。火照った頬に、外気が心地よい。(今は建物は全館暖房多過ぎなので、こういう場面は滅多にない)向こうの音楽室から先生の声がする。学校にはもうわたしたちしかいない。外は真っ暗で、窓には私の顔が映った。

・ホール練習もした。いつもは50近い人とたくさんの楽器で埋め尽くされている舞台は、すかすかである。少々心細く思われるが、全くそんなことはなかった。ただお金がなくて暖房を点けられなかったので、めちゃくちゃ寒かったのは堪えたな。みんなコートやジャンパーを着てはいるものの、手も口も動かなくなるし、ピッチはダダ下がりだし、動きづらいし。文句は言えないんだけどね……

ホール練習まで大詰めにかかってくると、唇が切れるようになった。バリトンは少し噛む力が強いのか、久しぶりのことだった。あまりの痛さに一瞬演奏を中断してしまい、他の全員も吹くのを止めて、曲が完全にストップしたことがあった。この瞬間は、さすがに肝が冷えた。私が消えると、本当に大変なのかも知れない。大編成では感じたことのない緊張感が走って、背筋が凍った。いつもヘラヘラしている私も、本気で、すみませんと謝った。先輩達は大丈夫だよ、と言ってくれた。

・5年生同士の交流は、意外と少なかった。別のチームだとどうしても話をする機会に恵まれないものだ。けれども時たまかち合うと、彼らはかなりシリアスな表情をしていた。曲の完成度への危機感、あるいは意見の対立への疲労感によるものらしかった。(中学に上がってもそうだったのだが、金管チームはやや行き過ぎなくらい真面目である。「反省会」がしょっちゅう開かれている)

・目配せをしたり、ザッツを出し合ったりするのが面白かった。ウチの吹奏楽部は、座奏では微動だにしないのが、アンサンブルになった途端生き生き動き出すので愉快だ。ここはこういう風に動こうよ、と意見を出し合って自由にやっていた。


〈予選大会〉

顧問の先生は、あまり練習には介入しなかった。なにせ金管チームは演奏の面でもチームワークの面でも問題が頻発したらしく、そちらにかかりきりになってしまうことが多かったのだ。そういうわけで、我々はのびのびと練習をした。練習中にしょっちゅう怒られていたくらいには、遊びまくっていた。正直、「全国大会目指そう!」みたいなモチベではなかった。今年の大編成が惨敗だったのもあって、高い結果は期待していなかったのだ。でも、ずっとふざけていたわけではなかったと言いたい。やるときはやる、ちょっと遊んでいる時間が長かっただけだから!


そうして本番当日を迎えた。雪がちらつき、強い冷え込みを観測した日だった。いつもより早い登校だった。冬至も近いこの頃、まだ外はぼんやりと暗い。「おはよう!」冬服の制服を着て、そして髪にはピン止めがあった。

このピン止めは、パーカの先輩のお母さんが、手作りで8人全員に作ってくれたものだった。先輩達が「みんなでなんかお揃いの付けようよ!」と提案し、お母さんの協力のもと叶った品だ。くるみボタンに、レースが可愛らしくあしらわれている。ボタンの柄は一人一人違っていて、私のは水色の地に白い木のシルエットが書かれていた。(アルトの先輩はそれに「モリゾー」と名付けた。センスがいい!この先輩はたびたび独特なネーミングセンスを発揮しては、我々を笑わせてくれた。なぜかいつもパート練習の教室にいるハエに「ジョン」と命名したり、部長には「ブッチー」と命名したりした。次期部長は「ブッチー二世」だった)正に仲の良い証。その輪の中に私も入っていること。ただただ嬉しくて温かい気持ちになる。ほんの小さなピンだ。たったそれだけで、同じものを共有する喜びが満ち満ちていく。木管チームのこの8人が強くつながっているのだと、痛いほどに感じることができた。

授業の邪魔にならないように、教室から離れた家庭科室で軽く音出しをしてから、早々に出発することになった。その日はとにかく暗かった。今にも降り出しそうな分厚い雪雲に覆われていたからだ。給食が食べられない分の代替食(バナナやジュースやお菓子が紙袋に入っている)を受け取って、バスに乗り込んだ。本番には出場しない6年生も、「マネージャー」として同乗した。木管チームには、トランペットの女の子の先輩が就いてくれることになった。道中は、お弁当とお菓子を食べながらおしゃべりして楽しく過ごしたと思う。

バスを降りると、とうとう雪が降ってきたと気付いた。アンコンの予選の日には、なぜだか必ず雪が降る。コートに結晶が付いては消える。降っては消え、降っては消えの、はかない粉雪だった。むき出しの膝小僧に寒風が染みた。

会場には既に他の団体が到着しており、ロビーにはティンパニのチューニングの音が響いていた。「ゴーーん…ドーーん…」吹奏楽の大会の思い出にはもれなく、この低くうなるようなティンパニの音がついてくる。他の多くの会場には打楽器のチューニング室があるが、ここにはない。初めての大会はこの文化センターだった。だから私にとっては、大会と言えばティンパニのチューニング音がこだましているものなのだ。地鳴りのような音に出迎えられて、人のまばらなロビーを進む。制服姿の生徒達で溢れかえっているいつもと違って、少し不思議に感じた。

この会場はどこか「詰まった」印象がある。天井が低めで閉塞感があるのもそうだし、照明が暗めで、床・壁・彫刻など、装飾がシックなのも理由だと思う。そんな厳しい雰囲気が充満しているけれども、我々は元気だった。通常運転で変顔やら、くだらないだじゃれなんかを言い合っていた。リハーサル室、チューニング室と、問題なく進む。

舞台袖で座席を確認した。人、少ねっ。平日、小学生の部のアンサンブルを見に来る人はめちゃくちゃ少ないのだ。そう思うと全然緊張しなかった。前の団体の演奏を聞きながら、互いにピン止めの位置を直すことに専念した。皆左耳の上の辺りにボタンがあった。「お揃い」。

このあたりは良く覚えていないので、すぐ結果発表の話になるが、我々は2位通過で県大会出場だった。大編成より倍率が高く、数年ぶりの出場ともあって、これは結構すごい結果だった。金管チームの人達は悔しそうにしていたが、笑って祝ってくれた。「1日マネージャー」の先輩なんかはうれし涙を流して「おめでとう!」と言ってくれた。まさか行けるとは思っていなかったので心底びっくりした。仲良すぎて遊びまくってたんだもん。金管みたいに昼休みの自主練もしなかったし、居残りもしないで定時で解散した。「混合八重奏、金賞ゴールド」とアナウンスされたときは、「お~~」「すごい」「嬉しいね」とはなったけど、「次に県大会出場団体です」で呼ばれたときは、「???」「どゆこと?」「ほんとに?」という反応をしてしまった。こうして周りの人達が声をかけてくれて、ちょっとずつ、実感が湧いてきたのだった。この結果は楽しくやっていく私たちのスタイルが認められた実証でもあり、私は結果自体よりそのことの方が悦ばしかった。

ちなみに、うちの母親もびっくり仰天していた。私はいつもみんなでめっちゃ遊んでいる旨の報告ばかりしていたし、最後だと思ってわざわざ仕事を休んで聞きに来ていたくらいだ。「大編成はダメだったけど、アンサンブルは良かったって、これ、もう先生いなくてもやっていけるってことじゃないの!冗談冗談!」と嬉しそうにしていた。

ただ、今になって言えることは練習量の多さより(それも確かに大事だけれども)、良好な関係を築くことが大切なのだということだ。そしてそれがどれほど難しいことか。あれもこれも全て、素晴らしい先輩達のおかげだなと思う。後輩の、ヘラヘラした小生意気な私も仲間に入れてくれて、なんでも言える環境を作ってくれていた、と思う。演奏直後に撮影した写真は、とても良い笑顔で写っている。ピース、変顔、キラーン(ピストルポーズといえばいいのか)、なぜかマネーのポーズ、どれもノリノリで笑ってしまう。


〈県大会〉

そういうわけで、木管チームのアンサンブル練習は、もうしばらく続くことになった。二学期が終わり、冬休みに入ると、8人だけでの練習が始まった。始めのうちは校舎内で児童クラブ(児童館の代わりの存在)がやっていたので、低学年の子達の叫び声だの、ふいご式のオルガンの音だの、ブランコの軋む音だのが3階の音楽室に届いてきていた。(金管チームが使わなくなったので、音楽室に移動したのだ)しかし、年末が近づくと児童クラブもお休みに入って、学校は全くひっそりとするようになった。顧問は児童だけに任せた方がいいと判断したのか、単に忙しかったのか、あるいは面倒になってしまったのか、全然顔を出さなくなった。こうなりゃあ、もう私たちの天下である。

冬休みの間、私たちは専ら「かくれんぼ」をして遊んでいた。よくもまあ、皆ありとあらゆる場所に、ありとあらゆる手段で隠れたものだ。練習なんかしないで、夢中になって遊んでいた。大・かくれんぼブームの到来だった。

ベストオブ隠れ賞は、クラの先輩だ。音楽室に放置されていたブラウン管テレビ(とそれが乗っている台)と壁との隙間に隠れていた。結構見え見えの隙間だし、ただ立っているだけだったのに、なぜか全然見つからなかったのだ。「○○ちゃん~!どこいるの~!」「もうギブアップ!」と叫ぶと「はぁい」と声が聞こえる。見てみると、彼女は隙間に横を向いて立っていて、表情も見えないし、恥ずかしそうな声だけがするのが、やたらとシュールで全員で爆笑した。「なんで気付かなかったんだろ!」「よくここに隠れようと思ったね!」などど口々に褒める。

他にもカーテンにくるまったり、毛布の中、棚の中、箱の中、ティンパニのフタの下など、身体を丸めて、息を潜めて隠れた。上達してくると、毛布の中にフェイントを仕込む上級者も現れだした。「見つけた!」とガバッと戸を開けた瞬間に、「わーーーー!!!!!」と大声を出して驚かせてくる人も現れた。それにびっくりして、もぞっと動いたところをめざとく見つけるというように、見つける側も上達するのだった。

冷たい灰色の冬の世界で、音楽室だけが暖かいオアシスだった。外はどんよりと陰り、ひどく痛い風がびゅうびゅうと吹きまくり、細かい雪が降ったり止んだりしているのが常だ。それでも音楽室はとても暖かい。入り口付近に置かれたストーブは、轟音を上げながら、1時間ほどで全体を温め、二酸化炭素のせいだろうが、それらはだんだんと我々を浮ついた気分にさせた。かくれんぼに興じ、さらになわとびをしたり、黒板に落書きをしたり、昨日見たテレビの話をしたり。私たちはそうしてこの年の冬休みを過ごしたのだった。

私は毎日ウキウキで登校した。昨年の冬休み期間は完全に「自由参加」「自主練習」で、私一人しかいない日さえあった。とても寂しかった。家にいても寂しい。だからなおさらウキウキになるのも当然である。冬休みのもの悲しい雰囲気はすっかり外へと追いやられて、8人だけの世界がそこに展開されていた。けれども、何をしたわけでもないただ”楽しかった”という思いばかりが残り、ついに年が終わるという頃には、途方もない虚脱感に襲われたというのもまた事実であった。みんなで笑えば笑うほど、かつてない賑やかな日々を刻みつけるたび、それは確実に終わりへと近づいているのを感じていたからだろうと思う。


冬休み終了後は、一ヶ月後にはサンクスコンサートが迫っていたのもあって、もうバタバタだった。ほどなくして本番がやってきた。予選よりもずっと大きなホール、ずっと多くの観客が入っていたが、問題なかった。私たちは例のように、髪にピン止めを付けていた。当時の写真には、それがはっきりと写っている。

結果は銀賞で、小学生の部の出場団体の半分が金賞となった中では、まあ、良くない方だ。

それからサンクスコンサートでの発表を終えて、アンサンブルチームは完全解散。コンサートの打ち上げ兼6年生を送る会の遊園地も終えて、6年生は引退した。ここまでは正に矢のような時の流れだった。間もなく新入部員が加入し、次年度のコンクール曲が決定し、私は無事にテナーに戻り、講評に書かれた「バリトンのタンギングが強すぎる」の文言にショックを受けて、ムキになってタンギングの練習をした。優しい時間を思い出す暇もなく、再び怒濤の生活が帰ってきたのだった。主人がいなくなり、元通りに暗くてカビ臭い楽器庫で眠ることになった相方にも、触れることは無くなった。

先輩達の素晴らしさに気が付いたのは、次の年のアンサンブルが始まった時だった。そのチームは6年生だけの木管七重奏で、コンクールでソロを担当した強者ばかりが集まっていたが、いかんせん仲が良くなかった。協調性のなさ、練習のしなさで、大変に説教を食らった。その時に先生に言われたのは、「あんたたち2人は、去年アンコン出たでしょ。その時はどうやってたのよ」だった。どうやってたのよって、分かんないわ。私なりに精一杯の限りを尽くして向き合ったわけだし、今更批判する気などさらさらないけれども、先輩達のような優しさは我々にはなかったと言える。悲しいことに。あれほどの良好な関係は、そう簡単にできあがるものではないこと。本来ならば「協調性がなく優しさのない」私が、彼女らによって救われていたこと。余計に、尊い記憶として私の中に残っているのである。

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