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W5D1 牡蠣キムチ - 굴김치

ルナは小田急線と南武線を乗り継ぎ、川崎駅へと来ていた。
ここからバスに乗り込み、終点を目指す。
20分ほど青色の川崎市営バスに乗っていると、やがて目的地の停留所の名前を告げるアナウンスがかかる。
ルナはアナウンスを聞いてボタンを押し、停車したバスから街に出た。

桜本。
ここはルナと同じ、しかし歩みの異なる同胞、在日コリアンが多く住む場所だ。
自分の研究テーマである在日コリアンの文化や生活について調べるためにここに降り立った、という意味もあるが、それ以上に単純にここで発売されている本場仕込みのキムチと、在日コリアンが進化させた絶品のクッパを食べにここに来たのだ。

桜本のバス停を降りて進行方向に進むと、小さな商店街がある。
その中の小さなスーパーに、ルナのお目当てのキムチが発売されている。

「おばちゃん、僕来ました」ルナは言うと、奥からおばちゃんがすがたを見せる。
彼女はルナの祖母のように豪快で、そしてどこかやさしさも兼ね備えていた。
頭の白髪はまだまだ現役であることを伝えるかのように豊かで、かくしゃくとした動きで店内を動き回る。

「ルナちゃんよくきたね。あんたの好きなキムチもあるけど、クルキムチ、食べていかない?」

ルナの素性についてはたまに話す機会があり、話している。
おばちゃんはわざわざここまで、どうして知っているの、とけげんな顔をしてきたが、自分が在日コリアンに関心を持っていること、そして自分の同胞としてとても尊敬していると話すと、なんとなくは理解してもらえたような気がした。

「クルって、牡蠣ですか?」ルナは問う。
するとおばちゃんはそうそう、といって奥に引っ込み、何かを準備してくれた。
しばらく会計待ちもかねて待機していると、奥からおばちゃんが小さな小皿に赤いキムチを載せてやってきた。

「これ、気仙沼のおいしい牡蠣を使っているからジューシーでうまみたっぷりよ。それにタウリンもいっぱい入っているから元気いっぱいになれるはず。食べて食べて」

ルナは一瞬その姿を確かめるように見る。
ぷっくりと盛り上がり、見るからに新鮮なものを使っている。
その一方で蒸しているのか、残忍なほどの生っぽさはないから安心して食べられるだろう。
ルナはそれをおばちゃんの準備してくれたチョカラク(銀色の箸)で食べる。
口の中、そして鼻腔一杯に広がる牡蠣の濃厚な味わい。
あとからやってくるキムチのつけだれのうまみ。
こんな贅沢なキムチがあっていいのか、と驚かされる。
しかしキムチだれは辛すぎることなく、牡蠣のうまみ、そしてキムチだれのニンニクやトウガラシ、香味野菜のうまみをうまく引き立てている。
韓国に帰れば、マートあたりでこのようなキムチは売っているだろう。
しかしこれほどうまくて優しい味わいのキムチを売っているだろうか。

ルナはその味わいのほれぼれし、暫し言葉を忘れそうになった。

「どう?」

おばちゃんはルナをのぞき込む。

「ええ、おいしいです! こんなにおいしいキムチ、韓国でも食べたことがないかもしれません」

正直なところ、自分の国のものよりおいしいものが外国で売られていることに変な嫉妬を覚えてしまう。
しかし、その感情は差別的だと自分で判断し、心の中にきゅっと収めた。

「あんた、20歳超えているでしょ?」
「まだ19なんですよ……」

そんな会話をすることがなんだかいとおしくて、とても温かい気持ちになる。
こんな時に自分の学術研究の予行練習をしてもいいものかと考えるが、情報収集だけならやってもいいだろうと、ルナは「おばちゃん」と聞いた。

「おばちゃんはどうしてこの町に来たんですか」

言うとおばちゃんは天井を見て、ゆっくりと椅子に腰かける

「そうねぇ。あんたに理解してもらえるかどうか、わからないけど、おばちゃんの独り言だとおもって聞いてね」

おばちゃんは言うと、静かに、ぽつぽつとことばをはなしはじめた。

「あたしのアボジがね、今の朝鮮の平安道から仕事を求めてこっちまで来たのよ。平安道の山奥の集落だからね、お仕事なんてあったもんじゃない。でも日本に来れば仕事はいっぱいあるし、しかも賃金もいい。それで汽車と船で日本に来たのさ」

ルナはその言葉を一つひとつメモし、さらに許可を得て録音もする。
平安道からこちらに、家族を引き連れてきたということは強制連行で来たり、あるいは済州島から避難してきたタイプではなさそうだ。
それよりもチェインマイグレーションを伴って連鎖的にこちらに来たのだろう。
そう思うと、ますますいろいろなことがわからなくなってくる。

韓国では日本の侵略がいかに精神性を傷つけてきたかということも学ぶ。
しかし、朝鮮時代の福祉的なものは果たしてチャガン道の貧農にまで届いていたのだろうか。
その一方で、日本人からも捨てられており、賃金格差のもと、どこか劣後するような気持、状況で生活してきたのだろう。
それは自身の読んでいた論文にも取り上げられていた。

そんな中で生きていくことの苦しみや悲しみ、悔しさを、現代を生きる独立国家大韓民国の人間としてどう理解していけばいいのか、わからなかった。

ただ侵略者に怒るだけなら簡単なのかもしれない。
しかし、その下にいた生活者たちは果たしてどんな息遣いをして生きているのか。
その一方で蹂躙された魂もあり、蹂躙した怪物もそこには横たわっている。
そして侵略という事実は、自分たちの民族をここまで解体し、対立させ、すべての国民の首と足を締め付けている。

その事実を、たった一言のおばちゃんの意見から思わされる。
自分がそれだけ感受性が高いのかと驚かされるが、その一方でそれだけおばちゃんの身体にきざまれた年輪から漂うものはすさまじかったのかもしれないと、ルナは一人思った。

おばちゃんは「さーて」というと立ち上がり、ルナの前に立つ。

「あたしのお話はここまで。あんたに付き合って時間をロスしたじゃない。……ただじゃ返さないわよ」

凄みのあるおばちゃんの真剣な表情に、ルナは叱られるのかと思い、ゆっくりと頭を下げる。

おばちゃんはそんなルナをみて満足したのか、

「今日一日働いてもらうわ。お手伝いの対価はあたしへのインタビューと、牡蠣キムチ1キロでどうだい?」

というと、けらけらと笑ってルナを見た。

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