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(読書メモ)カント『実践理性批判』「序」解読001


『実践理性批判』は道徳論である
・カントの前著『純粋理性批判』は認識論である
・『実践理性批判』の目的は、実践理性の存在を論証することである
・実践理性は純粋理性の一形態である(能動的な認識の状態である)
・(「序」ではまだはっきりとは言わないが)実践理性の働きとは善悪判断である

(註釈)
『実践理性批判』が道徳論だと明らかになるのは、本論の最初の「定義」であって、「序」ではわからない。前著『純粋理性批判』の終わりの方で、理性の実践的使用のことを述べているので、前著を読んでいればなんとなくわかる。

 内容を先取りして本文を補うと、序の冒頭は以下のようになる。

 なぜ、前著は『純粋理性批判』だったのに、本書は『純粋実践理性批判』ではないのか?
 それは、【実践理性】とは純粋理性が能動的に何かを認識しに行った場合の状態を指すのであって、純粋理性とは別に純粋実践理性というものがあるわけではないからだ。

 本書は、純粋理性の実践的な使用が可能であることを論証するものである。この「実践的な使用」とは、能動的な認識のことを指す。具体的には、善悪判断のことである。前著『純粋理性批判』では、理性による受動的なものの認識について批判を行い、それでも批判しきれないこと(純粋理性による認識が可能であること)を証明した。その上でさらに進んで、純粋理性の能動的(実践的)な使用の可能性についても論じた。本書では、前著で可能性までしか論じなかった「純粋理性の能動的使用=実践理性=善悪判断」についての論証(批判)を完結させる。

 本書で以上の証明に成功すれば、実践理性が純粋理性の領分を奪うことはないし、「純粋理性の能動的使用は無理である」という詭弁もありえないことがはっきりする。

(註釈)
「純粋理性の能動的使用=実践理性=善悪判断」の証明が完成すれば、無前提での善悪判断が可能であることが証明されたことになる。つまり、法律も社会契約も抜きで「なぜ人を殺してはいけないか?」や「なぜ嘘をついてはいけないか?」「自殺してはいけないのか?」を説明できるということである。ニーチェより前の哲学者たちは、漠然と無前提での価値判断、善悪判断が可能だと思いこんでいた

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