NHK杯全国高校放送コンテストで泥流地帯が読まれると聞いて

 最近、機会に恵まれまして「NHK杯全国高校放送コンテスト」のとある都道府県大会を観覧させていただいたんですが、なんと2024年度の朗読部門の課題図書のひとつが『泥流地帯』だったんです。
 出場者の皆さんは好きな作品の任意の部分を抽出して朗読するわけですが、高校生がしっかり原作を読み込んで選んだシーンを高校生の感性で読み上げる。これ想像よりはるかに良かったんですよね。
(以下、長くなりますので読まない方がいいですマジで)
(マジで)

 朗読の世界を垣間見てその素晴らしさとともに難しさを実感したのですが、演劇と違ってキャラクターになりきり大仰な演出を加えたり過度な感情移入はできなかったり(できないというか審査では足枷になりそうですね)ある意味淡々と読み進めることが基本になるようですね。そしてその基本(制約)の中でどれだけ自己表現できるか。
 そういう意味で『泥流地帯』というのは絶妙な選書だったと思うんです。そもそも三浦作品は口述筆記(三浦綾子さんが読み上げ、夫の光世さんが書き記す三浦夫妻独自のスタイル)なのでほとんどの作品が一度三浦綾子さんによって「朗読された」文章なわけです。言葉もテンポも基本的に朗読しやすいようにできているんです。
 事実、4種?あった課題図書のうち泥流地帯を読んだ出場者の決勝進出確率が非常に高かったのです。なにしろ原文がすでに「聴かせる文体」なんですから当然です、と言ってしまうと語弊がありますが(当然です)。

 なのでまあ、どこを切り取っても素晴らしい朗読素材になるのですが、例えば最もインパクトが強い(であろう)噴火のシーン。泥流地帯を読んだ出場者のうちこの「轟音」の章をチョイスした方は4分の1に及びました。多い?少ない?実は私は開場前、ほとんどの方が轟音の噴火シーンを読むんだろうなと思っていたのですが、意外に少なくてびっくりしたのと同時に、「山合の秋」「土俵」「雪間」以外は満遍なく、ほぼ重複なしで様々な場面が選択されていたことにめちゃめちゃ感動しました。素晴らしいです!高校放送部最高です。場面を選択するために、また理解するために若い人たちが『泥流地帯』をしっかり読み込んだと想像しただけで嬉しくて咽び泣きそうです。

 ただ、轟音の章の第三節、つまり石村家を泥流が襲うあのシーンですが、第四節(呆然とする耕作)や第六節(修平らと合流)に比べて第三節を読んだ方の予選通過率が意外に低かったのです(泥流地帯全体では約50%、轟音第三節は25%)。なんで!?
これは非常に興味深いのでよくよく振り返ってみました。

 拓一と耕作の何気ない会話から突如山津波が集落を飲み込む作中で最もインパクトの強いシーン。改めて読み直し、少し声に出してみます。すると改めて、非常に難しい場面であることに気づかされました。
 おそらく多くの読者が「十勝岳は噴火する」という前提で読んでいるはずですが必ず「あれ?なかなか噴火しないな」と思ったはずです。そう、なかなか噴火しないんですよね。
 「兄ちゃん、あれ何だ!?」の頃には物語が70%進行しています。これはまあ、もともと『続泥流地帯』に描かれた内容とあわせて一つの物語として構成されたものなので全体でみると「真ん中よりちょっと前」で噴火はしているのですが、続編に辿り着けず『泥流地帯』で終わってしまった人はモヤモヤしているかもしれませんね。ともかく、ようやくここが分岐点。地の文の緩急も大きく入れ替わるポイントです。

 ここ(山津波が襲ってくるシーンの直前)にあえて拓一と耕作の他愛もない(無関係な話題ではありませんが)会話を置いているのは、もちろん場面に緩急をつけるためではあるでしょうが、大砲のような大音響があったにしては登場人物の皆さんがずいぶん呑気に行動している印象を受けませんか?
 これ実はすごくリアルな描写で、実際の泥流災害時の被災者の状況がしっかり取り入れられているんですよね。
 少し遡った市街の学校の場面、「どどど、どーん」という遠雷にも似た大音響に対して益垣先生が「なあに、火柱が立とうと石が飛ぼうと(中略)このあたりじゃ、何の影響もないですよ」と鼻で笑います。これは三浦文学屈指の小物、器がおちょこ、ミスター狭量の益垣先生ならではの楽観的で間抜けなセリフ、というわけではありません。実際に溶岩流が発生したり火山弾が飛んでも麓には全く影響ありませんから。
 
 なので本文にもあるように、噴煙がはげしくなり、一晩中山鳴りが響き、家が揺れる状況が続いたことで「かえってそれに馴れてしまった」というのも(小説でも現実でも)ほとんどの村人に共通した意識でした。
 事実、件の場面では十勝岳が山体崩壊を起こす最大規模の爆発があったにもかかわらず、拓一や耕作だけでなく、賢人市三郎さえもが驚きつつも自身や家族の生命の危険には全く想像が及んでいません。

 その前の正月、拓一と耕作が餅をつき、市三郎とキワが「こだに(こんなに)いい年越し、国(福島)を出てから、はじめてでないべか」と、過酷な開拓生活を振り返り、30年かけてようやく手に入れたささやかな安寧を喜ぶ場面とあわせて、かの泥流災害がいかに唐突に、問答無用に襲いかかってきたのかを表しています。

 「轟音」の章第3節の後半。「兄ちゃん、あれ何だ!?」から泥流が全てを奪い去るまで844文字、地の文に限るとわずか624文字で、のどかな正月や拓一と耕作の雑談で表される「静」から集落の壊滅、拓一の死という「激動」に繋げられる名場面なのですが、朗読の規定では2分以内(冒頭の番号・朗読者氏名・著者名・作品名の読み上げのほか、平均5秒ほど残すので実質1分45秒ぐらい)に収めなければなりません。
 そうすると平均で400文字程度しか読めないんですよね。ちなみに「轟音」を読んだ方の平均は430文字で他より30文字ほど多いのですが所要時間には差がありません。それほど速読になっていたイメージはありませんので間の取り方に影響しているのでしょうか。
 いずれにしても現実的には「静」の部分から読み始めることは難しいですよね。別の機会、文字数(時間)が許す場合はぜひこの、裏山にいる2人と家にいる良子らとの、雨天なので大声ではありますが生命の危機に瀕していない「静」の部分からの強烈な緩急を意識して読んでいただきたいものです。

 朗読の大会ではどうしても、耕作らが山津波を認識し、市三郎たちに伝えた後の場面、必死に走る市三郎、キワ、良子の三人を無情にも山津波が飲み込んでいく場面から拓一が泥流に飛び込む場面までの433文字を切り抜くのがセオリーとなるのでしょうか。
 そこはすでに「激動」のパートに入っているわけですが、この範囲にもしっかりと緩急は存在します。地の文の「拓一と耕作は呆然と突っ立った」は事態を飲み込めていない(現実感に繋がる手前)拓一や耕作の心理としては一瞬ですが時間の停止あるいはスローモーションであったり無音状態であったり。
 市三郎、キワ、良子が目の前で泥流に飲み込まれたその一瞬は、その前後の文とは明らかに色合い、というより登場人物が置かれた次元が異なると言っても過言ではないでしょう。そして続く「丈余の泥流が〜」から再び轟音と濁流の激しい動きが戻り「人が浮き沈む」までは強烈な疾走感を伴う文章になっていますし、綾子さんもそう「読んだ」に違いありません。

 ちなみにこの場面の泥流が押し寄せる表現ですが、恐らく他の作品で津波や鉄砲水などの水害を描いた場面とは大きく異なっているはずです。「融雪型泥流」。このタイプの災害は大正泥流を除いて国内に例はありません(世界的に見ても1985年にコロンビアで起きたネバド・デル・ルイス火山の例など極めて稀)ので、文学的に上富良野のような「泥流」の様子が描かれることはほとんどありません。ですからこの場面を読むときに情景を頭に浮かべるのは意外と難しいはずです。

 「丈余の泥流が」(「丈」は長さの単位、10尺、約3メートル余りの高さ)つまり「すっごい高さの泥流が」という意味です。実際には巨木が縦に回転しながら流れてきますので、最終的には丈余どころではなく「泥流は二丈三丈とせり上がって〜」とあるように10メートルにも及ぶ高さ(に感じる迫力)であったと考えられます。ちなみに耕作が泥流を目撃した石村家近辺は沢の出口に近く、沢の幅も比較的広くなっています。物語の序盤に「石村の家のように、山の下五町歩も畠があるのは、ほんとうに運がいいのだ」と描かれているとおりですし、実際の地形もそうなっています。

 なお「実際の」というのは、『泥流地帯』は三浦綾子さんの緻密な取材の上に描かれた作品であり、物語に出てくる出来事から地形まですべて現実の上富良野がそのまま描かれていますので「石村家のあった場所」は実際にまずまず広い畠がありますし裏山も実在します。
 沢が広がっている石村家付近でさえ「二丈、三丈」の高さを保っている泥流は、上流にいき沢あいが狭まるほど高さは増します。石村家よりさらに一里(約4キロメートル)上流で沢の幅も三分の一、四分の一であろう学校付近ではどんな高さの「山津波」が襲ってきたのか、想像さえできません。

 しかし、泥流の脅威はその高さではありません。その「性質」です。泥流発生のメカニズムを簡単にいうと、十勝岳の大爆発にともなって山体崩壊を引き起こしたことで火山噴出物と共に火口付近にあった巨大な湯だまりが流れ出し、巨大な岩や原生林の巨木を巻き込み、かつ数メートルに及ぶ積雪を溶かしながら流下しました。傾斜の強い富良野川流域に沿ってその勢いを加速度的に増していくと同時に土を削り、岩を剥がし巨木を薙ぎ倒しながら、その質量をも爆発的に増やしていきます。
 水というよりは土砂寄りですよね。泥流の脅威の象徴として、上富良野の石村家近辺には今なお「十勝岳爆発記念碑」として、泥流によって押し流された70トンに迫る巨岩が土台として設置されています。「水」では決して動くことなない巨岩をいとも簡単に数キロメートル転がしてしまうのが「泥流」です。しつこいようですが「水」ではありません。拓一のように飛び込んだ場合、確実に死ぬことを意味する物質です。
 
 ですので「釜の中の湯のように沸り、踊り、狂い〜」の表現はもっと絶望的というか「死」そのものを描いたような情景なのです。ここをイメージするためには実際の上富良野を訪れるのがいちばんですが、そうもいきませんので参考になる表現として、同じく「轟音」の章の第六節、地域の者が「(拓一らが)生きてるかもしれねえぞ」と励ましたとたん耕作がブチ切れる場面があります。「生きてなんかいないっ!みんな死んでしまった!」と。
 なぜブチ切れたのでしょう。みんなが生きていたほうがいいに決まっているのに。どこかに打ち上げられて一命をとりとめた方がいいに決まっているのに。それは単純です。「絶対に死んでいるから」です。
 川で流された、海に飛び込んだ、ということなら一縷の望みをもつべきですが、市三郎らが飲み込まれた、拓一が飛び込んだのは「泥流」です。ついほんの少し前に耕作が自らの目で見た絶望の情景は、大切な家族が生きているという希望を持つことさえ拒絶するような、圧倒的な死の気配だったのです。例えるなら、マグマの中に飛び込んだ身内が「生きてるかもしんねぇ」なんて言われたらブチ切れますよね。「生きてるわけねぇだろ!」って。耕作が目撃したのはそういう光景です。

 文庫本ではたったの六行ですが、本作中で「泥流」の動く様子、直接的に財産や人命を奪っていく様子が描かれている数少ない場面です。疾走感、恐怖、絶望。恐らく、読む際にこの情景を想像できるか否かは重要な要素になるのではないかと感じます。ちなみに前半は「泥流」の先頭部分、壁のような山津波が木々を、家々を飲み込んでいく様子であり、後半(「と、瞬時に〜」から)は泥流本体が沢を埋め尽くす様子ですので微妙に描いているものが違うことにも注意が必要です。

 しつこいようですがもう一つ。「何千何百の木が【とんぼ返りを打って】上から流されてくる」という表現にも着目してほしいポイントです。「とんぼ返り」とは十勝岳泥流で被災した村民から聞き取った中で多くの人が口をそろえた、巨木が縦回転して流されてきた様子であり、公的な記録にも記されています。上富良野で緻密な取材を敢行した三浦綾子さんが作中にも取り入れた重要な表現です。
 なぜ多くの人が口を揃えた(印象に残った)かというと、あまりにも馬鹿げた情景だったからでしょう。エゾマツや白樺など、10メートルを超える木が「縦に」回転して流れてくる様子なんて、比重を考えると泥流でしかそうそう起こり得ない現象でしょうし、100年程度の人生では10周20周してもお目にかかれません。これもまた「丈余の泥流」と同じく泥流の桁違いの脅威を示す重要な表現(綾子さんの肝入り)としてとらえる必要があります。
 
 そして(まだまだ続きます。だから私、長いですよって言いましたよね)地の文だけでなく大きなポイントになるのが拓一と耕作のセリフ。ここはそれほどセリフの多い場面ではありませんが、泥流に飛び込む拓一と止めようとする耕作の、作中もっとも緊迫したやりとりですでの非常に重要で難しい箇所ですよね。
 ここにも実は大きな緩急が描かれています。拓一と耕作のメンタリティの相違。二人のセリフにはすべて「!」がつけられ、緊張感とスピード感が表されています。が、拓一の「!」と耕作の「!」には違いがあります。
 どちらも大声でやりとりしてはいますが、完全にパニック状態に陥り、とにかく泥流に飛び込もうとする(馬鹿げた行動をする)兄を止めるために叫ぶ耕作。「耕作、俺助けに行くっ!」「死んでもいいっ!耕作、お前は母ちゃんに孝行せっ!」という言葉を残し消えていく拓一。この場面でこの二人を同じトーンで読むのはちょっと待った方がいいです。拓一がこの場面でどういったメンタリティで泥流に飛び込んでいくのか、それはもちろんこの章、この節では触れられていませんが、物語冒頭から丁寧に描き込まれています。
 
 『泥流地帯』の中だけにとどまらず、三浦文学屈指の人気キャラであり、三浦綾子さんの夫である光世さんのお兄さんがモデルとなっている「石村拓一」。物語の主人公はやはり耕作であり耕作視点でその成長も含めて描かれていくわけですが、最強・最高のお兄ちゃんとして主人公を凌駕する人気を誇り、作者の三浦綾子さんをして「理想の男性のひとり」と挙げるほどの重要キャラです。この小説が実写化されたら配役は誰だろうな、とすごく楽しみなりますよね。
 さて、この拓一兄(あん)ちゃんですが、ケンカでは多人数の上級生をシバき上げ、角力(すもう)では周辺の村々から集まってきた開拓ゴリラたちを片っ端から投げ飛ばし、後に泥流からの復興を牽引するスーパーマンです。だからといって日本一、北海道一強いというわけではありませんし、強力なリーダーシップで総理大臣になるわけでもありません。実は『泥流地帯』の続編(とは言っても実質的な上下巻なのですが)『続泥流地帯』でさらに深く拓一の性質が描かれるのですが、とにかく拓一は「普通のことを」「貫く力」が尋常じゃなく強い人なんです。おそらく全国レベル。
 と、この辺にふれるとあと4千字ぐらい必要なので泣く泣く割愛しますが、拓一の行動原理はそれほど思考を介しません。心で瞬時に物事を決め、絶対揺るがない信念をもって貫き通します。福子を助けるために竹筒に小銭を貯める行動も「毎日いくら貯めて何年後に福子を助けて…」なんて考えていません。「福子を助けるために金を貯める」と決めたから、それが幾らであろうが、見通しが立たないものであろうが関係ありません。「貯めると決めた。だから今日も5銭、10銭を竹筒に入れる」と言う行動を、彼は10年でも20年でも続けられる人なのです。
 続編では泥流からの復興作業などでその性質が顕著に描かれます。詳しくはネタバレになるので控えますがつまりこの場面、目の前で家族が泥流に飲まれるのを目にした拓一の行動原理を考えると、

「じっちゃんたちが流された」
「飛び込んで助けるべきか」
「いや、これ(泥流)は確実に死ぬ」
「それでも望みをかけて追ってみるか」
「犬死にはじっちゃんも望まないだろうな」
「良子だけでも可能性があるのでは」
「いや俺まで死んだら母ちゃんが苦労する、悲しむ」
「だが耕作がいる。俺は命を賭けて家族を助けるために飛び込むぞ!」

なんてプロセスは踏んでいないはずです。
「家族が流された」→「助けに行く」
たぶんこれだけです。拓一がアホというわけではまったくありません。拓一は常に揺るぎない芯を持っていますので次の行動を起こすために複雑な思考が必要ないんです。
 家族がピンチになれば、助ける。
 自分の命がどうとか、その後の生活がどうとか逡巡もありません。なのでこの場面でも勇気を振り絞る、覚悟を決める、なんていうことさえすっ飛ばしています。
 ですので、「耕作、俺助けに行くっ!」というセリフには悲壮感も重々しさもないはずです。「駄目だっ!兄ちゃんが死ぬっ!」という耕作の声に「死んでもいいっ!」と答えますが、これも当然「はて、死んでもいいかな、どうかな」とも考えていませんし、死ぬ覚悟をしたわけでもありません。反射的に答えているだけです。「お前は母ちゃんに孝行せっ!」も「家族を救うために命を投げ出すしきっと死ぬので俺の亡き後は俺に代わって母ちゃんに孝行してくれ」ということではなく、「俺は飛び込む、お前は母ちゃん頼む」であったり「お前は来るな」であったり、弟への非常にシンプルな指示なはずです。「雨降るから窓閉めて出かけろよ!」みたいな。いや違うかしら、でもそれに近いニュアンスなはずです。

 いずれにしても、雨や濁流で辺りはうるさいため大きな声で耕作に伝えてはいますが、パニックに陥っている耕作のようなトーンでは話していないのです。
 なのでこの場面、耕作のパニックになった叫び声と、拓一の「ほな行ってくるわ!」のような声、同じ大声ではあるものの全く性質の異なるものですので、朗読ではぜひこの読み分けに取り組んでみてはいかがでしょうか。
 そして最後の一行、「二人が前方に山津波を見てから〜」の文はこれまたストーン!と温度が下がるような絶妙な一文です。第三節の最後、区切りではありますが(余談ですが)『泥流地帯』は新聞の日曜版に連載されていた作品です。一回で概ね二節ずつ(約5千文字)進行し、1976年8月8日の紙面に掲載されたこの場面は「轟音」の章の第三節と四節があわせて掲載されています。なので読者は翌週に持ち越さずそのまま第四節に突入するわけです。
 続く第四節で耕作がまさに茫然自失の状態で己の身も奔騰する泥流に投じようとする様子が描かれますが、直前のシーンとは真逆の(まだ泥流は激しく流れていますが)音もなく色もなく、まるで遠くの世界の出来事を見せられているような状態であり、第三節の最後の一行で見事に切り替えと引き継ぎの役割を果たしています。お見事です。
 という渾身の一行ですので、ここもその温度差を意識して読まれると三浦綾子さんが上富良野を徹底的に取材して目で見て、肌で感じた「リアル泥流地帯」を、読み手の皆さんにも感じていただけるような気がします。

 以上、長々とこんな駄文を書き散らかしたのは「この場面はこう読むべきだ」というおこがましいものではなく(そんなにクレイジーじゃないです)、背景を知れば知るほど、何回も読めば読むほど面白くなってくる『泥流地帯』という作品、コンテストを通じて奇跡的に手に取っていただけた高校生の皆さんを更なる沼に誘い込みたい一心で書いています。読みすぎるとこんな変態的になっていくリスクはあるものの、たまたま部活で触れた作品が、皆さんの長い人生を一緒に歩んでいく大切な愛読書になることを願ってやみません。

 全国大会は7月だとか。進出された皆さんが練習の成果を100%発揮して最高の夏を迎えられますように。

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