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私が仕事において大切にしていること 2

目の前で起こっている現象の背景を考える

前回から繋がる話です。
心の病気や障害は目に見えないものです。だから、心の悩みや病気、障害を抱える人に関わる時、つい「病気だから」「障害だから」とその人が表出している現象面だけを捉えてしまいがちです。その現象の背景には、それぞれの心理・心情があります。目の前の現象の裏に何があるのか、これを見ることはとても大切だと思います。

体の病気に置き換えて考えてみると分かりやすいかもしれません。例えば「熱が38度ある」「体がだるい」「咳が止まらない」といった症状が出ていたとします。(もちろんこの症状だけから病気を確定することは難しいですが)風邪…? インフルエンザ…? コロナ…? 気管支炎…? いろいろな可能性が考えられます。軽い風邪程度なら症状を抑えて体力低下を防げば、体の免疫力でそのうち治るかもしれません。しかし、もし軽い風邪ではなかったとしたら…解熱剤で熱が下がったとしても、咳止めで咳が治まったとしても、そもそも「なぜ熱が出ているのか?」「なぜ咳が止まらなかったのか?」が分からないと根本的な治療はできません。対症療法だけでは回復には繋がらないでしょう。

では、心の病気や障害の場合はどうでしょう?
例えば「強迫性障害(強迫症)」という病気があります。強迫観念から強迫行為を繰り返してしまう病気です。今のところ「原因は不明」とされていて、治療法はまだ充分に確立されていません。
表出されている現象は「強迫行為」なのですが、その背景に目を向けると強迫行為を引き起こすいくつかの要因が見えてきます。具体例を見てみましょう。(私は医師ではないので、本来なら診断的な部分に触れるのは御法度だと思います。あくまでも支援やカウンセリングの現場で感じてきたことを個人的にまとめているのだと捉えていただければ幸いです。)
<子どもの場合>
その子に発達の障害が無い場合、強迫行為は親子関係の緊張感から生み出されます。つまり、がんばって親に従って良い子でいようとする気持ちの強さから生じます。発達段階が「学童期」にある子にとって「親に従って良い子でいること」そのものはとても自然な感覚です。子は「自分が親にとって良い子であること」が確認できれば、とても安心するし、安全に生活できて、気持ちの満足を得られると思います。例えば、キャラクターカードや何かのグッズをコレクションする子どもがいます。これは「たくさん集めている自分」=「ちゃんとできている自分」であり、安心や安全の確認の確認になっていることがしばしばあります(もちろん、子ども自身にその自覚はありません)。しかし、従う気持ち・我慢する気持ちが強くなりすぎると、強迫行為が必要になることがあります。頻回な手洗い、爪かみ、抜毛などのとして表れます。
<大人の場合>
心理発達が成人期に達している場合、強迫行為は「大人としてちゃんとしなければいけない」という生きる指針を強く維持しようとする気持ちから生み出されます。大人は「こう生きていこう」というルールを心の中に持っています。自己の内的な規範や価値基準などと呼ばれるものです。このルールを守ることができなくなりそうな時、「ちゃんとできていない自分への怒り」が生まれます。それは「何で上手くいかないんだ」「ちゃんとしなければ」と自分を責める気持ちとなって表現されます。その自分への怒りを自覚できるようになれば良いのですが、ルールを維持する気持ちが強すぎると「怒り」を抑圧しようとします。それが強迫行為に繋がります。鍵の確認、ガスの元栓の確認、忘れ物の確認、手順の確認など、多くは過度な確認行動という形で表れます。自覚される気持ちとしては「強い不安」が主で「不安神経症(不安症)」という診断がつくこともあります。
<統合失調症の場合>
統合失調症を抱えている人にも強迫行為が表れることがあります。これは上記の2つの場合と違って、心理的な要因で起こるものではありません。統合失調症の発症によって、脳機能に何らかの器質的な変化(神経伝達物質の生成や働きの不具合)が起こっていると考えられます。それによって以前はできていたことができなくなってしまったり、逆に以前は気にならなかったことが気になるようになったりします。統合失調症についての詳細は改めて記事にしようと思うのでここでは、「統合失調症の症状の一つとして強迫行為が出ることがある」とだけ記しておきます。
<自閉症スペクトラム障害の場合>
自閉症スペクトラム障害(以下、ASD)を抱えている人にも強迫行為が表れることがあります。この場合も心理的な要因で起こるものではなく、ASDの障害特性の一つとして表れます。例えば、変化を極端に嫌うため(違う見方をすれば、常に同じであることに安心を覚えるため)、気に入ったものはいつも同じものを使ったり、僅かな位置のズレを修正したり、何か一つの法則にこだわったりします。あるいは、本当は常同行為であるのに、それが理解されず「何か心理的な理由で起こっている強迫行為である」と誤解されてしまっている場合も見受けられます。

以上、「強迫行為」として表れているものの背景について、その要因の可能性となるものをいくつか挙げてみました。表出されている「強迫行為」に過度に注目し「強迫性障害」という診断が付いて、その症状を止めることに一生懸命になっていても、背景の理解が不十分では適切な治療に繋がらないと思います。(もしかしたら専門的に研究されている人からは「他にももっと可能性がある」とご指摘を受けるかもしれません。不十分なところ、曖昧なところはご容赦ください)

このように、誰かの話を聴くとき、その人が目の前で表出している現症※にとらわれすぎず、その背景を考えることを大切にしています。もちろん診断は“症状”からつけられます。現代の精神医学においては、ICDやDSMを用いて現症を捉え、その類型から操作的に診断が下せるようになっています。しかし、「何によってその“症状”が出ているのか」を同時に見極めなければいけません。そもそも診断とは、“症状”を聞いた治療者側が患者側に対して一方的に下すものではありません。操作的な診断が取り入れられる以前、診断とは患者と一緒に「その症状がどうして発生したのか」という証拠を探し、確認しながらつけていくものでした(もちろん今でも丁寧に診断を付けている医師はたくさんいます。医師に何か不満を言いたいわけではありません)。

私は、この「一緒に証拠を探す」ということがカウンセリングの原点と繋がっていると思っています。「一緒に証拠を探す」とはすなわち、その語られる話の中からその人の背景を探るということであり、それは同時にその人の気持ちを聴くことでもあります。どこで違和感を覚えたのか、日常生活にどんな不具合があるのか、どんな不安を感じたのか…などです。人は話を聴いてもらうとそれだけで気持ちが落ち着いてきます。これがカウンセリングの原点なのだと思います。

※現症とは主に医療現場で使われる言葉です。本来的には「患者が受診した時点で示す自覚的症状および他覚的所見の総称。現在の患者の状態」とされていますが、病院を受診する患者に限らず、カウンセリングに訪れるクライアントにも、ソーシャルワークの支援を受ける人にも共通して使える表現だと考え、適応範囲を広げて使用しています。

以上、前回から間が空いてしまいましたが、「私が仕事において大切にしていること」を少し具体的にお伝えしました。次回も同じテーマで深めていきたいと思います。


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