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旅行記「八十年戦争の舞台を歩く」 ~共和国の「庭」

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Walking the stage of the Eighty Years' War 八十年戦争期の舞台になったオランダ・ドイツ・ベルギーの街を旅した旅行記
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#オランダ史

旅行記「八十年戦争の舞台を歩く」 ~共和国の「庭」

旅行記その2の目次。 共和国の「庭」とは R.Fruinが名づけた「十年 Tien Jaren」は、八十年戦争下の1588-1598の十年間、オランダ側が完全攻勢な一連の攻囲戦争の時期を指します。東部・北部・南部の諸都市をスペインから奪還し、共和国の傘下におさめました。これをオランダでは、共和国の「庭」を囲む de tuinen van de Republiek te sluiten と表現します。「庭」内の街の訪問記。 この表現は当時からあったようで、ナッサウ伯マウリ

アルンヘム Arnhem オランダ/ヘルデルラント ~「遠すぎた橋」を展望する教会で、ナッサウ伯たちの若き死を悼む

※ 訪問記は2017年10月時点の情報です。それ以前にも複数回訪れています。八十年戦争に関わる場所を訪れています。一般的な旅行記ではありませんのでご注意ください。 Jan van Goyen (1644) アルンヘムの風景 ヘルデルラント州の州都。「アーネム」と英語読み表記されることも多いようです。というより、電車の社内放送でも「アーネム」と聞こえますし、現地の人に「アルンヘム」と言ってみても「アーネム」と言いなおされたりしますね。このサイトでは『講談社オランダ語辞典』に

ネイメーヘン Nijmegen オランダ/ヘルデルラント ~「オランダ最古の都市」で無名の英雄の最期に思いを馳せる

※ 訪問記は2014年6月時点の情報です。八十年戦争に関わる場所を訪れています。一般的な旅行記ではありませんのでご注意ください。 公式サイトは市のサイトと観光サイトと完全に分離しています。こちらは観光サイト。英語読みで「ナイメーヘン」とも。 ワール川に面し背後にはマース川、ドイツ国境にも隣接した要所。ローマ時代からある古都でもあります。「オランダ最古の都市」を謳っています。1579年のユトレヒト同盟に参加したものの、いったん1585年にパルマ公ファルネーゼにより占領。15

フロニンゲン Groningen オランダ/フロニンゲン ~近代的な駅前に対して、政治の中心部は17世紀の立地と趣そのまま

※ 訪問記は2009年4月時点の情報です。八十年戦争に関わる場所を訪れています。一般的な旅行記ではありませんのでご注意ください。 北東部フロニンゲン州の州都。北の大都市で、強固な要塞都市。現在も大きな街のひとつで、日本でいうと札幌のような立ち位置だと思います。 フロニンゲン州は1579年の「ユトレヒト同盟」のうちの1州でしたが、早くもその翌年の1580年に「レンネンベルフの背信」と呼ばれる出来事により、スペインに帰順します。1590年代、何度か攻囲が試みられて断念が続いた

ユトレヒト Utrecht オランダ/ユトレヒト ~ハウステンボス(長崎)のランドマークのオリジナルたちに出会える街

※ 訪問記は2009年4月時点の情報です。その他何度か行きましたが、ほぼ素通りに近いです。八十年戦争に関わる場所を訪れています。一般的な旅行記ではありませんのでご注意ください。 オランダのほぼ中央に位置する交通の中心地で一大商業地。が、街並は古く、新旧共存している感じです。八十年戦争でも、1579年に「ユトレヒト同盟」が締結された重要な場所。 鉄道の中心地でもあり、オランダのあちこちに電車で行こうとするとこの駅での乗り換えが非常に多くなります。そのため時間つぶしで駅ビルで

ザルトボメル Zaltbommel オランダ/ヘルデルラント ~低地地方初代元帥の小綺麗かつこじんまりとした館

※ 訪問記は2014年6月時点の情報です。八十年戦争に関わる場所を訪れています。一般的な旅行記ではありませんのでご注意ください。 マース川とワール川に挟まれたヘルデルラントの要地。八十年戦争期には、市独自にスペインからの自治を宣言して「反乱」側に与しました。そのような経緯もあり、オランイェ公ウィレム一世の頃からこの街の防備の必要性は認識されていて、アドリアーン・アントニースゾーンの監修且つナッサウ伯マウリッツの助言によって近代要塞化が勧められました。ヨハン・ファン・オルデン

クレンボルフ Culemborg オランダ/ヘルデルラント ~癒し系伯爵親子のお膝元は、街の形もなんとなくのんびりとしたデザイン

※ 訪問記は2014年6月時点の情報です。八十年戦争に関わる場所を訪れています。一般的な旅行記ではありませんのでご注意ください。 ヘルデルラントのクレンボルフ伯領の街。ヘルデルラントには飛び地のような小さな貴族領地がたくさんありますが、ここもその一つでした。 「クレンボルフ伯」としての単独での称号は、ウィレム一世期のフロリス一世、そしてマウリッツとフレデリク=ヘンドリク期のフロリス二世親子二代だけのものです。その後ヴァルデック伯家に統合されています。現在クレンボルフ伯の称号

ズトフェン Zutphen オランダ/ヘルデルラント ~教会とワイナリー、2つの塔が特徴的なコンパクトシティ

※ 訪問記は2009年4月時点の情報です。八十年戦争に関わる場所を訪れています。一般的な旅行記ではありませんのでご注意ください。 エイセル川沿いの街。1572年にスペインの占領下に入り、1586年、イングランドからの援軍による奪還作戦は失敗します。デフェンテル同様に1587年、イングランド人将校ローランド・ヨークの内通によってスペインに売り渡された街です。1591年にナッサウ伯マウリッツが再占領。1591年以降の一連の攻勢の、第一番めの都市となりました。 ズトフェン攻囲戦

デフェンテル Deventer オランダ/オーフェルエイセル ~エイセル川と稜堡、現在も残る天然と人工の要害

※ 訪問記は2009年4月時点の情報です。八十年戦争に関わる場所を訪れています。一般的な旅行記ではありませんのでご注意ください。 エイセル川に面した街。東部国境の要衝です。1578年に反乱軍が手にしたものの、ズトフェン同様に1587年、イングランド人将校ウィリアム・スタンレーの内通によってスペインに売り渡された街です。4年後の1591年にナッサウ伯マウリッツによって共和国に奪還されています。スペインの占領地を次々再奪還していった「マウリッツの『十年』」の、皮切りとなった街の