「疑う」ということ
自分が「疑う」っていうことをしていることに気づくと、「なぜ、私は疑っているのか?」という疑問が出てくる。私の答えは、「騙されたくないから」。では、「なぜ、そもそも騙されたくないのか?」と続く。なので私は「騙されて、時間やお金を無駄にされたくないから」と答える。では、「なぜ時間やお金を無駄にされたくないのか?」とまた自分は聞いてくる。「お金や時間を無駄にされては競争に勝てない」とか「騙されて生命が危険に侵される」とか、そんな答えが頭に浮かぶ。
そもそも、どうしてそんなに長く生きたいのか?どうしてそんなに競争に勝ちたいのか?「疑う」という概念には、執着が付随していることに気づく。執着というものと共に生きると、人は苦しい。そもそも、執着するということ自体が自分の首を絞めて、自分に制限をかけているので、どんなに力ずくで欲しいものを手に入れたとしても、本当の意味での自分の幸せは手に入らない。なので、執着を手放すようにすると、今まで捨てられなかった着ていない服が、不思議とジャンジャン捨てられるようになる。「目線が変わるってこういう事なんだなぁ」と思った。
で、「別に騙されてもいいや」と思える。それよりも、純粋に信じたいと心から思う。純粋に信じて、それでも騙されてしまっても、きっと何とかなるし、今までも何とかなってきた。もし、結果、死んでしまったとしても、それが最悪のシナリオだとは思わない。概念を外したら、本当に何でもあり。死すらも、ゴールになってしまう。
期待もしない。期待も執着。本当に執着だらけの自分がいることに気づく。この数々の執着、全部外せるのはいつなのかは分からないけど、これ全部外したら、めちゃくちゃ軽くなって、空飛んで行っちゃうんじゃないかと思う。
また変な事言ってますが、今回はこのくらいで。
ではでは、、🐠
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