〇〇デザインが生まれた日、が生まれた日

数年前、テレビ東京系で「東京デザインが生まれる
日」というドラマが始まった。
デザイナーという職業はサラリーマン、夢にまでみたデザイン事務所に就職した美大卒の女子が現実と折り合いをつけながらデザイナーとして成長していく物語だ。
ドラマの間でれもんらいふ(監督・演出を努める千原徹也さんが主催するデザイン事務所で、今回のドラマの舞台のモデルでもある)での実際のプロジェクトについて、千原さんと各回のゲストの対談が挟まれるのも興味深い手法で毎回楽しみにしている。
タイトルの語感が好きだったのでそのまま使わせてもらうことにした。

さて僕は建築家であるわけだが、いや正確には建築家と名乗るのも烏滸がましいひよっこ設計者な訳だが。(建築家の定義は厳密には無く名乗ってしまえば建築家なのだ、とだれかが皮肉的に述べていたので、僕は素直に受け取って建築家だなどと言ってみている)
常に考えるのはデザインとは何か、建築をデザインするとはなんなのか。
そもそもデザインの定義も定かではない。ある辞書で引いてみると、

①下絵。素描。図案。
②意匠計画。製品の材質・機能および美的造形性などの諸要素と、技術・生産・消費面からの各種の要求を検討・調整する総合的造形計画。

などと出てくる。
つまり機能と美を様々な意義を考慮しながらすり合わせて売れる「製品」を作ることらしい。なるほど一理ある。よくアートとデザインの境界線が問われるがこれなら明確だ。アートの価値は付属的につくものであって、価格をつける前提でつくるものではない。下記、売れる、を違う言い方をして不特定多数のある層に一定の需要があるものだと考える。

僕は世の中には自覚のデザインと無自覚のデザインがあると思う。
僕の好きな本に
著バーナード・ルドルフスキー
『建築家無しの建築』
『人類のための街路』
がある。
確か最初に読んだのは大学頭だったと思うが、一時代の人間が効率と機能と少しの好みを重ねていった結果出来上がったものが、今の一計画、設計を遥かに凌駕するほど洗練されたデザインになっているという考え方は僕に衝撃を与えた。

今実際にデザインを始めて思う自覚のデザインの難しさ。無自覚のデザインに憧れながらも、自分の生きる時代の中では完成しないことが分かっていて、なんならそのきっかけにすらなれないのはほぼ確実。そもそも群としてみた人類だからこそなせる無自覚を一具体的固有名詞 タチバナケイタが自覚してどうこうというのは矛盾している。では自分は自覚のデザインができているのだろうか。そもそも自覚のデザインはデザインになっているのか。

言葉にできたのはようやく最近だが、学生の頃からモヤモヤしたまま横に置いて「デザインと言われている何か」を自覚的に行ってきた僕が自分の中に答えを出すための連載、それが「デザインが生まれた日」だ。
先人達がどこで自覚的になったのか、何をきっかけに自覚的になったのか、もしくはそんなこと考えずに終わって行ったのか。
対象は建築、都市、プロダクト、学問、家具、漫画、食べ物など様々だ。

自分なりに色々と調べてみて想起して考察してみて書き連ねる文章だ。
批判結構。ご意見上等。なんでもござれの妄想劇。
答えが出るまで続けることにしよう。

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