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多様性を認める社会で自分を見出すのって大変なんじゃないかなあという話


ディズニーランドで、Ladies and gentlemen, boys and girls のアナウンスを止めるって話が少し前に出ていましたね。
それの何が悪いの?と思ってしまう私は古い人間なんでしょうか。

最近、多様性を認める、マイノリティーに目を向け尊重する、そんな風潮が社会にあります。
海外なんかでは日本以上にこぞってやれLGBTだ、やれ人種差別撤回だ、なんやかんやとやってます。日本社会も、少しずつではありますが、そちらの方向に進んでいます。将来的には海外みたいになるかも知れません。

男女平等、…いや、女だから、男だからという概念を無くす。女の子が黒いランドセルを持ったって、男の子が赤いランドセルを持ったって良い。女の子が制服でズボンを履いたって構わないし、男の子がピンクのスカートを履いたって良い。
いつか、男女以外の性別もあるのだから、と男女の概念すら取り払われるかも知れません。
しかし、どう足掻いても、大半の人は身体的に女か男かどちらかなのです。その定めから抜け出す事は出来ません。固定概念に縛られるのは良くないですが、どうしようもないこともあると思うのです。

それを全て取り払うことは、果たして必要なのでしょうか?

もっと言えば、年齢による差別もいけないから、年齢と言う概念を無くせとなるかも知れません。ですが生きている限り、必ず誰もが年をとります。外見をいくら若く保っても、確実に年を取ります。逃れることは出来ません。
そう言った、生まれ持った定めを受け入れることも大事なのではないかと私は思います。何故ならそこからでしか、人は己を見出すことが出来ないからです。

人は基準の無い、真っさらな中から何かを見出すのは得意ではありません。
真っ白な紙に好きなものを描いてもよいと言われても、絵を描くのが得意な人以外困惑するはずです。
何もない草原で自由にして良いと言われたら何をしますか?
何もない砂浜で好きなものを食べて良いと言われたら?(勿論一切の調理器具無く身一つで)
一年間、自由に遊んで良いと言われたら?

決断を出すのは、容易ではないのはないでしょうか?

人はある程度の基準(縛り)無くして、選択をするのは、とても苦手なのです。それは沢山の労力を必要とするからです。
多様性を認める社会は、まさに選択肢の無い、または多過ぎる世界です。
男女の括りなく、無の状態からどうアイデンティティを形成していけばいいのでしょう。
男女の縛りがあれば、格段に分かりやすくなります。女の子だからスカートが好き。女の子だけどスカートは嫌い、ズボンが好き。どちらにしても、基準があるから判断しやすいのです。
何もない砂漠状態から、自分で選択肢を見つけ出し、選び抜いていく。考えるだけで大変な世界です。

自由はいいことです。
同時に個人が背負う責任もまた、格段に増えるのです。何故なら、自由な状態では全てに自分が責任を負わなければならないからです。

そう考えると、多少縛りがあった方が楽だと思いませんか?
それが、人類の発展として良いかどうかは別にして。

多様性を認めるのは勿論私も良い事だと思っていますし、広まるべきだと思っています。
でもそれは既に縛りがある中である程度自己形成が出来ている大人な私であるからで。
もし今後生まれてくる子供たちが、多様性に溢れる社会の中で己を見出していくとしたら…
大変だろうなあと思わずにはいられません。


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