ドラゴマン②

「キャアアアアアアアアアアッッッッッ!!!!」
 幼馴染のリリアの悲鳴が森に木霊した。あれほど1人で走っていくなと注意していたのに。……うそだ。注意などできるわけがない。リリアは自分よりよほど強い。ダンキー達に虐められていると飛んできて追い払ってくれるのはリリアなのだ。

 この森は深く入りさえしなければ危険な動物はいないと言われている。どうせ大型の鹿にでも驚いたのだろう。
 祖父母は森に入ることすら許してくれない。だから内緒にしてリリアと一緒に来てみたのだ。いや、これも違う。「危険だから」と説明したところでなぜか目の輝きが増したリリアに無理やりに引っ張ってこられたのだ。

「森の奥には魔獣が住んでる。神話の英雄から生き延びた魔獣が今も復讐の機会を窺って潜んでるんだ」
 ダンキー達がぶるぶると身を震わせて話していた言葉が脳裏をよぎる。このあたりは王国領の中でも比較的安全な地域だ。森は狩場として普通に大人が出入りしているし、魔獣の噂なんて一度も聞いたことがない。
 ただ1つ、「目印の大木」より奥に行くことは禁止されている。そのしきたりの謂れがよくわかっていないということが、子ども達の好奇心と恐怖心を煽っているのだろう。

 ドラゴマンにしても特段森を意識したことはなかった。祖父母が禁じていたことについても、森へ狩りに出られるのは15歳からと明確に決まっているから……だと思っている。

 そうこう考えながらリリアの悲鳴の方へ駆けていると、首筋がざわっと粟立つのを感じた。
 もつれそうになる足をなんとか御して違和感の方向へ目を向けると、そこには異様な形の大木が佇んでいた。
「これは……目印の大木……?」
「いやああああああああああああああ!!!!」
 大木の異様さに目を奪われ足を止めかけたその時、先ほどより切羽詰まったリリアの悲鳴がまた響いてきた。

「思ったよりやばい状況ってこと……?」
 鹿や他の草食獣であれば一度目の悲鳴で逃げ出しているはずだ。臆病さが生き延びるための一番の武器だ、とかなんとかって誰かが言っていた気がする。

 大木が発する何かを訴えかけるような違和感を振り払うように、声のした方へ急ぐ。草食獣でなければ一体何に怯えていというのか?まさか本当に魔獣が……?

 もう着いてもいい頃のはずだ。ずっと走っているのだ。リリアの姿どころか声も、彼女に恐怖をもたらしたであろう何者かの気配すらない。
 リリアが見つからない不安からか、はたまた恐怖からなのか、大木を過ぎてからずっとドラゴマンの全身は血の気を失ったように冷え、心臓は気でも狂ったようにバクバクと暴れ回っている。こころなしか視界が狭い。
(何かがおかしい……何かが……。)

「!?」
 急に視界が開けた。溺れるかのような威圧、殺意、憎悪。耳をつんざく咆哮。心を縛りつけるような恐怖、恐怖、恐怖。
 なぜ自分がこんなところにいて、こんな状況に陥っているのか。足元に転がっている見慣れた柄が真っ赤に染まっているのを見た瞬間に、どうでもよくなっていた。



 木々のさざめきが耳をくすぐっている。顔がつっぱっている。寒い。
「う……」
 鉄のような、生臭いような、複雑な臭いが渦巻いている。寒い。体が思うように動かない。何でこんなことになってるんだっけ……?

 働かない頭を使って記憶探る。しかし視界と同様に頭の中にももやがかかっているようだった。呼吸を整えようにも鼻が詰まっており、口も思うように開けない。苦しい、苦しい、苦しい。

 憎たらしいダンキーとその子分達を追い払う時にいつもしている、とっておきを使うことにした。体の端々に意識を集中させ、力がゆき渡るように意識すると、力が湧いてくるのだ。これは父が教えてくれた。
 思うようにいかない呼吸も、落ち着いて対処すれば何とかなるものだ。これは母が教えてくれた。

「ド……ドラゴッ!!」
 いつもよりたっぷり時間をかけて気を充てんし何とか上体を起こすと、血溜まりに佇む幼馴染の姿があった。
「ドラゴ、無事なのっ!?」
 思ったより声が掠れている。声は届いていないのだろうか?少しだけ前にかがんだ体勢のままぴくりとも動かない幼馴染。あの血は、ドラゴマンの血だろうか?であればどうして立っていられるのだろう?
 ふと詰まった鼻腔をすり抜けて、生臭い匂いが漂ってくる。視界のピントがドラゴマンの奥に切り替わる。と、そこには巨大な首のない獣の体が2つ。
(あ……)

 リリアは思い出した。そして後悔した。森の奥は危険だと、たしかに両親にもきつく言われていた。お店のおばさんにも、ドラゴのおじいさんにも言われたことがあった。
 守衛のおじさんにも、狩人のおじさんにも、森へ入ってはいけないと、確かに何度も言われた。
 だが、あの憎たらしいダンキー達がぶるぶると震えて森の話をしているのを聞いた時、思いついたのだ。彼らが恐れる森の奥にドラゴマンと一緒にいけばダンキーもドラゴマンを見直すんじゃないか、と。

「ドラゴ……ごめん……ごめんなさい……」
 乾いて痛む目から涙が勝手に流れ出てくる。頬の上のつっぱりがゆるみ、今度は鉄の嫌な匂いが鼻へ入り込んでくる。しかし、それすら厭わずにリリアは立ったまま動かない少年に謝り続けた。勝手な行動のせいで彼を危険な目にあわせてしまったのだ。
 もし彼が死んでしまっていたらどうしよう。大怪我をしていたら?あそこにいる魔獣が再び襲ってきたら?一度堰を切るといろいろな感情がからからになったはずの体から涙を奪っていってしまう。
 それなのに、情けないことに上体を起こすだけで精一杯なこの体は、彼の元へ駆け寄ることすらできないでいる。

 涙がすっかり流れ出てしまったのか、リリアは泣きやんでいた。蔵の泥壁のようにパキパキだった肌も、砂遊びのあとくらいにやわらかくなった。太陽も沈んでしまったようで、あたりは生臭さと鉄臭さを残しながら闇に溶け込もうとしている。
 だが、そんなことにも気づかないほどの痛みと寒さが彼女を襲っていた。少年は相変わらず身じろぎもせず突っ立っている。その姿はなぜか、ここへ来る途中に見た「目印の大木」を思い出させた。

(痛い、寒い、こわい、ドラゴ、痛い、寒い、こわい、ドラゴ、、、)
 不安でどうにかなってしまう。たまに取り戻す自我が、悪辣にも不安を煽り立てる。まるでダンキーのようだ。誰だ?自分か……。

 このままあの魔獣の仲間がやってきて、動けない私たちに復讐するのだろうか?それとも魔獣にそんな感情はなく、ただの餌として無感情に貪られるのだろうか?

 完全に心が折れてしまう。まさにその直前のことであった。ガサガサと藪を踏み分ける音。そして話し声。誰かに向かって呼びかけているようだった。何人かいる。大人の声だ。聞いたことがあるような、ないような、声。
 おじさん?おとうさん?もう誰でもいい。永遠に続いてしまうかもしれないこの痛みと寒さと不安から救い出してくれるなら、山賊でも海賊でも誰でもよかった。

 リリアが次に目を覚ました時に最初に目に入ったのは、煤で少しくすんだ白い天井。生活臭と香の香りが混じり何とも言えない匂い。ここは
「教会?」

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