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HSY Day192-198 共存

Day192
真夜中に禁断のニンニクラーメンをつくって食す。(みのりさんが食べたいとゆった)

ところでまたゲームの話かよ、という感じだけど、例のオンラインゲームは敵味方の2つの陣営に分かれる。敵同士で話すことはできず、相手の言葉は判読不可能な文字列として表示される。敵キャラが意味不明の言葉をわめいているのを見て、恐怖だ、と感じる人も少なからずいるんだろう。そういう敵に対して口汚い言葉で罵る人もいる(その言葉も相手には届かない)。一方で、twitterをひらいてゲーム名で検索してみると敵味方関係なくおなじみのキャラがすらすらと日本語で喋っていたりするし、ゲーム内でも、言葉ではないコミュニケーションを交わすこともいちおうできる。たとえば踊ったり、拍手したり、笑顔のスタンプを表示したり、焚き火に一緒にあたったり……。そういう、心がほっこりする場面に何度か居合わせてきた。攻撃ボタンを押せば相手を殴れるのに、あえてそれをしない場面に。

この、敵味方に分かれるゲームの条件は、ある存在を生み出してもいる。スパイだ。つまり複数のキャラクターを両陣営に在籍させることで、相手の作戦を盗むことができる。彼らスパイは、両陣営のキャラクターが何を喋っているか、どんな人となりか、ある程度は知っているはずだ。

わたしは前々からスパイに興味があって、それは彼らが必ずしもすべて私利私欲や裏切りのために従事しているわけではなくて、平和の実現や国際交流のためにしている時もある、と感じるようになったからだった。「分断の時代」とも呼ばれる現在において、複数のコミュニティを横断するネットワークを持つスパイは興味深い存在である。(もちろん、独裁体制強化のために誰かを密告する、という種類のスパイもいるだろう。)

で、なんでそんな話を急に書いたかというと、今日はギルド内の仕事(?)で多少トラブルがあって、その人の主張する「正しさ」にげんなりしてしまったからだった。わたし自身は「正解」がない世界も好きだけど、「正解」もしくは「最適解」があるはずだと考える癖がついてる人たちもたぶんいて、そのトラブルの御本人も陰謀論が好きだと前に自分で言っていた。歴史の裏側には、特権階級によってコントロールされている隠された真実があるはずだ、という陰謀論を、彼が冗談半分に言っているのか、本気でそう信じているのかはわからない。ちなみにこのゲームに少し前までいた別の人物もやはり陰謀論を信じているようだった。ある種のゲーマーと陰謀論的思考は相性がいいんだろうか? 現実世界でもアメリカのQアノンみたいな陰謀論信奉者たちが一定数いるのは事実みたいだし、自分の信じたい理屈を盲信し、それ以外のファクトは無視して平気で他人にツバを吐く、というような傾向はこの数年でだいぶ強まってきたようにも感じる。もっとやわらかく、自分とは異なる他者と心を通わせるようなことができるんじゃないか……。そう思って、この人とも共存する道を探りたいとは思っている。悪い人では全然ないのはわかってるんだけど。


Day193

この7ヶ月以上におよぶ自主隔離生活で、初めてゴミ出しを逃して寝坊した……。たまにはいいか。というか、ちゃんと朝起きてきたのが今思えば奇跡。


Day194

中国語学習。しばらくお休みしてたけど、だんだんモチベーションが戻ってきた感じ。まだ到底実践できるレベルではないけど、とりあえず入り口に立てている、かな……。


Day195

『演劇クエスト・花の東京大脱走編』の時にお世話になった山谷・山友会の後藤勝さんからご連絡いただいて、山友会についてのドキュメンタリー短編映画『The Last Mile 最後の1マイル』を観た。6年前の横浜で、演劇クエスト着想のきっかけをくれた呑み友達のおっちゃんが、餓死(孤独死)してしまったことを思い出す。いろいろなシステム……福祉サービス、社会的なつながり、芸術、エンターテインメント……から疎外された人たちとの関係については、たぶん10代の頃からずっとわたしの中でテーマとしてくすぶり続けている。ある時期は確実に、わたし自身、そうした疎外された人間のひとりだった。そこに届くような作品をつくりたいと思いつつ、そういう作品がつくれている手応えは残念ながら今のところまだ乏しい。とはいえ、創作過程ではいろんな人たちに出会ってきた。少しずつは自分が求めてきたものに近づけているのかなぁ……と思う気持ちと、でも結局それって自分の活動のために誰かを搾取しているだけなんじゃないの、と自省する気持ちとの、はざまで、揺れたりもする。この映画の監督の深田志穂さんにしても、出演・協力した後藤さんにしても、それぞれの葛藤を持ちながらこの現場に臨んだんじゃないかな、と想像した。

ところで、上映終了後のトークで監督が「被写体」という言葉を使っていたことが、わたしの心に抵抗心のようなものを何度も芽生えさせたが、写真や映像を扱う人にとってはそれは当たり前のことなんだろうか。あるいは、海外暮らしが長いから英語から翻訳した感覚で使っておられるのだろうか。いずれにしても、わたし自身はその言葉を使うことにかなり抵抗があるし、そこに別の言葉=まなざし=関係を探りたいけど、今はどちらが正しいということではなくて、違いをただ違いとして受け止めたい。

ドキュメンタリー映画を観ていて、監督とかそれをつくる人たちは、自分の意志や使命を遂行するために、ある種の踏み込んだ残酷さ、冷徹さを引き受けることができるんだな、凄いな……と思わされることがよくある。そしてそういう振り切り方ができないことがわたし(や、わたしのつくる作品)の弱さだと感じつつ、その弱さを手放したくないとも思っている。


Day196 
スーパーへ買い物にいった。しまちょうを買ってみて、鍋に入れた。美味しい、でも、おなか壊してトイレにいきながら、なんとなくマニラでの日々を思い出した。おなか壊すとかよくあったよなーと。それからすると今の生活はずいぶん安心安全? 物足りない……? と自問してみるけど、今は今で危機はずっと続いているわけで。つい忘れそうになるけど、来年も生きている、と言い切れる保証が果たしてどれくらいあるんだろう。コロナ禍は人間の死生観にも影響を及ぼしていきそう。


Day197

静岡にいる夫婦とオンライン飲み会。オンラインで誰かと飲むのってすごくひさしぶり……。妊娠中だからあんまり遅くまでは……と言われてたのに、気づいたら真夜中をとうに過ぎていた……ごめん。でも尊敬するおふたりとたっぷり話せて楽しかった。コントロールすることを手放す面白さを知っているふたり。夫婦で一緒に仕事するかしないか、という話も興味深い。芸術関係の仕事を共にしている夫婦の話を聞いてみたい、なんならインタビューシリーズにしたい、ってことはコロナ禍の前からずっと思ってはいるんだけど、コロナになってまた違う文脈も生まれたかもしれない。


Day198 

書類の締め切りのためにけっこうハードに働く。疲れたー。でもまあいろいろ考えも整理できてよかったんじゃないかな……。出したあとで、あ、説得力のある材料をひとつ書き忘れた、と思ったけど、まあしょうがない。果報は寝て待て。(ち)

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