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藤原ちからの欧州滞在記2024 Day43

(注・写真は、空き瓶を投げているフリをしているだけで、実際には投げていません)

土曜日。芸術監督Grzegorzと、ユトレヒトの別機関で働いているLidyさん、そしてもちろんステファンも同席してのミーティング。Grzegorzさんは自転車で劇場までやってきた。失礼かもしれないけどジブリの「魔女の宅急便」のトンボを思わせる。和やかな雰囲気で大事な話をする。ユトレヒトの町にももちろん興味があるけど、それ以上にこの人と一緒にお仕事してみたいなという思いを強くする。
 
野外劇を観ていたらなんとヴェヌリ・ペレラがひょっこり現れる。スリランカ出身アーティストの彼女は日本にも何度か来ていて、2年前に南アフリカのフェスでも会ってその時は彼女の作品にわたしは急遽出演したのだった。そのヴェヌリはアムステルダムを拠点にしていた縁で出版プロジェクトに参加していて、その本のお披露目トークイベントがこの日の午後にあった。それを聴きに行って、あれ、英語がなかなか頭に入ってきにくいな、疲れているのかな、と自覚する。
 
劇場Theater Kikkerに移動して松根充和さんの『kono atari no dokoka』を観劇。マーティンのダンサーとしての人生にフォーカスしたもので、本人とそのパートナーが登場し、少しお茶目なやりとりも交わされながら、踊りと、人生と、町と、時代と、詩とが、一見バラバラなそれらが、かすかに繋がっていく。とても美しい作品だった。
 
体調が悪いのでちょっと散歩してくるという実里さんと別れて、萌さんと何か食べようということでファラフェルを食べにいく。しかしちょっと油っこくて胃もたれ……。Stadsschouwburg(ユトレヒト市立劇場)に戻って、マディソンがコーディネーターを務める「A long table」というワークショップ的な対話の会に参加したけど、最初の20分はお腹が苦しくて全然言葉が入ってこない。そもそも疲れていたのだろう。やっぱり体調悪いからホテルに戻るわ、という実里さんを見送ったけど、一緒に帰るべきだったのかも。内容については途中から多少キャッチアップして挽回。システムもテーマも興味深いものではあったけど、どうしても英語強者が場を支配してしまう傾向はあって、そのことにホスト側はもう少し敏感であってもいいのでは、と考えたりもする。


終わって、疲れ果てていたのでバスで帰りたかったけど、そういえばさっき萌さんがバス代のことを気にしてたな、ということが頭をよぎって、一緒に歩いて帰ることに。疲れていると判断力が落ちて、悪条件がいろいろ重なっていく。すべては言い訳にすぎず、些細なことがきっかけでこれまで蓄積していた感情が抑えられず、大きな声で彼女をなじってしまう。やってしまった。せめて今からできることとしては、この一回かぎりにしないといけない。

ホテルのテラスでステファンと話して、少し気持ちを落ち着かせる。父親になるな、同僚であれ、という彼のアドバイスはその通りだと思うけど、実質的に保護者的な状態に置かれてしまっている以上、すぐにそうするのは現実的には難しいようにも思う。引率の教師であれば、それが仕事なのだから、と割り切ることもできるけど、ビルバオには作品をつくりに、そして新天地ユトレヒトには商談に来ているわたしとしては、やはり仕事の核に置かなければならないのは教育者ではなくアーティストとしてここにいることだった。ただ、orangcosongとしての次の展開を考えるうえでは、新メンバーの育成も重要な要素であることは間違いなかった。このことはビルバオにいるあいだも何度か実里さんと話し合ってはいて、ただ勝手知ったるビルバオにいる時はわたしも心の余裕があった。やることも明確で、最終的に良い作品をつくる、という目標が、わたしをどこかで落ち着かせてもいた。その目処さえたてば、育成にリソースを充てることも可能だと思えた。でもユトレヒトは違った。新しい場所、新しい文化、新しい人たち、そして疲労も蓄積している中でフェスティバルという特殊な環境に巻き込まれつつ、新しい可能性を探らなければいけない。ひとりのアーティストとしてなら居られるけど、それ以上を引き受ける心の余裕を失くしてしまっていた。……ぐるぐる考えるけど、良い答えが見つからない。たぶん、お互いの「特性」について、もっと丁寧に話し合って理解しないといけないんだと思う。日本で半年間断続的に会うだけではわからないことがあったし、ビルバオで3週間過ごしてもまだわからないことがあるというか、むしろ3週間経ったことでようやく見せるようになった顔があるということかもしれない。それはたぶん誰でもそうで、ほんとに心から仲間と思える関係になるためには、ここをなんとか抜けないといけないのかもしれない。
 
彼女のほうが傷は深いに違いないけど、わたしもわたしでかなり傷心しているのも事実だった。これまで自分の人生で積み上げてきたものが全部一瞬にしてなくなったような気さえした。でもちょっと気持ちを奮い立たせてフェスティバル会場に戻り、ブレーメンから来ているグレゴーと話し込む。彼とは去年YPAMで初めて会った。東ドイツの生まれで、子供の頃に親と一緒に壁を越えて逃げた経験があり、その3日後にベルリンの壁が崩壊したらしい。激動の人生だと思うけど、そうやって人生が大文字の歴史や政治と結びつくことを、羨ましいと思っていた時期も、たぶんわたしにはあった。20代の頃はそうだったと思う。お金もなく日々を生きるのに精一杯で、どうやって次の家賃を払ったらいいのかと思いながら、「悪い場所」とか「ロストジェネレーション」と呼ばれる日本の同質性の中で、そのどうしようもない社会構造を呪うことしかできなかった。でもほんとは誰の人生も、もちろん自分の人生も、人類の歴史と繋がっている。そう思えるようになったのは、こうやって海外に来て、いろんな人たちと話すようになって、何年か経ってからのことだった。

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