猥談・ピュグマリオーンと自炊のすゝめ
時に君、自炊はしているか?面倒がる人も多いが私は大好きです。自炊は、自分の食べたいものを食べたい分だけ好きなように作ることができる。そして、ポルノ創作にもおんなじ魅力がある。
私はしばしばそういった活動をする。書いたり、描いたり。といってもどこかしらに投稿する訳でもないし、大したクオリティでもない。ただ自瀆に用いるだけ。そのまんまの意味でポルノ・グラフィティ。
しかし、これが中々どうして具合がいい。もちろん私は大した絵描きでもなんでもない。素人に毛が生えた程度の画力だし、紙と鉛筆だけで描いている。加えて、私は童貞であるから描きあらわす女体のリアリティも甚だ不足している。にも関わらず紙の中にいる私だけのガラテアは十分すぎるほどの「実用性」を持っている。
我々は常々理想のオカズを探しているが、それは間違っている。人の数だけフェティシズムがあるのだ。出来合いの品に理想を求めていては、決して心から自分を満たすことはできない。しかし諦めるな。どうか大衆に迎合してくれるな。どんなにたくさんの人がバカにしても、君たちはフェティシストであり続けてほしい。君が自分で作るのだ。
人類は場所時問わず世界中でポルノを作り続けてきた。極東の島国から禁欲の説かれたキリスト教圏まで。どんな障壁があろうとも人はポルノを作ることをやめなかった。ピュグマリオーンの例にあるように、時にポルノは現実以上に人を魅了する。
しかし、ここで湧いてくる疑問が「人はなぜポルノを作るのか」ということだ。なぜ人類はそこまでしてポルノを?現実ではイカンのか?
ここに私はひとつのアンサーを与えたい。
それは、ポルノを作ることがどんなエロ漫画、どんなプレイよりも興奮することだからだ。あけすけに言ってしまえば、どんな読者よりもエロ漫画家の方が遥かにバキバキになっているということ。
まず前提として、創作とは自己との対話だ。人間の出力方式は脳内のイメージをそのまま外界に引きずり出せる程よく出来てはいないし、そんなつまらないものではない。創作者は想像を出力しながら試行錯誤することによって自分の中にある薄ボンヤリとしたイメージと現実とを摺り合わせ、イメージを現実におろす。はじめは思いもしなかったような形の作品が生み出されることもある。こうやって自分を見つめ、無駄を削ぎ、ひらめきを足すことで、自分の中から自分とは違う全く新しいものが生まれる。この過程にこそ創作の面白味がある。
そう、作る過程こそが創作の本質なんだ。
そうして推敲しイメージを表そうとするとき、もはや人は自分とセックスしている。作品をブラッシュアップする中で自分の作り出す最高の女と行為に及んでいるのだ。
推敲によるカタルシスとポルノが合わさるとき、自炊は究極の官能をもたらすことだろう。
改めて、自炊することを私は強く勧めたい。まず気負わず、やってみることだ。
また、生成AIを利用する手もある。生成AIは賛否両論あるが、しかし、ニッチな嗜好を持つ人が生成AIを手に入れたことで満たされているのを君も見たことがあるだろう。バカとAIは使いよう、だ。
そして、皆が思い思いポルノを作り、お互いに高め合い、新たな世界をひらけるならば、これ程喜ばしいこともないだろう。
どのような方法であれ、強い思いで生み出されたポルノはきっとあなたの眼の前に、生命の息吹を伴って現れるはずだ。ちょうどピュグマリオーンがそうであったように。
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