YouTube ドッキリ・チャンネル7

可愛い茉莉よ、今日もお前とお前の父上の精神を継いで、世界中の動画の
チャンネルをドッキリさせるぞ、この鹿嶋の極楽トンボの御隠居が

1。【ch桜・別館】浅野のスイッチが入っちゃう映画音楽[桜R4/9/15]:


https://www.youtube.com/watch?

ジャニス・ジョップリン
フラワーJeferson Air Plane
Ever・ブルース
ジャニス・ジョップリンにも、Jeferson Air Planeにもいひ
たいことがあるが、さうだ、思ひ出したぞ、Jeferson Air
Planeのヴォーカルの女性は明らかにジャニス・ジョップリ
ンを真似てゐた。その後の後継者のブルース歌手は、Eva
Cassidyだ。この歌手はいい。魂の歌手だ。

でも、やはりジャニス同様に短命であるのは惜しいのだ。Eva Cassidyのwiki: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%82%B7%E3%83%87%E3%82%A3

エヴァ・キャシディの、Autum Leaves: https://www.youtube.com/watch?v=xXBNlApwh0c

2。ショーケンのラストダンスは私に



これは越路吹雪の十八番(おはこ)である。越路吹雪といふ歌ひ手はスタアである。といふのは、ある映像をまだTVの時代に録画で見たときに、録画だといふのに左手の舞台 の裾から颯爽と出てきた途端に舞台の空気がさあーっと一変したのを目の当たりにして驚いたことがあるからである。これをアウラ・auraといふのかと、その現物を見たのである。こんな歌手はゐない。その時思つたのだ、ああ、これがスタアなのだなと。
このスタアの持ち歌をショーケンこと萩原健一が歌ふのを 見た時には、あたしもこれまた驚いたのである。森茉莉は 品がいいからこんな言ひ方はしないが、あたしはいふのである。ぶったまげたね。素晴らしいジャズかロックかといふ歌唱に仕立て上げて、舞台のたびに変奏に変奏を重ねて実にこの男らしく自由に、そして歌詞も即興で変えて、歌ふのである。この時以来、ショーケンは私にとつては役者 ではなく、一等の歌手である。そのさまざまな舞台のうちで、一番いいのは、小人と一緒に手を繋いで歌ってゐる舞台である。その映像を見て、以来ネットで探して来たが本と同じで一度失ふと出てこないのだつたが、二十年は経ってゐるであらう、
今日見つけたのは、浅野久美のエロティックな台詞のおかげである。ある女優が「スイッチが入っちゃうわ」といふ言ひ方をするのをそばで聞いたことがあるが、これは、スイッチが切り替わったわ、ああ、あなたとセックスしたいわといふ意味である。こんなセリフは、他の常連のキャスターたちにはとてもいへない。銀座のママ浅野久美以外のキャスターには無理である。「スイッチが入っちゃうわ」
の見出しは連続ものにしてほしいものである。この大和撫子は、以後エロス久美と呼ぶことにして、もう1人の美人水の久美と区別して大いに褒め称へることにしよう。エロス久美よ、また次回にあたしのスイッチも入れてをくれ。そして、そなたも次回新党くにもりから日本のエロスを訴えて出馬するのだ。ところで、隣にゐる映画監督はこの言葉の意味を当知ってゐるのであらうな。何だか知らないやうに
見えるが。

話をショーケンのラストダンスに話を戻す。

このショーケンのショーで(韻を踏んでゐるのだ)一番の私のお気に入りの小人と手を繋いで歌ふショーケンである。やつと見つけたのだ。
萩原健一 ラストダンスは私に : https://www.youtube.com/watch?v=Ekx9NxOCG1g

他のラストダンスもいいぞ:
https://www.youtube.com/watch?v=A29D50W1FaE https://www.youtube.com/watch?v=7Dueo7VQqsQ

あっ、何が言ひたかつたかである。
正確には上記の映像ではないが、それは見つからないが、
舞台の雰囲気は十分に伝わるだらう。

マツケン・マナブの娘が舞台に登場して空気が一変するな
らば、この娘は越路吹雪級のスタアだといふことがいひた
いのだ。

3。第20回「これからが本番 参政党いよいよ地方選挙開始! 今一度政府のコ〇〇対策を検証する!」赤尾由美×松田学



https://www.youtube.com/watch?v=zvgxcimTpAM

この番組の良いのは、冒頭のイントロの映像がパッとでてすぐマツケン・マナブの絵になつて、名を名乗ってから即座に今日の目次を簡潔にいひ(これが大事である)、そのまま間をおかずに本題に入る(これも大事な)ことである。これに対してチャンネル桜の番組はどれもイントロの映像の時間が長く、仰々しい、まあ、私のやうなか気の弱い男にはオドロオドロしいと聞こえる音楽が流れてから徐ろに人間の映像に映るといふのは、この小心なドッキリ屋にはイントロが長すぎるのぢや。その間毎回毎回待つのに痺れを切らしてラ、ライヴでみることがなくなり、いつも
後で録画でみるやうになつた。それならばイントロを飛ばして(なにしろ毎回同じなのだ)、自分の見たいところから見ることができるからである。チャンネル桜は昭和の感覚、マツケン・マナブは令和の感覚だといひたくなるが、否、これも一部は昭和の感覚だと私は感ずるのだ。要するに文明開化に抗してゐる江戸時代を継承したサムライの精神である。それを率直に言葉に出して、自分の言葉で語ってゐるだけなのではないか?これが参政党と新党くにもりの政治センスの違いにも出てゐるのではあるまいかといふのが、私めの選挙結果分析の一つなのぢや。

まあ、チャンネル桜の特に討論番組が何故私の願ってゐるイギリスの議事堂の中での議論のやうに出席者同士の討論・議論にならないか、番組の題名を裏切った中身にいつ もなつてしまふかとい私の幻滅の原因は、司会者が喋りすぎるからであるのは自明である。そこで私はイギリスの議会の議長をスピーカーと呼んでゐることを知って(なにしろイギリスの議会の動画は面白いのだ、討論するし激論するからである)、水島総を何とかスピーカーにする方法はないものかと思案に思案を重ねて到頭解決策を見出したのであるが、これはまた別に機会にする。

スピーカーと呼ばれる議長といふのは、見てゐると、節目に実はドンピシャリで合いの手を入れて討論を操縦する重要な役割をもってゐるのだと、イギリス人の議会を見てゐると知るのだ。
スピーカーといふのは、間違いなく英国の議会の法律に従って、その規律を知ってゐて、議員のやりとりも構造的に理解をした上でspeakするものなのであらう。
子供の頃にジェームス・コバーンといふハリウッドの男優がLarkといふたばこの宣伝に出てゐて、ヤクザの賭博場か何かのドアをノックして、その時の合言葉がSpeak Lark!といふのであつたし、当時もあたしの幼い頭だとSpeak Lark!だと思ってゐたが、これはさうではなく、Speak,Lark!といふのではないのか。形式論上の意味はイギリス議会の議長の役割のspeakをせよ、(このコロンが大事)雲雀よ!といふ意味になるから、ひばりといふのは5月の明るい空に日本ならば高く飛んで、ビーチクパーチクとなく鳥であるから、そんなに騒がしくピーチクやるんぢあねえ
ぜ、もつと静かにしろい、もっと節目節目の大事なところにだけドスの効いたいい声を出しな、下っ端であつてもヤクザのお前よ!といふ意味なのではないのか。水島親分ならばこれが務まるであらう。さうである、自分が司会者であつて親分ではないのだといふ自覚が足りないのだ。Larkはおしゃべりだが、おめえさん、おめえさんがお喋りぢあ、ヤクザの世界ぢやあ、生きていけねえぜ。といふ自戒を込めた挨拶言葉であるな、このSpeak, Lark!は。俺がこの賭場に来たことは誰にもいふんぢやないぜ。然るべき場合然るべき場所で然るべきお方以外にはな。しかし、これをTVコマーシャルにしてしまつたら、もうアメリカのヤクザはこれが使へないではないか。ドジな制作野郎だ。

最後に、可愛い森茉莉のショーケン評を引用してこの号をしめをよう。

「十一月十三日、深夜テレビで萩原健一が、越路吹雪専用観のある「ラスト・ダンスをわたしに」をジャズ化したものを歌った。(あなたは他の女(ひと)と踊っていらっしゃっていいわ)ではじまる、あの甘くて、情緒豊富(たっぷり)な、所謂(いわゆる)シャンソンなるものをジャズ化したものである。褐色のマラカスを手に、あの独特な、苦いものを食った人のような、憂鬱を噛みしめている人のような、ゆがめた顔であの、シャンソン特有の甘さを持つ歌を短く刻み、オーケストラの演奏に乗せて歌った。萩原健一の「ラスト・ダンスをわたしに」は素晴らし かった、の一語に尽きる。「ラスト・ダンスをわたしに」のシャンソン特有の甘さはかき消されて、ドライに、短く切れた歌は全く別のものになって、私の耳に響いた。その
歌は、私の聴いたことのない、面白い、ジャズの歌である。萩原健一の独特の苦い、ゆがめたような表情と、その 切れ切れに刻まれた、全く元の歌とは別ものに化(な)つた歌とが、調和していて、私は一つの歌とは別な、粋なジャズに変貌した、一つの歌をそこに見出した。情緒一杯のシャンソンは、本場の巴里(ぱり)のものにしても私はあまり好きではない。私の世代にしては一寸変わっているのだが。又、越路吹雪の亡くなって直後に、こういうことを言うのはいけないことだ、とは思うのだが、彼女の歌は私を、どういうわけか陶酔に導かなかった。「ラスト・ダン
スをわたしに」を私は始めて歓喜して聴いた。伴奏もよく、私は歓喜して聴いたが、面白いことにそこに一つの奇妙なことが起った。楽しさ、ことに楽しい音楽というものは人間の心を和やかにする。人間の心を柔かにする。私は聴いている内に、萩原健一が私の嫌いないしだあゆみと結婚したことに文句を言ったことを、心の中で、取り消していたのである。こんなにいい音楽を、私に聴かせてくれたことに感動しながら私は、苦いような、ゆがめたような、独特な表情で、マラカスを振りながら粋なジャズの歌を歌っている萩原健一に向かって、心の中で言った。インテリ度が低かろうが[註:これはいしだあゆみに対する森茉莉の批評の言葉]どうだろうが、お前はお前の好きな女(ひと)と結婚して、楽しく暮らすのだよ、と、言ったのである。私はなんという、柔(やさ)しい心になっていたことだろう。いい音楽、いい歌というものは、大きな力を持っているものである。大体私は、萩原健一の歌手時代を知らない。萩原健一は、私はその名を忘れたが、グループなんとかというので歌っていて、ショーケンと呼ばれて人気があったらしいが、私が萩原健一を見たのは「傷だらけの天使」が最初で、次に「前略おふくろ様」という傑作を見て、ファンになった。それで、彼の歌の才能を始めて見たわけで、そのために一層おどろいたのである。それにしても「ラスト・ダンスをわたしに」をジャズ化したのは誰なのか、曲を作ったのは誰なのか、それらの人々の才能も大したものである。萩原健一は歌い終ると、伴奏の人々を、ピアノの誰々、サキソフォーンの誰々、と紹介したがその時、外国人の発音でそれを言ったのが又、面白かった。

鹿嶋の


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