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私の発言 市原 裕氏 若手は幅広くチャレンジしてほしい

(株)ニコン 市原 裕


市原 裕(いちはら・ゆたか) 1973年,東京大学理学系研究科相関理化学専攻修了。同年,日本光学工業(株)(現 (株)ニコン)に入社し,研究所第二光学研究室に配属。研究室長である靏田匡夫氏の指導を受ける。1984年に精機事業部精機設計部第二開発設計課に異動し,半導体露光装置の開発や計測にかかわる。1988年,光学部開発課に所属。このころより,国際標準規格に携わる。2002年,コアテクノロジーセンター光学技術本部長兼光学技術開発部ゼネラルマネジャー。2003年,執行役員,コアテクノロジーセンター副センター長兼光学技術本部長。2005年,取締役兼執行役員。2006年,ISO/TC172/SC3国際議長。同年,研究開発本部長。2007年,常務執行役員。2008年,顧問兼市原研究室室長。現在に至る。

「やりたいことをやれ」

聞き手:本日はよろしくお願いします。まず初めに,市原さんのご経歴をお聞かせ願えますでしょうか? 学生時代も含めてお願いします。
市原:大学は東京大学の教養学部でした。基礎科学科という教養学部の専門課程です。東大は特殊で,駒場に教養学部があって,入学当時はそこでみんな一般教養を学び,2年の後期から本郷の方で専門を勉強するという形を採っています。たぶん,この教養学部の先生が「自分たちも専門を教えたい」という気持ちがあったのだと思うのですが,教養学部の中にも専門課程がありました。文科系と理科系の2種類があって,文科系には有名な教養学科があり,そこで国際関係論などを教えています。雅子様もこの学科出身なんですよね。
聞き手:それは知りませんでした。
市原:一方,理科系は教養学部基礎科学科といって,特定の学科に偏らず,いろいろな基礎科学を勉強して,応用が利く研究者を育てようとする趣旨で設立されました。わたしはそこにいたのですが,東大に入りながら本郷を知らないという特殊な境遇だったのです。
聞き手:ずっと駒場だったのですか?
市原:はい,駒場です,ずっと。普段はそういうこと(教養部出身)を説明するのが面倒なので,「おまえ,東大のどこ出身だ?」と聞かれたら,「物理だ」と答えています(笑)。
聞き手:教養学部にそのまま残るという道もあるのですか。
市原:ええ。教養学部には大学院がありまして,相関理化学課程という,物理と化学が一緒になったような修士課程を出ました。一応,本郷と同じように研究室があって,そこに配属されたわけですけれど,私は石黒浩三先生という,その昔,『光学』という教科書を書かれた先生のところに師事しました。われわれが学生のころは,光学の教科書というと,この石黒先生の教科書しかなかったような時代です。
 先生はもう亡くなられていますが,非常に面白い先生でしたね。お年をめされてからもいろいろなことにチャレンジされた方でした。わたしが学生のころにはもうかなりお年だったのですが,それでもヘルメットをかぶってバイクで大学に来られてました。研究室の学生みんなが心配してましたね,事故を起こすのではないかと。また,運転免許を取られたり,スキーを始めたり。石黒先生に「光学を教わった」という記憶があまりなくて,勉強以外のことばかり教わっていたような気がします。
聞き手:研究室は実験系だったのでしょうか?
市原:そうです,実験系です。修士論文はX線ホログラフィーでしたが,He-Neレーザーも作ったことがあります。失敗しましたが(笑)。作る過程でガラス細工をやったり,とても面白かった記憶があります。
聞き手:そちらの分野に進まれようと思われた理由は何だったのでしょうか?
市原:われわれの学生のころは,Gábor Dénesがホログラフィーの発明でノーベル賞を取った時代です。だから当時は,「ホログラフィーってすごいものだ」という考えがあったと思います。修論は「やりたいことをやれ」という感じでしたね。その代わりに,先輩が,ああでもないこうでもないと,いろいろ口を出してくれたのはありがたかった。

最先端装置の計測にかかわる

聞き手:大学院を修了されて,そのまま日本光学工業(株)(現在の(株)ニコン)に入社されたのですか?
市原:ええ。石黒先生の紹介で。
聞き手:ご自身は「ニコンならば」という感じで入られたのですか?
市原:いや,実は日本光学という会社は知らなかったのです。今だったらあり得ない話ですけれど,当時はカメラも持っていなかったので。でも,先輩たちが「ニコンはいい会社だよ」と言ってくれて,「そうか」ということで入りました。それが昭和48年のことです。
 当時,ニコンの一眼レフカメラはすごく有名だったのですが,ニコンは高級カメラしか出していなかったのです。一般庶民が使うようなカメラは販売していなかった。わたしが入社してだいぶたってから,普及型の一眼レフを出しました。そんなことが話題になるぐらいの会社でした。高級シャンパンメーカーがワインを出したというような感じです。
聞き手:ニコンに入られて,最初にどういった関係のお仕事に就かれたのですか?
市原:第二光学研究室というところに入ったのですが,室長があの靏田匡夫さんだったのです。靏田室長直々に指導を受けられたので,非常に良い経験ができて幸せだったと思います。そこは面白い研究室で,「光学」という名前が付いているのですが,メカ屋も電気屋もいる。ですから,何でもできてしまう研究室でした。それが非常に良かった。優秀な人たちと一緒にものづくりをしたり,勉強したりしたことは,非常にためになりました。

聞き手:研究室の目的は,具体的に何だったのでしょうか?
市原:限定はされていませんでした。いろいろなことをやっていましたね。例えばわたしがやったのは,焦点距離測定機とか,プロキシミティ(非接触近接露光方式)半導体露光装置の光学シミュレーションとか。ニコンは半導体露光装置の開発と販売で大きく売り上げを伸ばしたのですが,その最初がこのプロキシミティ露光装置なのです。これとは別に,精密な投影レンズを別の目的で作っていて,これらが合体してニコンの大黒柱となる投影露光装置ができたのですね。
聞き手:面白いお話ですね。ご研究内容には「白色干渉」というものもありますが,これはどのような研究なのですか?
市原:普通のレーザー干渉計では,レーザーを使った単色光を利用しますが,白色光でもうまくやれば干渉するのです。光源から出てミラーで反射して返ってくる光と,別の光路を通って返ってくる光の光路がぴったり合っていれば,干渉縞が出るのです。逆にいえば,その距離をぴったり合わせるために白色干渉が使えるということです。非常に高精度な距離合わせに利用できるのです。

 これは,レンズの厚みを正確に測る目的で開発しました。一般には平行平面板を使ってサブミクロンレベルの測定ができるのですが,これでレンズの厚さを正確に測るのは非常に難しいのです。そこで,レンズと同じ材料の平行平面板を使ってレンズと平行平面板の暑さの比較をしました。そのとき,白色干渉計を使って2つのものを干渉させて,表面同士と裏面同士とで白色干渉縞を出させたのです。そうすると,厚みがまったく同じだと両面に同時に干渉縞が観測できます。実際には厚みが若干違うので片側の面しか干渉縞が出ないのですが,片一方を少しずつずらしていって合わせてやると,そこでまたもう一方の面の白色干渉縞ができます。その微少に動かした量から,厚さの差が分かるという干渉計を作ったのです。その目的は,半導体露光装置用のレンズの厚さ測定でした。
聞き手:半導体露光装置はさまざまな技術をけん引しているのですね。
市原:そうです。そういう意味で,私の仕事の半分以上は,露光装置にかかわっているんじゃないかと思います。最先端の装置の計測をやってきたということで,非常にやりがいがありましたね。

国際規格の仕事を担当

聞き手:その後,ご経歴によれば精機事業部に異動されたのですね。精機事業部というと,まさに半導体露光装置の担当部門ですね。
市原:ええ,そうです。最初にやらされたのはX線を使った露光装置で,当初から「これはだめだ」と思いました。学生時代にX線ホログラムをやっていたのですが,そのときは点光源を作って露光していたので,ものすごく光が弱かったのです。ですから,一晩中かかって露光しているような状況でした。学生だからできたのですが,正直,「そんなものを露光装置に使うなよ」と思いました。また,研究しているうちに「マスクができない」ということが分かってきて,「これはやっぱりだめだ」と(笑)。それで途中で逃げ出して,当時,始まったばかりのエキシマレーザーを使った露光装置にくら替えしました。

聞き手:エキシマレーザーはKrFから入られたのですか?
市原:主にKrFを研究していました。わたしがやり始めたときは,普通のKrFレーザーを使っていたのですが,KrFレーザーというのはスペクトル幅がすごく広いのです。中心波長は248nmですが,スペクトルの半値幅が0.4nmぐらいあったのですね。0.4nmというと「狭い」と言う人がいるかもしれませんが,レンズ設計から見たらすごく広いのです。このくらいのスペクトル幅だと硝材(レンズの材料)1種類だけでは必ず色収差が出てしまいます。ですから,レンズに違う種類のガラスを組み合わせて色消しするか,もっと波長幅を狭くするか,どちらかしないと使い物になりません。

 最初は割と小さなエキシマレーザー露光装置だったので,普通のレーザーを使って,蛍石と石英を組み合わせて色消ししたのですが,量産用の大きな露光装置にすると,色収差が取り切れません。また,大径で均一な蛍石レンズが作れないという問題もあり,どうしても石英レンズだけで作らなくてはいけないという制限が出て来ました。そうすると,スペクトルの半値幅を0.4nmから3 pm(ピコメートル,0.003nm)以下にしなくてはいけないということになりました。そうしないと色収差が取れません。実際には,1pm以下にしなくてはいけなかったのですが。
 そんなレーザーは世の中に無かったので,世界中のエキシマレーザーメーカーを回って「作ってくれ」と頼んだりしました。また,レンズの製造がもう始まっていたので,評価するのに狭帯域のレーザーが必要になりました。そこで,普通のレーザーを買ってきてエタロン(ファブリ・ペロー干渉計)を入れて狭帯域化したり,そういうことをやっていましたね。

聞き手:大変なことをやられていたのですね。
市原:ええ。しかし,スペクトルを狭くすると,今度はスペックルが出てきます。それを取り除かなければならないということで,いろいろなことをやりました。具体的には,ミラーを振ってコヒーレンスを落としたりしています。
聞き手:昭和63年に光学部開発課というところにご異動されてますね。「ISO(国際標準)にかかわる」とありますが,これはどのようなお仕事だったのですか?
市原:わたしが主にかかわったのは「TC(Technical Committees )172」という光学の標準規格を作る委員会です。その中にSubcommitteeが1から9まであるのですが,ちょうどそのころSubcommittee 9(SC9)ができたのです。これはレーザー光学の標準規格を作るところで,その話が精機事業部に来て,精機事業部は忙しいということで,ちょうどわたしが光学部に移ったばかりだから「おまえやれ」って(笑)。

 さらに,SC9の中にはワーキンググループが1から6まであって,6がレーザー光学部品の担当だったのです。そこで最初にやったのは,レーザー用の光学部品の標準部品を決めるということでした。ニコンには直接関係なさそうですが,シグマ光機(株)やメレスグリオ(株)にご協力いただいて規格を決めていきました。
 また,レーザーダメージスレッショルドの測定法を決めるという話もあって,こっちはニコンにとってすごく大事な規格でした。しかし,規格を決めようとしていた人がエキシマレーザーを知らない人で,炭酸ガスレーザーなど大出力レーザーにかかわっていたので,強力な1パルスで壊れるとか壊れないとかという議論になりがちでした。一方,われわれは「何百万パルスで壊れる,壊れない」という議論が必要なので,全然規格の決め方が違うんですよね。多パルスの規格を1パルスの延長で決めようとしていて,10パルス打ったら壊れたとか,100パルス打ったら壊れたとか,「こんなふうにやっていたら,何百万パルスなど絶対できない!」と思ったものです。そこで,われわれは何百万パルスという世界で壊れるか壊れないかという規格を作りました。これがのちの国際規格になっています。

聞き手:規格のお仕事は,どこかで終了されたのでしょうか?
市原:それが,終われなかったんですよ。タイミングを失してしまって。現在のニコンの会長,前の社長ですが,彼がずっと光学ガラス関係の規格を担当してきたのです。その会長から光学ガラスの規格まで引き継ぎまして……。
聞き手:それはまた大変な。規格の世界では,なかなか日本から発信することは難しいと聞いていますが,そこら辺はいかがなのでしょうか?

市原:とにかくドイツなどのヨーロッパ勢が牛耳っています。TC172には活動しているSubcommitteeが7つあるのですが,4つはドイツが担当して,日本はゼロでしたね。当時,SC3という光学材料の規格の幹事国がフランスだったのですが,そのフランスがたまたま「辞めたい」と言い出して,「それじゃ,それを日本がやればよい」と靏田さんがおっしゃった。当時,靏田さんはTC172の国内の委員長だったのです。「TC172のためにもSC3の国際幹事を取るべきだ」と。それで,立候補して国際会議で承認されたのち,平成18年の7月から国際議長を引き継ぎました。と同時に,TC172の国内の委員長も靏田さんから引き継いだのです。

幅広くいろいろなことを

聞き手:その時期に,光学測定機も担当されていたのですか?
市原:そうです。光学部というところへ移って,そこで測定機関係,特に社内工具を開発しました。わたしは光学設計はできないのですが,パートナーとなった光学設計部の女性に,わたしのアイデアを漫画で描いて「こういう配置で設計してくれ」と頼むと,すぐに取りかかってくれて,すごく効率良く仕事ができました。周りから余計な雑音も入りませんでしたし。また,以前から工作技術部というメカ設計の部署と一緒に測定機の開発をしてきましたので,その延長で,光学部に移ってからも,そこと一緒にいろいろ作ったのです。

聞き手:光学技術開発部第一開発課時代に非球面投影レンズプロジェクトをご担当されていますが,これはどのようなプロジェクトなのでしょうか?
市原:半導体露光装置向けのレンズが高NA化して大型化していくと,もう大きすぎて作れなくなる。「何とか小さくしたい」ということで,露光装置用の非球面レンズを開発するプロジェクトを立ち上げました。現在,コアテクノロジーセンターのセンター長をやっている諏訪恭一氏が全体のリーダーになって,わたしが計測器のリーダーになり,非球面レンズの設計,計測,加工を行うプロジェクトを動かしたのです。これで,ニコンは非球面を自由に作れるようになったと言えますね。

聞き手:投影露光装置の非球面レンズを作るのは難しいのでしょうか?
市原:レンズが大きいのに対して,精度がものすごくうるさいのです。コンマ何ナノメートルという精度で加工しなくてはいけません。作るのは難しかろうと思って加工屋さんにお願いしたら,「測れれば作ってやる」と言われたので,「じゃあ,測ってやる」と。売り言葉に買い言葉ですね。

聞き手:現在ご所属の市原研究室はどういった目的で作られたのですか?
市原:常務を退任した時に,社長が研究室を作ってくれました。そこで,国際標準化の仕事を続けてやりなさいと。それ以外にも自由に研究していいと言われて,「これはしめた」と思いました(笑)。そこで,国際標準化以外に3Dモニターの応用の研究などもやっています。

聞き手:最後に,若手技術者の方に対して,何かお言葉をいただけませんでしょうか?
市原:自分の過去を振り返ると,学生時代より上から押し付けられるのではなくて,割と「やりたいことを自分で見つけろ」というような環境で育ってきました。また周囲に,光学関係の人だけじゃなくて,メカ屋とか電気屋などがいて,そういう人たちとさまざまな勉強もしてきました。最近の若い人を見るとやることが決められていて,狭いところしか担当できないような感じがするので,ちょっとかわいそうに思います。やっぱり,幅広くいろいろなことをやってほしいと思いますね。
 もう一つは,わたしは事業部を経験しているのですが,それが非常に大きかったと思います。世の中には,研究だけで終わってしまう人が結構いるのですが,事業部を経験するのとしないのとでは,全然違うと思います。
聞き手:本日は長時間,多岐にわたって面白く興味深いお話をありがとうございました。

(OplusE 2011年7月号(第380号)掲載。肩書などは掲載当時の情報です)

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