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ホログラフィーアートは世界をめぐる 第14回 太陽の贈り物シリーズ part 3 古代ローマ遺跡のインスタレーション

ローマの松


 ローマを初めて訪れたのはパリに留学していた時で,日本の美術学校時代の友人たちと美術館巡りの旅をした時である。ローマはまさに街全体が美術館であり博物館であった。街中のいたるところが現代と古代の時間が複雑に錯綜する,不思議な空間で満ち溢れていた。ところが,初めてのローマの街の風景に,なぜか私は少し親近感を覚えた。気付けば街中のあちこちの公園に,大きな松の木々が立っていた。フランスやドイツなど他のヨーロッパの街では,ほとんど見かけない景観であった。その風情が日本を思い出させ,親近感を抱かせたのである。そういえば,「ローマの松」と題する曲があることを思い出した。イタリアの作曲家レスピーギ(1879~1936)の有名な三大交響詩(ローマの噴水,ローマの松,ローマの祭り)の1つである。緯度も比較的日本に近く,植生が似ているからであろうが,日本に馴染み深い松が,この曲からも分かる通りローマの代表的な景観であることに,私はいたく感動したのだった。
 この時の訪問では,ルネッサンス時代の溢れんばかりの美術作品群に目を奪われて,考古学的な遺跡を訪れる心の余裕も時間もまったくなかった。つまり,歴史的遺跡群にはほとんど足を踏み入れることもなく旅を終えてしまった。
 その後,イタリアへはベネチアやジェノバなどには展覧会のため出かける機会はあったが,ローマとはしばらく縁がなかった。

Villa dei Quintili


 ところが,2007年,非常に興味あるプロジェクトの話が飛び込んできた。それは古代ローマ遺跡で,野外の「太陽の贈り物」シリーズのインスタレーションを展示してはどうかという問い合わせだった。私は二つ返事で,“Yes, please”と即答した。遺跡は2000年の時の流れをじっと温め,ホログラムは時を切り取り凍結する。悠久の時間が流れる空間と大自然の太陽の光との対比にも大いに興味をそそられた。当時,古代アッピア街道沿いの一連の古代ローマ遺跡群は,少しずつエリアごとに博物館として整備されつつあり,観光客を積極的に受け入れ始めていた。話のあった場所は,2000年前の貴族の館,Villa dei Quintili が建つ丘全体が博物館として整備され,一般にオープンしたばかりであった。多くの人に周知されるようにと,敷地内の一角では現代アーティストの展示の企画や,野外でコンサートなどが開催されていた。太陽のインスタレーションも,そのような試みの一環として受け入れられたのだ。
 6月に初めて現地を下見に訪れた時にまず驚いたのは,その敷地の広さであった。門を入ると,まず遺跡の出土品が展示されている建物(図1(a)(b))があり,その建物を抜けると,目の前には広大ななだらかな丘が広がっている(図2)。丘の上の方に一連の建物群の遺跡が見えるが,歩いてたどり着くのに20~30分はかかる。敷地は丘のさらに向こう側まで広がっていた。Villa dei Quintiliの門(図1(a) )はアッピア街道沿いであるが,この道路は現代の車社会用の新道である。敷地の反対側,丘の向こう側に,この新アッピア街道と並行して古代のアッピア街道がそのまま残っている。
 Villa dei Quintiliが実は古代アッピア街道沿いにも面していて(図3),そちらには裏門がある。

古代アッピア街道

 野外作品は広い空間との戦いでもある。最初のプランが図4である。作品全体のタイトルを「光の工程」とした。図5は案内状だ。制作したオブジェ(図6 ,図7)の数は300個,素材のパーツはすべて事前に現地に送っておき,組み立てだけ現地で行うことにしたのだが,7~8人がかりで行い,地面に設置する作業も含めると1週間以上を要した。準備作業をしているあいだも,博物館は開館中だった。したがって,博物館の入館者たちは必ずと言ってよいほど,作業中の我々のところに近寄っては声を掛けてきた。遺跡の草むらに何やら見える鮮やかな虹の色に興味をそそられるらしかった。そして,とにかく無事にオープンにこぎつけた。
 建物遺跡を背景に,丘の中腹の直径80 mのインスタレーション作品が図8である。円の中心に数十個のオブジェを集中させ,そこからの魚眼レンズによる景観が図9である。このインスタレーションはアッピア街道を走る車の中からも,丘の緑の中に輝く鮮やかな光の色が良く見える。遺跡の建物を左手に眺めながら丘を上がっていくと,右手に広い原っぱが広がる。そこにはsinカーブを描いたインスタレーションを設置した(図10)。丘の上に立って改めて気づかされたのは,“なんと空の広いことか! ”。しばらく体験したことのない風景が目の前に広がっていたのだ。

 丘の上には貯水槽として使用された石の遺跡建造物(図11)があった。実は野外作品のほか,その建物の中では,水と大型のレインボウホログラムのインスタレーション(図12)「アクエウスのつぶやき」を展示した(図13(a)(b))。下見打ち合わせに訪れた時,この建物遺跡のことを知り,水とホログラムのインスタレーションにぴったりの空間と考えたからである。
 会期中も,作品の側にいると,必ず誰かが話しかけてくる。遺跡空間と不思議な現代アートの組み合わせに興味を覚えるらしい。その多くが海外からの旅行者であった。さすが古代ローマ遺跡の博物館である。図14はロシアからのビジターとの記念撮影である。私が作者本人と分かると,サインまで求められた(笑)。  会期中,外国から博物館に私あての電話がかかった。初回は私が外にいて取り次ぎされなかったが,伝言で翌日指定の時間に電話の前で待ち受けていた。ドイツのプルハイムでホログラフィーミュージアム(O plus E 2019年7・8月号掲載)を立ち上げたマティアス・ラウクからだった。私は案内状をヨーロッパの知人たちに送付したが,それを見ての連絡であった。知人の少ないイタリアで,わざわざ電話をくれて旧交を温める会話はうれしかった。携帯電話がまだ普及してない頃である。「今南仏に住んでいる。ローマからそんなに遠くないから,展覧会が終わったら立ち寄らないか?」と誘ってくれた。残念ながら貧乏暇なしのニホンジンアーティストには難しかった。2年後,彼が亡くなったことを知った。南仏滞在は療養中だったと後で知った。私のドイツでの多くの活動を支えてくれた人物で,ローマでの何気ない会話は忘れがたい思い出になった。

ベルニサージュと後片付け


 開会前日はアットホームなベルニサージュが開かれた。会場は博物館建物の中庭である(図15)。この中庭には大きなオリーブの木が植えられていて,10月であったが,緑の実をスズナリにつけた枝を大きく広げ,その枝は手の届く高さまでしだれていた。女性客の1人がこのオリーブの実をたくさん摘んでいた。  そして,テープカットが行われた(図16)。屋外のパーティは気分爽快である(図17)。日本ではなかなか味わえないシチュエーションだ。私のために特製のネーム入りケーキを準備してくれたが,なぜかスペルが間違っていた(図18)。異国人の名前は誰にとっても難しいものだ。ご愛敬である。 そして,短い1週間の会期を終えると,すべて元通りにする撤去作業が待っている(図19)。 野外のインスタレーションには,多くの現地作業が欠かせない。いずれの作品も,常に多くの人たちの協力によってはじめて実現可能となったことに「感謝」である。  後日,イタリアに住む友人が,Villa dei Quintiliの展覧会担当者が「これまでの展覧会の中で,一番良かった」と言っていたと教えてくれた。また,数年たったころ,海外のインターネットの写真家サイトに,このインスタレーションのあるVilla dei Quintiliの写真(Setsuko Ishiiのクレジット入り)が載っているのを偶然見つけた。まったく知らない人物だった。作家本人の関知しないところで,作品が人々に受け入れられていたと知ることは、アーティストにとって創作活動を続けるうえで,どんなに勇気づけられることだろう。貴重な応援のエネルギーである。

( OplusE 2020年3・4月号(第472号)掲載。執筆:石井勢津子氏。
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