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ホログラフィーアートは世界をめぐる 第10回 旅するホログラム part 2

小石ちゃん(Piccolo sasso?)

 1985年イタリアのジェノバで開催された日本フェスティバル「日本―未来の前衛」(カタログ図1 (b))に招待された。この展覧会は日本の現在の文化を紹介するという企画で,映画,デザイン,ファッション,舞踏などのジャンルが網羅され,コンテンポラリーでラディカルな作品が上映,展示された。私の展示会場(図1 (a))のパラッツォロッソ(赤い宮殿)は,大理石の床の歴史的な美しい空間であった。いつものとおり事前サンプルを送り,重さを指定しておいた。そして,展示スペースに行くと,部屋の隅に貧相な量の砂利の袋が置かれている。ずいぶん量が足りない。確かめると,指定された通りの重さだと言う。しばし考えて,合点がいった。準備された小石の素材は100%大理石であった。日本の寒水砂は軽い石灰岩が多く含まれているため,比重がかなり軽い。そのため,見かけのボリュームに顕著な違いとなって表れたのだ。展示空間に見合う量を考えると,倍以上必要だ。主催者を拝み倒して急きょ大量の追加をお願いする羽目になった。重さにすると約500 kgほどだ。展覧会の会場づくりには,いつも大工や,特にホログラムの場合,電気の職人さんたちとの共同作業となる。準備のため私のスペースにやってきた彼らは,今まで扱いなれた絵画や美しく彫刻された大理石でなく,山積みの砂利の袋を前に,もっと必要だと騒ぎ,重い袋を引きずり奮闘してインスタレーションを設営している私をながめて何を思ったのか,いつの間にか私にあだ名をつけていた。それが,“小石ちゃん”。
 それ以来,私が作業を終えてほかの会場で彼らに出会うと,用事がなくても,にこにこしながら私に“小石ちゃん”と声をかけてくる。それは会期中のジェノバに滞在している間,町なかで出会っても同じように親しげに,遠くからでも,“小石ちゃ~ん”だ。イタリア人の人なつっこさを,あらためて実感できた楽しい旅でもあった。
 ところで,ジェノバでは,この楽しい思い出とはうらはらの経験も目にした。80年代のジェノバの街は,実はあまり治安がよくなかった。われわれは旧市街の伝統ある五つ星ホテルに宿泊していた。毎朝,ホテルから美しい古い街並みを楽しみながら会場に歩いて通う。ある朝,いつものとおり,のんびり歩道を歩いていると,数十メートル先で突然女性の叫び声が聞こえ,人がもみあっているのが見えた。何が起こったのかわからず,私は茫然として足を止めた。そばのカフェから人々は顔を出したが,チラと眺めてまたすぐ店の中に引っ込んでしまった。数分後,事情が判明した。女性は観光客で,一緒の旅行者が駆け寄って彼女を助け起こしたが,ハンドバックを若いギャングスタ―にひったくられてしまったらしい。ギャングスターは路地から突然あらわれ,表通りを歩いている観光客を狙って,ひったくりが頻発しているらしいことが後でわかった。数分前に私が歩いていたらと考えたらゾッとした。後でイタリア人に,カフェにいた人たちがなぜ助けに行かなかったのか聞いたら,「いつながれ玉が飛んでくるかもわからない。危険なところからはすぐ身を隠すことが大切だ」と言われ,茫然と足を止めて立っていた私の行動は危機管理に欠けていたということだった。
 さて,展示準備も滞りなく終わり,オープニングもすんで貴族の館で催されるディナーパーティの会場に出かけた時のことだ。夕暮れ時,大きな木の門をくぐったとき,あるものが目に留まった。なんと注射器が門の表面に刺さってそのままになっているではないか。ちょうどその日,日本のアーティストの1人がディナーに来る途中,ビルのエレベーターの中で少年にネックレスを引きちぎられ奪われたとショックを受けていた。ちぎれなかったらもっと危険だったに違いない。イタリアでこのような治安の悪さを実感した旅は後にも先にもこの時だけであったが,ジェノバが港町であるという地理的条件と時代背景が影響していたのかもしれない。


(a)    パラッツオロッソのインスタレーション            (b) カタログ

図1 1985 GIAPPONE AVANGUARDIA DEL FUTURO , ジェノバ, イタリア   

Museum für Holographie(ドイツ)

 1987年は機会があって,国際芸術家会館派遣生として4月から10か月間ほどパリに住んだ。会館はシテ島の近くで,毎日ノートルダム大聖堂を眺めていたので,先日の大火事はたいへん衝撃的な出来事であった。パリの長期滞在は2度目だが,ヨーロッパのどこに出かけるにも実に便利な地である。この年の5月から6月にかけて,ドイツのプルハイム(ケルン郊外の都市)のホログラフィーミュージアムで,私の大きな個展が企画された。複数のインスタレーション作品を展示したが,ホログラム以外の素材はすべて現地で調達された。カタログ(図2(b))の表紙の作品「Hide and Seek(かくれんぼ)」はチキンワイアーとキルト芯地とホログラムによるインスタレーションである。図2(a)がオープニングの会場風景だ。館長マティアス・ラウク(中央)と当時活躍していたドイツのアートジャーナリスト(右)とのスナップである。この個展のベルニサージュでは,会場の一角でドイツの現代音楽(実験音楽)アーティストの演奏が催されたことも,大変印象深かった。
 このミュージアムは,1979年,館長のマティアス・ラウクによって設立された。彼はこの新しいメディアの啓蒙と普及に情熱を注いだ。ホログラフィーアートの先進国であったアメリカのホログラムをいち早くヨーロッパに紹介し,プロデューサーとして,ホログラフィーアートのヨーロッパへの普及に大きな影響を与えた人物である。プルハイムからパリに帰る日,アウトバーンの交通渋滞につかまり,予定の飛行機の便に乗り遅れるという,初めての大失敗を経験した。当日はパリでアポイントが入っていたので,キャンセルの連絡を取るのにひと苦労した。しかし,ヨーロッパ内の出来事で何とかやり過ごすことができ,長距離便でなくてホントによかったと,胸をなでおろしたのだった。
 その後, ミュージアムがプルハイム市に働きかけてEuropean Holography Awardが立ち上げられ, 私は1993年第2回European Holography Awardを受賞する恩恵にあずかり,再びこのミュージアムで受賞展が開催されることになった。副賞には10,000マルクが授与された(当時の換算で約650,000円?)。この副賞は,私を含め他の受賞者達にとっても大変ありがたい活動資金あるいは制作資金となったに違いない。日本と比べ,新しいメディアや実験的なアートへの理解度の違いをしみじみと思い知らされる経験であった。

(a)ミュージアム館長 (中央)とアートジャーナリスト (右)                  (b)個展カタログ 1987 Museum

図2  1987 「SETSUKO ISHII 個展」Museum fűr Holographie,プルハイム,ドイツ

洗濯と天日干し

 シェラトンウォーカーヒルアートセンターはソウル郊外の五つ星ホテル,シェラトンウォーカーヒルホテルに併設された施設で,広い会場は見ごたえのある企画展が毎回開催されていた。現在はグランドウォーカーヒルと名を変えているようだが,ここで,1987年の夏,私の個展が開催された(図3はその個展のカタログ)。ちょうど夏休みで,パリから東京に帰国していた時である。
 まず材料を調達するからと連れていかれたのは,なんと砕石場であった。小石は袋詰めされているのを想像していたら,サイズや色別に分別され,砂利がただ山積みになっている場所であった。そこから好きなものを選べという。色やサイズは適当に選び,ボリュームは目分量でシャベルカーで適当にトラックに積んでもらった。泥混じりが不安であったが,選択の余地なし。何とか材料だけは入手できた。1週間の設営作業中,他の作品の設営が終わるころになっても,なかなか小石が会場に届かない。何度も問いただすが,返事はいつも「今,準備中」。小石に一体何を準備しているというのか? それでも私がしつこく聞くと,とうとう私をホテルのバックヤードに連れていってくれた。そこで目にしたのは,真夏の炎天下,5~6人の人たちが,手作業で,例の砂利をふるいにかけて大きさを整え,次に水で泥などの汚れをきれいに洗い,そして,地面に広げたシートの上で天日で乾かすという一連の作業を延々と続けていたのである。すでに数日が費やされ,まだ完了していなかったのだ。こんな作業をしてくれていたのかと,ありがたい思いで頭が下がった。おかげで,展覧会では美しい真っ白な小石のインスタレーションを展示することができた。
 会場はソウルの中心地から少し郊外に位置し,街からの観客には地の利が良いとは言い難い。しかし,1か月の展示期間の後半になるにつれて,入場者が増えていったと聞く。ホログラフィーアートがまだほとんど一般に認知されてない時期であったが,会期が進むにつれて,街からの若者の観客が少しずつ増えてきたらしい。主催者は会期の延長を望んだが,会場が次の企画で詰まっていて予定通りの会期終了となり,少し残念であったが,手ごたえも感じられた展覧会であった。

図3 個展のカタログ 1987「個展」walker hill art center ソウル 韓国

アートフェア

 1989年,ドイツのアートキュレーターから連絡が入った。ミュンヘンの画廊がハンブルグのアートフェアに「Riverside」を出品したいという。100の画廊がそれぞれ1人のアーティストを推挙展示する「フォーラムʼ89 ,100ワンマンショー」である(図4(b),カタログ)。世界の画商たちが集まるコマーシャルなアートフェアであり,申し出には少々面食らったが,初体験で興味深かった。設営のためいざ会場に行くと,作品の多くは伝統的なメディア(絵画や彫刻立体作品)で占められ,実験的な作品は皆無,床に広げるホログラフィーインスタレーションはもちろん私1人であった。図4(a)は会場写真,A3サイズのリーフレットとして印刷された。残念ながらビジネスには結びつかなかった。きっと私を呼んでくれたキュレーターやギャラリーは,場を読み違えたか,もしくは時期尚早と思ったことであろう。

  (a)会場インスタレーション,リーフレット          (b)アートフェア・カタログ

図4 1989「Art Fair, FORUM '89, 100 ワンマンショー」,ハンブルグメッセ,ドイツ

 ところで,この作品が戻ってきたとき,現地で調達した小石約300 kgと床に敷いた約3 m×5 mのカーペットまでそっくり送られてきたのには驚いた。素材のすべてを作品と考えて,とにかくすべてを送ってくれたことはありがたいと言うべきか,画廊との意思疎通がうまくいっていなかった結果と言うべきか。いずれにしても,私には現地調達の素材まで保管するスペースは持ち合わせていない。送り出したホログラム以外は,すべて通関手続きをせず,そのまま廃棄処分してもらった。重い石や大きな体積のどうでもよいカーペットの無駄な空輸費用はいかばかりであったろうか。これはビンボーアーティストの理解を超える出来事であった。
 このインスタレーションは,さらにミュンヘンやカナダのモントリオールでも展示され,2006年には国立台湾師範大学でも展示された(図5(a),(b))。この作品は私と同じくらい?,あるいはそれ以上? 世界を旅しているかもしれない。数か月間にわたる展示期間も考慮すると,ワンセットでは足りず,もう1つスペアを作った。しかし,ハンブルグのコマーシャルなアートフェアの時でさえ,作品は売れることなく戻ってきた。これまでコレクターのところに届くという話は一度もなく,現在も私の手元に居続けている。この作品を通して,私は実に愉快で,苦労満載の,退屈しない経験をさせてもらった。しかし,この先,この作品が旅するのを待つのではなく,私の倉庫から出て多くの人の目に触れる環境に置かれることを願っている。


図5 2006「国立台湾師範大学」ギャラリー

(OplusE 2019年7・8月号(第468号)掲載。執筆:石井勢津子氏。
ご所属などは掲載当時の情報です)

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