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純粋にふざけた人だった松岡正剛

宇宙的冗談が必要だ 松岡正剛

もしかしたら当人も勘違いしちゃったのかもしれない
ただ本当はふざけた人でした
だいたいセイゴオマーキングとかふざけてるもんね
なにがセイゴオマーキングだよってつっこみながら読んでましたから

われわれはいつだって「少年」でありたい
数学ですら模型飛行器ではないか
 松岡正剛

松岡正剛が八十まで「少年」だったのは凄いことです
ラッキーだったのでしょう
あるいはまわりがそれを許したのか?それを愛したのか?
ただある人物が「少年」でありつづけることはまわりの苦労が相当あったんじゃないですかね
少年老い易く学成り難しなどといいますがシリアスな学からはもっとも遠い人でした
それでも科学を語るときはちょっと真剣すぎたような気もします
数学など模型ヒコーキだといっていたのにね
まあこれも模型ヒコーキだからこそ真剣になったのかもしれませんが
稲垣足穂だって別に物理学を正式に学んだ人でもなんでもないわけで
むしろアマチュアだったからテキトウにロバチェフスキー空間と精神分析と少年愛と晩夏の夕暮と宇宙的郷愁を融合させるというムチャができた
本来は冗談であり妄想であったものをA感覚というのはヤコブ・ベーメですね存在の神秘ですねなどといって持て囃した
でもそれも冗談だったし冗談だからこそおもしろかった
しかしエビデンスなどというものに雁字搦めになってしまってテキトウにものをいうことができなくなってしまいました
知なんてものは痴よりも価値があるわけでもないのに
だいたい知なんてものは持ってたら恥ずかしいもので
知は人を束縛するもので本当は棄てなければならない
セイゴウさんだって七〇年代位はそういうノリだった
豪快なまでに雑だったデタラメだった
しかしそれを編集だ!!と大見得を切った
これは当然大顰蹙で松岡正剛なんてのはインチキでイカガワシイものの代表選手だったわけですよ
マジメな人は洟もひっかけなかった
それが偉大なる知の巨人、知の巨匠として死んだというのはどうしたことなんでしょうか?
なんか違うような気がするんですよね

今夜追悼として読むんだったらこれなんかがふさわしいかもしれません
愛の傾向と対策 工作舎 一九八〇年
セイゴウさんとタモリの対談本ですね
国会図書館のIDがあれば読める筈です

今、松岡正剛と案外近いところにいるのはみうらじゅんだったりします
対談とかあったらいいなと思いましたが対談はありませんでた
ただ見仏記の書評はありました
この書評は水際立ってます

そう羅漢といえばラカン
そうこなきゃダメなんです
そしてみうらといとうに決して悟りなんかゆめゆめ開くんじゃないぞと忠告して締めてます
そうです悟りを開くなんてのは鈍臭さの極致なんですから












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