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餌付け行為のこと・教科書とこの社会のこと

―テーマ―
・餌付け行為のこと:餌付け行為を,理科の文脈で考えること
・教科書と社会のこと:理科の知識を使って,社会問題に切り込むということ
※いつもより語調が強めです。予めご容赦ください。

―おことわり―
この投稿は,twitterハッシュタグ「高校生の皆さんにはお手元の教科書を開いていただいて」を使って呟いた内容の清書です。でも,今回の投稿もやや大人向けです。高校生の方もどうぞ。

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―餌付け行為を理科の文脈で考える―

 ペットではない動物(以下,「動物」とします)への餌やりが問題視され,自治体によっては条例で餌やりを規制するような流れになりましたね。
 動物に餌付けする行為は,自然と人間の「境界」を曖昧なものにします。これは,人間が自然に取り入ろうとすると,自然も人間に取り入ろうとするということです。自然と人間の境界が曖昧なものになると,動物は人間の領域で自然のように振る舞いますから,その先では当然,糞害などが起こります。また人間の方も,自然の領域で人間の論理で動こうとします。都市化の進んだ人間は,「仕方ない」を排除したがる傾向があります。歩きにくい山道は「歩きにくい」という理由で舗装され,生き物の住処は分断されます。

 ああ,自然と人間の「共生」ですか…いや,大いに結構ですよ。共生とは非常に耳触りのいい言葉で,動物と人間が手と手をとりあって大団円を―って,違います,そうじゃない。自然と人間の間には境界が必要です。共生というのであれば尚のことで,その境界を守ることでこそ,お互いの「生」が担保されるのです。ここで言う「共生」は生物用語としてのものではなく,ただの人間の論理です。自然の側に,その論理はありません。自然は,断じて優しくなんてありません。
 もちろん,この境界は1本の線のような,幅のないものではありません。自然と人間の境界には,両者がせめぎ合う緩衝帯が発生します。人里と森林の境界といった物理的・地理的な緩衝帯から,都市に生活する動物と人間との境界(≒距離感)といったやや概念的な緩衝帯など,その種類は様々です(今回は主に後者の話をします)。緩衝帯は,自然に対する人間の影響や,人間に対する自然の影響を文字通り和らげるはたらきを担いますが,その緩衝帯のはたらきは,両者の影響の大きさが一定の範囲内にある限りにおいて効果を発揮します。餌付け行為による糞害の発生は,人間が動物に対して距離感を詰めすぎた結果,この緩衝帯が機能不全となった結果とも言えるでしょう。

 さて,先日TVでこの手のニュースを観ていましたら,レポーターの方が,餌付け行為をなさる方にインタビューをしていました。ネコに対しては「懐かせて捕獲するため」と言い,ハトについては「かわいいから」と言っていましたね。ふざけないで,の一言でも言いたくなるところですが,少し冷静になって考えてみることにしましょう。
 餌付け行為は良くないことである―これは,高校生物の教科書には書いてありません。では,高校生の皆さんが将来,意思決定を誤らないためには,どこでその情報を手にすればいいのでしょう。知らなかったことだから,これは新しい情報だ,だから新しいこととして学べばいい,という類のものでしょうか?いいえ。この情報は,高校生物や,義務教育で学習したはずの理科の知識を使って,組み立てられるはずのものです。
 理科は科学の成果であり,科学とはそれまでの科学の成果から予測(仮説)を立てて,それを実証することで進歩を続けるものです。手始めに,「もし動物に餌付けを行うと,何が起こるのか」という問いを立て,理科の文脈でその答えを予測するというところから,一緒に考えてみたいと思います。

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―参考資料や,重要テーマなどの共有―

 本稿をまとめるにあたり,参考にしたものは以下の通りです。

高校生物の検定教科書(出版社は問いません)
人と野生動物の関わりと感染症―野鳥大量死と餌付けを例に(日本野生動物医学会誌。リンクは2019年12月11日確認)
野生グマに対する餌付け行為としてのドングリ散布の是非について~保全生物学的観点から~(福井市自然史博物館研究報告。リンクは2019年12月11日確認)
野生鳥獣の保護および管理(環境省HP。リンクは2019年12月11日確認)
キャンベル生物学(丸善出版。諸々の裏取りや表現の確認に)

 また,本稿を通して知っていただきたい,学校理科で学習する重要なテーマは以下の通りです。簡単に説明文も加えますので,後の参考になさってください。

・生態ピラミッド(中学理科):植物,バッタ,鳥からなる単純な食物連鎖を想定し,それらを下から積み上げたものです。植物が増えるとバッタが増え,バッタが増えると鳥が増えて植物が減り,鳥が増えるとバッタが減って植物が増える―ということを表せるものです。
・自然浄化(生物基礎):ある範囲内の汚れであれば,川に流されても,水に希釈されたり,微生物に分解されたりして,元に戻ることを言います。“ある範囲内”であることが重要です。
・外来生物(生物基礎):意図的かどうかを問わず,人の手によって,本来の生息場所ではないところから移動させられて,新たな場所に定着した生物のことです。非意図的でも外来生物と定義されるので,「知らなかった」では済まないところがポイントです。
・個体群密度(生物):同種の個体の集団を個体群といいます。単位面積あたり,その種の個体数がいくつであるかを算出したものを,個体群密度といいます。一般に,個体群密度が高くなると,環境抵抗(後述)が生じ,個体数の増加が抑えられます。

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―もし動物に餌付けを行うと,何が起こるのか―

 例えば,ハトに餌付けをすると,ハトの数が増えます。「生態ピラミッド」の考え方から,これは明らかです。バッタが増えれば鳥が増えるのですから,餌が増えるとハトが増えるのです。
 ハトが増えると,ハトの「個体群密度」が増加します。個体群密度が増加すると「環境抵抗」がはたらき,ハトの個体数の増加は抑えられます。ならいいじゃないか―よくありません。環境抵抗とは,一般に1個体あたりの餌の減少,1個体あたりの生活面積の減少,集団全体の排泄物の増加といった,生活環境の悪化を一括りにしたもの・考え方です。つまり,ハトの個体群密度が増加すると,ハトの排泄物が増加します。

 高密度となったハトの集団で,ハトの排泄物が増加することは不衛生であり,ハトの集団内での病気の蔓延を助長します。よかれと思って行った餌付けによって,ハトの集団に感染症を引き起こし,ハトの個体群を減らす可能性もあります。また,これは高校生物のその先にあるものですが,「人獣共通感染症」の懸念も生じます。人獣共通感染症とは,文字通り人間と動物に共通して感染する病気であり,動物の側で蔓延した病原体が人間の健康を害することがあります。他方,人獣共通感染症の蔓延に至らずとも,増えた動物の嘴や爪で怪我をする,排泄物の巻き上げを肺に吸い込むといった被害も考えられます。こうした被害を,餌付けなどしていない,たまたま近くを通りかかっただけの無関係の人間が受けないようにすることなど,現実的には不可能でしょう。さらに,地域によっては「農業被害」も考えられます。野生動物の集団で蔓延した感染症が,家禽や家畜に感染する恐れも生じるということです。先日の豚コレラの騒動を見ても分かる通り,ひとたび家禽・家畜に伝染病が広まれば,畜産経済は大打撃を受けてしまいます。

 餌付け行為によって被害を受けるのは,多くの場合,餌付け行為をした人間ではありません。そこを通りかかった無関係の人間,そしてその近くで第一次産業を営む人間です。これはまさしく加害であり,他者の健康を脅かすリスクの増加であり,他者の経済を破壊するリスクの増加です。TVでは「掃除もしている」などと言っていましたが,ほうきで払えば排泄物の巻き上げが発生します。何をしても無駄です。餌付け行為をしなければいいのです。

 別の具体例を挙げてみましょう。
 例えば,水辺のカモに餌付けをすると,餌は水に流されます。餌は本来水に流れることのなかった,いわば汚濁です。汚濁の量が「自然浄化」の許容範囲を超えると,河川や湖沼の生態系が乱されてしまいます。水系にいる微生物は,汚濁を分解する際に酸素を消費します。大量の汚濁が生じ,水中の酸素が大量に消費されると,酸素を必要とする他の生物が酸欠を起こし,死亡します。水系の生物多様性は損なわれ,そして一度損なわれた生物多様性は元に戻りません。

「少しならいいんでしょう?」
「自然にとって「少し」がどれくらいか分からないから,余計なことをしないでと申し上げているのです」

 「少しならいいんでしょう?」という方は,往々にして人間の尺度で「少し」を定義しようとします。分かりやすい例を挙げましょう。例えば,人間にとって気温が1℃上昇することと,魚類にとって海水温が1℃上昇することはわけが違います。水は空気に比べて圧倒的に温まりにくい(「比熱」です。理科で習いますね)ので,魚類は人間よりも,温度変化が相対的に小さな環境で暮らしています。また,魚類は一般に身体が人間よりも小さく,それゆえに体積あたりの表面積が大きい生物です。体積あたりの表面積が大きいと,環境の変化が体内に及ぼす影響も大きくなります。魚種によって状況は違うこともあって些か雑な一般化ではありますが,一般に海水魚にとっての1℃は人間にとっての10℃に相当すると言われています。2,3℃ならそれは20,30℃です。アクアリウムを趣味にされている方が,水温に細心の注意を払うのも,お分かりいただけると思います。

 さぁ,話を続けます。
 クマに各地からドングリを贈ろうなんてお話を聞いたことがある方,いらっしゃるでしょうか。これには次の①〜③のような懸念が生じます。

① ドングリは生物であり,発芽して「外来生物」として定着する恐れがある
 生き物に国境など無意味ですから,外来生物は,国外からきた生物を指すのではありません。国内であっても,例えば東北で代々子孫を残してきた生き物を四国に移動させれば,それは外来生物です。そして,ドングリは樹木の種子であり,したがってドングリは生き物です。つまりドングリの移動は生物の移動です。また,外来生物の定着は,それが何を引き起こすかの予測が困難です。ですから,そもそも外来生物を生じさせないという「予防原則」が採られます。予防原則とは,「少しならいいのでは」という考えを原則として認めないということです(外来生物の話は,また別のところでしましょう)。

② ドングリについていた虫や細菌が外来生物として定着する恐れがある
 ドングリには虫や,目に見えない細菌がついているかもしれません。この虫や細菌が,①のように外来生物として定着するかもしれません。
 「虫や細菌まで気にしていたら,うかうかと登山にも行けないじゃないか」ええ,その通りです。いま私は,ごくごく小さな可能性の話をしています。ですが,この類のリスクをさらに少しでも下げるために,各々ができることをするのがよいと申し上げているのです。登山に行くなら入山前に,靴をよく叩き,靴の裏をよくこすります。靴の裏には,地面を歩くだけでも草の種がよくくっつくので,それを山に持ち込まないようにするためです。植生調査で他所様の畑に入るときなどは,靴を丈夫なビニル袋で覆って靴の裏が畑の土に触れないようにし,調査終了後に袋ごと廃棄します。畜産場では日常的に消毒を行い,家畜の伝染病を予防します。ほら,人間側のベネフィットとコストを考慮した上で,こうして様々なレベルで自然に与える影響を小さくする術があるんです。あらゆるリスクはゼロにできませんが,個人のちょっとした気付きですら減らすことはできるんです。減らせるなら,減らすべきでしょう?

③ そもそもクマにドングリが届かない
 ②のような外来生物問題・伝染病の懸念があるので,然らばドングリを煮沸してみることにしましょう。煮沸したドングリは死んでいますから,確かに発芽もしませんし,虫や細菌も死んでいます。では,煮沸したドングリを森にまくと,どうなるでしょうか。
 もう一度,生態ピラミッドを思い出してみましょう。森に生態ピラミッドを当てはめると,ドングリ→ネズミ→…あれ?そうです。クマよりも圧倒的にネズミの方が多いので,撒いたドングリはクマに届く前にネズミに消費され,ネズミの個体群密度の増加を招きます。ネズミの個体群密度の増加は,ネズミの生息環境の悪化を招きます。生息環境の悪化したネズミは,何を餌として求めるでしょうか。人間がドングリを撒くことで自然との境界をあいまいにした結果,ネズミはその境界をおかし,例えば農作物に手を出すのではありませんか。

 これが自然の側の論理というものです。そういえば,「共生」は人間の論理でしたっけ。

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―生き物への想像力―

 餌付け行為の影響は,他者の「健康問題」,第一次産業従事者の「経済問題」,周辺地域の「環境問題」に及びます。餌付け行為を行った本人には,あまり影響がありません。しかし,ここまで見てきたように,餌付け行為がどのような影響を及ぼすかについては,学校理科の範疇で概ね悪い予測が立ちます。
 健康問題や経済問題,環境問題の他に,生き物への想像力として,もう1つだけ考えてみてください。餌付け行為は,特定の生き物の数を増やします。特定の生き物の増加は,他の生き物の増減を招きます。増減の「減」とは,つまり死ぬということです。つまり,餌付けをしなければ死ぬことのなかった生き物がいます。他方,餌付けによって増えた個体は,人間から餌を与えられなければ生まれることのなかった個体です(産子数は,親の栄養状態によって変わりますからね)。その個体は,人間から餌という資源が与えられない環境になれば,やはり死ぬのです。いずれにせよ,餌付けをすると,これから死ぬ生き物が増えるんです。

 ここで,餌付け行為を,自然と人間との境界の破壊という文脈で書くことは,ある種の面倒くささのようなものがあるなぁという気持ちも吐露しておきます。「学校や私有地におけるビオトープの創出といった活動はどうなのか」といった話にされてしまうかもしれない…ということが頭をよぎるからです(人間の手で,生き物の餌となるような植物を栽培するといったことになりますからね)。そんなことを言われたら農業ができなくなるのですが,ここではあくまで餌付け行為へのカウンターとして,人間の食料として生産されたものを直接与えないという線引きを行いたいと思います。こと学校ビオトープに関しては,ホームセンターで買ったような植物を植えるのではなく,なるたけ近隣に生育する生物でビオトープを形成するといったことに留意することで,その教育効果で以て差し引きプラスとすると考えて差し支えないでしょう。

 結局,上手にやろうねという話なのです。自然との距離感を学ぶためには,自然を知らなくてはならず,自然を知るためには,自然との距離感を詰めなければならなりません。ですが,そこにはやはり上手いやり方があるはずで,下手なやり方をリスクとして捉える考え方が必要です。動物への餌付け行為はハイリスクノーリターンと言わざるを得ません。

 生き物と関わる以上,そこには常に「何らかの怖さ」を感じておかねばならないと,私は私自身のために思うのです。何が起きるか分からない怖さ,自分の振る舞いが何を引き起こすか分からない怖さ―自然の論理から飛び出てしまった人間が,その自然となるべく上手くやっていくためには,それを忘れてはいけないと思うのです(私が本稿で人間のことをヒトと書かないのは,その所為でもあります)

 「もし○○したら,どうなる?」と,問いを立てて予測する―学校理科で学んだことを足場にすると,こうやって社会問題にも切り込むことができます。学校で勉強したことは,あなたが積極的に役に立たせることで初めて生きてきます。高校生の皆さんにはお手元の教科書を開いていただいて,まずは「予測」という科学の営みの一部を感じてもらえれば幸いです。(結)

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