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私にはこれが愛


あなたは私を愛してると言うけど、私はあなたの「愛」をどう受け取ればいいのかわからない。

私はただ、そばにいて欲しかった。だから、遠く離れた場所からの「愛してる」が、分からなかった。

離れてても愛されてる、と信じて生きていけるだけの強さもないから、忘れていくことしかできなかった。

あのころ、私はまだ7歳だった。

私は父が大好きだった。

私が幼い頃、父はある山奥の神社で禰宜を務めていた。白装束を纏った父の姿は美しく、張り詰めていた。子供心に、父が神に仕える時の人間離れした雰囲気を不思議に思った。けれど父が帰宅して帯を解くと、くつろいだ顔が現れ、なんだかとてもほっとした。

休日の父は、自然を愛する物知り博士だった。草木花、それから虫の名前、天気のあれこれをよく知っていた。なんでもない岩をひっくり返して、驚き騒ぐ地中の虫の様子を一緒に観察したりした。

父は絵を描くのが好きだったから、思い出の多くは、森の中でのスケッチだった。私も妹も、渡されるのは画用紙だけ。クレヨンも絵の具もない。父は楽しそうに「そこに咲いてる花をすり潰して、色をつけてごらん」と手本を見せる。私は嬉々として没頭する。妹はそんな私の様子を、興味津々で覗き込む。

夜になると、父は母の腰に手を回し、二人は見つめ合い、ダンスを踊った。家の中にはいろんな洋楽が流れていた。山奥の古民家で、畳の上で、二人にはダンスフロアだった。

父は私を子供扱いしなかったから、叱るときも容赦をしなかった。けれど私は、私を怒るより、私のために怒る父の方が怖かった。誰かが私にイタズラすると、父は鬼のように憤慨した。私は、父に守られていた。

父と別れたのは、幼稚園の年長の時だった。すでに父は家にいなかったし、私も遠くへ引っ越した。山奥の古民家は、空っぽになった。

しかし離婚後も、夏休みの間だけ父と会っていた。毎年、夏が来るのがいちばんの楽しみだった。父がはるばる車で迎えに来てくれるのが嬉しかった。けれど、車に乗ると、途端に悲しくなった。会えば、また離れ離れになるまでのカウントダウンが始まるから。そういうとき、私はよく車窓から電信柱を数えた。わざわざ声に出して。

父は、会うなりすでに落ち込み始める私が、それを悟られないように振る舞っていることに、気がついていた。

不思議と父は、私の心をよく理解していた。良くも悪くも大雑把な母とは対照的に、父は神経質なくらい繊細で、生きづらいほど勘が良かった。私は父の性質を色濃く受け継いだ。だから父といると何を話していいか分からなかった。何を言っても父は私を見透かし、私もまた父の心に敏感だった。

けれど父は、父なりの「らしさ」を発揮しようとしていたのか、何でも先回りして「言いたいことは言っていい」とよく言った。それで余計に、私は何も言えなくなった。

小4の夏、父が新幹線のホームまで送ってくれたとき、必死で笑顔を作る私に、父は「泣きたいときは泣きなさい」と言った。言いながら父は泣いていた。くしゃくしゃな顔で、「泣けない大人になんかなるな」と、まるで自分に言い聞かすように、周りの客なんか顧みずに大声で言い放った父は、誰よりかっこよかった。

父は別れ際、いつも言っていた。「離れていても、いつも想ってる」「ずっと愛してる」。私はそれを言われるたび嬉しくて、だけど、戸惑ってもいた。愛してるならそばにいて。その一言が父を困らせるのを子供心に理解していたから、だから、何も言えなかった。

どうしてそんなにも愛してるなら、そばにいてくれないの。どうしてこんなに愛してるのに、そばにいられないの。父と別々の家に帰り、喪失感に耐えられず泣いてるうちに朝になって、夏休みが終わり、学校が始まり、日常の忙しさの中に、父への恋慕が埋もれていく。

歳を重ねるごとに、父に会うのが辛くなっていった。小5の冬、母の再婚を機に、私たちは会うのをやめた。

思春期から大人になるまでに、人並みに恋をして、もしかしたら人並み以上のエネルギーで相手とぶつかり合って、泣いたり笑ったりしながら、いつもどこか、私は父と対決しているような気がしていた。父不在の家庭の中で、母は無意識にも私に「父性」を求め、私は自ずとそれに応えるようになった。だから、私は恋愛に父性を求めることをしなかった。どちらかといえば母性のある男性に惹かれた。

一方で、どこか父親然とした目上の男性を前にすると、どう振る舞って良いかわからなかった。自分より大きくて、強い人を前にすると、守られたい気持ちばかりが膨らんで、うまく距離が掴めずに、ただ後退りするしかできなかった。再婚相手は、常に私に気を遣っていた。私には甘えるという発想さえなかった。学校の先生が苦手だった。優しくて朗らかな叔父のことは大好きだったのに、存在そのものが、長年のコンプレックスでもあった。

26歳で結婚をした。式には、父を呼んだ。元々呼ぶつもりはなかった。父が来たらしんみりしすぎるし、すでに交流も少なく、何より断られるのが怖かった。それでも絶対に呼ぶべきだと、近所に住む鈴木家の長女の麻実子さんと、その友人のゆっこさんに背中を押された。

結局、妹が父に声をかけてくれた。父は喜んで来てくれた。父がいる結婚式を成立できたのは、両家の間に、とびきり明るい鈴木家、というご近所さんがいてくれたからだ。私は麻実子さんのウエディングドレスを着ていた。神父役は父親の敏夫さんが引き受けてくれた。私はすでに、自分より強くて大きなものに、守られていた。

4年前、父が突然亡くなった。結局、最後に会ったのが、結婚式になってしまった。

父は結婚式でも堂々としていた。母方の親戚ばかりの中にいるのは決して居心地の良いものではなかったはずなのに。バージンロードで、私と彼が振り返ると、父は大声で「おめでとう!!」と叫んだ。あの声が忘れられない。美しくロマンチックで、どこか人間離れしていた父は、そういった性質を支えるための重要な要素を持っていた。父は根っから、明るい人だった。

お通夜の席で、父は数年前から胃癌だったと聞かされた。私はその間にも、父に何度か会いたいと連絡を入れていたが、すげなく断られていた理由が病気だったことを知って、何も言葉が出なかった。やっとの思いで「どうして誰も知らせてくれなかったの」と言いかけて、飲み込んだ。父の奥さんも、叔母も「お父さんはカッコつけたい人やろ、やから尊重せなならんかった」と言った。それは私の知る父の姿でもあった。

私は、結婚式以来会うことの叶わなかった父の死に顔を、見ることができなかった。最後に挨拶してあげて、と棺桶の前へ背中を押され、反発するように立ち止まった。ここにいる参列者の中で、私と妹だけが、何の心の準備もできていなかったんだ。悲しみと、やりどころのない憤りでどうにかなりそうだった。私は最後まで死に顔を見なかった。妹は、結局見たらしいけど。

父の死に顔を見なかったことが、その後の自分の心の中に、負い目となって残り続けた。私は、結局父を都合よく美化したまま、別れてしまったのではないか。あのとき、カッコよくも美しくもない、ただありのままの父の素顔を、見るべきだったのではないか。

私と妹に、最後まで病気を告げず、別れも告げられなかった父は、かっこ悪かった。父は結局、自分の美しさを、私と妹の心よりも優先したのだ。父には、私と妹が悲しむ顔を見る勇気さえなかったんだ。結果、自分だけ一人で逝ってしまった。情けない。なんて情けない男だ。

私は、死後ようやくあらわになった父の弱さと、ゆっくりと向き合い始めた。生前の父の本当の姿を知りたくなって、一回忌の時、叔母に話を聞いた。叔母は、父の名誉を守ることが、私の心を守ることにつながると考えていた。たびたび行間を挟み込むような語り口は、かえって語ることのできない影の部分を想像させた。私はそんな叔母に、自分と同じ「姉らしさ」を感じた。彼女は父の姉なのだ、としみじみ思った。

話の中で、一つだけ印象に残ったものがあった。父の実家は片田舎にあるのだが、父が小学生のころ、祖父の仕事の都合で東京に引っ越す機会が訪れた。叔母は喜んだが、少年・父はガンとしてはねつけた。「東京なんて引っ越したら、田舎もんだって馬鹿にされる!」

私は驚いた。そもそも父と母は、80年代の東京のディスコで知り合ったイケイケな二人だったのだ。まだ山奥で神主になる前、代々木でデザイナーをしていた父がいかにセンス良くオシャレだったかを、私は母から何度も聞かされていた。そして、父がそのセンスを身につけるために、必死の努力を重ねたことを、容易に想像することができた。

結局、父の負の側面は、数年後に遺産相続手続という形である日突然降りかかってきた。父には借金があったのだ。幸い大した額ではなかったが、言い換えればそれは「カッコつけたい父」が残した遺産とも言えるものだと、私には察せられた。

そもそも、父の死後すぐに遺産相続の相談がなかったのは、こういうわけだったのか、と私は半ば呆れてもいた。父の名誉は、こんな形でもギリギリまで守られ、そして結局は不名誉な形で、露呈するに至ったのだった。

私は遺産放棄手続きをしながら、次第に自分を責め始めた。額の問題ではない。父に借金があったことが、想像以上にショックだった。自分が美化してしまっていたのが悪かったんだ、だからこんなにショックなんだと、事実を簡単には受け入れられない自分をひたすら責め続けた。

そして何より、父を責めた。だから余計に、自分を責めた。

手続きを全て終えて、ほっとしていた時だった。母から電話がかかってきた。実家の大掃除をしていたら、押入れの中から、一冊の通帳が出てきた。それは私の通帳で、もう使っていない古いもの。何の気無しに記帳をめくると、私が上京したとき、父が振り込んだ50万円の記録が残っていた、という。

もう20年近くも前のことで、私も母もそのお金をどう使ったのか、詳しく思い出せなかった。おそらくは学費や引越し代に充てたのだと思う。ただ、母はそれを見た瞬間、すぐに私に知らせなくてはと思った、と言った。こんなタイミングで出てくるなんて、きっと意味があるはずだ、と。

私はハッとした。今にして思えば、当時の父にそんな大金を送れるだけの収入はなかったはずだ。けれど、いや、だからこそ父は、「父の美しさ」を守るために、私の心を守るために、そのお金を、誰かから借りてまで送ってくれたのではなかったか。大人になった私への、お祝いのつもりで。

少しして、母から送られてきた通帳を手にして、私はしばらく泣いた。すぐそばに父の気配を感じた。美しいまま死んだ父が、何より大事にしたかったものが、私の手の中にあった。

その後も、私は根気強く父と向き合った。それは自分自身とより深く向き合う作業でもあった。そうして一つ一つが整理され、あるべきところに戻り、こんがらがった糸がほぐれていくうちに、私はゆっくりと自分を許せるようになっていった。

私が父を美化したこと。父が自分を美化してきたこと。その歪みは何度思い返しても、止められることはなかったのだ。

私たちには、父の弱さを分かち合う機会などなかった。7歳で別れ、その後も再会の時間と機会は限られ、父も私も、お互いの良いところを見せ合うことで精一杯だった。背伸びをしあってでも、私たちは守りたかったのだ。束の間の、宝物みたいな時間を。

私たちは、可愛くて愚かで、温かくて情けないまま、美しさを共犯者のように守り続けた。そうして生まれた結果なら、このまま受け入れるしかないじゃないか。

父を丸ごと受け入れられるようになって、しばらく経ったある日のこと。何の前触れもなく、私はとても重大なことに気がついた。

なぜあれほど父を美化してきたのか。なぜ父が差し出す愛情を、そのまま受け取ることができなかったのか。

私がどうしても取り戻したくて、だけど絶対に取り戻すことのできなかったもの。

それは父自身ではない。

父がいた、あの山奥での暮らしだったのだ。

家族四人で暮らした、あの夢みたいな毎日。父が当たり前にいて、母がいて、妹がいて、家のそばには川が流れ、深い森が広がり、いつも神さんに見守られていた、あの豊かな山奥での暮らし。

父は、その思い出の象徴であり、記憶の扉であり、私が取り戻したかったのは、そばにあって欲しかったのは、父の存在以上に、あの日々だった。

私は声をあげて泣いた。そして、あの幼い日々は、私が作っていく未来の種として、広がる可能性として、今も心の中に生き続けていることにようやく気がついた。

「離れていても、愛している」
「あの日々が戻らなくても、今、ここから、あなたを愛している」

ずっと目の前にあって手を伸ばせなかった父の愛情を、私は30年近い時を経て、やっと受け取ることができたのだった。

振り返れば、私は愛情を受け取ることがずっと下手だった。

相手のことが好きであればあるほど、差し出された愛情を信じるのが怖かった。

しかし、愛情を受け取るということは、相手よりも、まず自分を信じることなのだと、今は思う。

愛情を感じたら、それは大事に受け取っていいんだと、思えるようになった。

私が愛したものを、ただ愛していてもいいんだ、と思えるようになった。

離れていても、死んでしまっても、今なお深く、父を愛するように。

誰かを想うとき、自然と胸に浮かぶ温もりを、ただ呼吸すること。

感じあい、思い合い、差し出し、受け取り、そうして、巡り巡る、風のようなもの。


私はそれが、愛だと思う。

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