『昨日より赤く明日より青く』感想③
映画『昨日より赤く明日より青く』の感想③です。『COYOTE』、『真夜中のひとりたち』について書いています。
※本編内容に直接言及する箇所がありますので、既に映画を観た方、観る前のネタバレOKの方向けです。
●『COYOTE』
新型コロナウイルスの世界的な流行により大きく変化した世の中と、それに翻弄される人々を描いた作品。2020年3月、現在(2021年11月末)も続く「コロナ禍」とも言われる状況の始まりの時期を舞台としている。(ウイルスの広まり自体は3月よりも以前からニュース番組などで報道されるようになっていたが、渡航禁止の措置が本格化したのが3月頃である。)
映画に関するインタビュー(雑誌『anan』No.2276 2021.12.1)の中で主人公・晴人を演じた片寄さんは「(前略)あの頃はまだ、"コロナって、一体なんなんだ?"という状況だったのですが、いま観返してみると当時より理解しやすくて、僕たちはもうコロナ社会に慣れてしまったんだなと感じました。(後略)」と述べている。コロナ禍によって変わった生活様式は、私たちにとって「新しいもの」として受け入れられたが、それが約2年ほどの年月の経過によってしだいに人々の中に定着している。例えば「リモート〇〇」という言葉は当たり前に用いられるようになり、外出時のマスクの着用、検温や手指の消毒は習慣化した。ワクチン接種が進んだことで緊急事態宣言が解除され、外出や飲食店や施設の営業時間、イベントの開催、渡航に関する規制が少なくなっているものの、新たに変異株が確認されている報道もあり、私たちは今も新型コロナウイルスの影響を受けた社会を当事者として生きているのだ。そういった意味で、この物語において「非日常の始まり」として描かれるものは、観客の私たちにとってある種「日常」と感じられる部分があることには奇妙な感覚を覚える。私たちはまだコロナ禍というものを完全なる過去として語る段階にはいない。
自分自身のことを振り返ってみると、仕事の特性上すぐにリモートワークに切り替わったこともあり、仕事に関しては働く場所が変わったことを除けば幸運にもそれほど大きな影響はなかった。しかしプライベートの面で言えば親戚や友人に会う機会は明らかに少なくなり、ライブなど楽しみにしていた催し物の中止に戸惑ったことも多かった。
物語においては、2020年に開催されるはずだった東京オリンピック(開催は延期となり翌年の2021年開催となったが、競技によっては無観客での開催となり、チケットの払戻し問題などについてもたくさんの報道があったことは記憶に新しい。)のチケットを取るためにシカゴから東京へ帰国した晴人が物語の最後には渡航禁止措置の影響を受け、シカゴに戻れなくなる。(晴人は永住権を持っているが市民ではないためシカゴに戻ることはできないと言われている。アメリカ生まれでない場合、市民になるために永住権を取得し、市民になるための諸条件を満たす必要がある。市民には選挙権、公的な職業に就く権利が与えられるため、永住者と市民は区別される。)またシカゴで人形使いをする恋人・ハナは施設の閉鎖による公演中止の影響で仕事もままならない状況になり、さらにはアジア人だという理由で差別を受ける。個人的な経験について書くと、2019年の夏にはなんの問題もなく姉妹でフロリダ州へ旅行ができていた(ちなみに偶然にもシカゴ経由でのフライトだった。)というのに、この映画で描かれているのと同じ2020年3月に私の妹が計画していたハワイへの渡航は中止せざるをえなかった。ハワイで暮らしている叔母も日本に帰国できるようになるまでにかなりの期間を要し、ハワイは観光業を中心としているので経済的打撃が大きかったことや、ワクチン未接種の人の施設利用を規制する場所も多いことなどを話してくれた。自分にとって旅行に関する規制は非常に身近な問題であったと思う。コロナ禍における人種差別については新型コロナウイルスが流行した原因を巡り、アジア系の人々が心ない言葉を浴びせられたり、時には暴行を受けるといった報道を多く目にした。大きく変化し、規制の多くなった日常におけるストレスを人々が感じており、その結果特定の人々が敵のように見なされることとなったのは非常に心苦しいことである。(そもそも渡航者、感染者を悪とすること自体が間違いであるが)海外からの渡航者を警戒するあまり、物語に登場するハナのようにルーツがアジア系であるだけで長い間アメリカで暮らしている人々も被害に遭うケースがあった。
こうした社会の大きな変化の始まりにおいては「新型コロナウイルスのもたらす影響に対する危機感」の度合いが人それぞれ違ったということが描かれていることも現実と重なる。晴人の幼馴染であるマイには子どもがおり、マイは自分の子どもへの感染のリスクについて考えている。一方、マイの夫のケンタ(ケンタもまた晴人の幼馴染である)や、晴人、ほかの友人たちはそれほど状況を重く受け止めていない。こうした危機感の違いからくる温度差のようなものも人間関係に亀裂を生む要因となっている。シカゴにいるハナも初めは状況の変化に戸惑い気味である。「近いうちにコロナがおさまって日常が戻る」という彼女の期待は、仕事ができなくなったことや、愛犬の死(人が外出しなくなった街中に野生動物が出現するようになった。作中ではそうして人間の生活圏に出てきたコヨーテによって愛犬サーヤが無惨に喰い殺されてしまう。野生動物の目撃情報の増加や、長らく観測されていなかった珍しい動物が突然発見されたというニュースは現実でも多く見かけた。)などによって打ち砕かれてしまう。急激な状況の変化により、人の心は傷つき、苛立ちや悲しみの感情が増していく。晴人自身は社会の状況に関心を寄せていないのだが、子育てや生活のストレスが爆発したマイと、晴人と同様になぜ彼女が怒っているのか理解できていない夫のケンタの口論から逃げるように彼らの家を後にする。マイの苛立ちには気づかず、前日まで呑気にケンタや友人たちと酒を飲みながらゲームをして騒いでいた晴人は、精神的に深く傷ついているハナからの連絡にもまともに応じることがなかった(「call u upon(すぐ電話する)」のメッセージさえ、酔って「xall u apon」と打ち間違えている。)のだが、晴人はそれすらも深刻に受け止めず、半ば追い出された後になってからハナに連絡をする。結果としてハナから身勝手であることを責められ別れを告げられた晴人は、急いでシカゴへ戻ろうとするがそれすらも叶わず、電話相手の航空会社の職員を関西弁で罵り続けると言うところで物語が終わる。自分は何も悪いことをしていないのに急に周りの人々から責められ、何もかもがうまくいかなくなったことへの混乱や激しい怒りをぶつけ、道沿いのフェンスを蹴飛ばして当たり散らす晴人。『昨日より赤く明日より赤く』で展開される6つの物語全てに共通して「自分は何もした覚えがないのに、なんでこんなことになってしまったのだろう」というようなある種理不尽に対する暗い感情が描かれているように思うのだが、『COYOTE』ではその感情が最も激しく表現されており、さらにはその大きな苦しみから逃れることができないという非常に心の痛む結末となっている。叫んで暴れたところでどうなることでもないのだが、それでもそうやって荒れる以外にどうしようもない。そんな感情の強い乱れが恐ろしくなるほどの気迫で描かれている。片寄さんの出演作であるドラマ『3年A組 -今から皆さんは、人質です-』でも「どうして自分ばかりこんな目に遭わなくてはならないのか」ということに対して怒り、涙する場面があったが、作品を観ている側としてはその境遇に同情し、登場人物に寄り添いたいと感じさせるシーンであったと思う。しかし『COYOTE』におけるラストシーンには近づくことができないほどの怒りや苛立ち、攻撃的な感情が満ちていると感じた。片寄さんのブログなどで、『COYOTE』では新しい面が見えるような役を演じているということが予告されていたが、まさしく新境地というか、驚きに満ちていたことは言うまでもない。(片寄さんは他作品で研修医や弁護士など職業が登場人物の構成要素として重要な位置を占める役を演じられているが、今作で仕事をする場面は存在せず、関西弁での友人との会話や、メールを含めたハナとのくだけたやりとりを中心に物語が展開することも新鮮だった。)晴人はアメリカで保育士をやっているという設定であり、マイの子どもからも好かれ、前半部では優しく明るい青年という面が描かれているだけに、物語の終わりに突然全てが崩壊する衝撃がより大きなものに感じられる。本当に人間が壊れていくところを見るような結末部なのである。
6作品の予告編を観た時の印象としては非日常的なホラーものである『怪談 満月蛤坂』のみが他とは違ったテイストの作品であり、『COYOTE』は『言えない二人』と似た雰囲気の作品ではないだろうかと想像していたのだが、実際に全ての作品を観てみるとむしろ『COYOTE』こそが最も異質な作品なのではないかと感じた。他の作品では主人公が程度は違えどなんらかの前向きな感情を持って変化していくが、『COYOTE』では前半と後半で晴人の印象が大きく変わるものの実は観客にとってそのように見えるだけであり、晴人自身の内面はまるで変化していないのではないかと考える。晴人はハナに対して自分の正直さを訴えており、そうした無邪気さや純粋さのようなものは確かに見せかけではないと思う。しかしながらそうした性格ゆえに晴人は周囲の状況や他人の感情に対して鈍感で、あらゆる場面でなぜ自分が怒られているのか理解できておらず、反省もできない。晴人という人には非常に子どもっぽい面があり、物語の最後まで精神的な成長が見られない。ではこの物語で変化したものは何か。それは晴人を取り巻く様々な環境である。状況がのみこめていない晴人を残して、世の中や、周囲の人々の心の在り方が目まぐるしく変わっていく物語なのだ。けれども、『COYOTE』において晴人だけが悪い人間で、彼が不愉快な目に遭うのも彼だけの責任であるかといえばそうではない。実は良い人、実は悪い人、というような見方も違っていると感じる。人間は善悪どちらかに分けられるほど単純にはできていないし、性格の一つの要素をとってみても受け手によって様々な解釈ができることだろう。なので、晴人が自分の置かれている状況を理不尽に思ったり、他人から八つ当たりをされていると感じているとすれば、それもある意味では正解だと言える。ハナに別れを告げられたことには晴人が真剣に取り合わなかったことが大きく影響しているにしても、マイとの喧嘩については八つ当たり的な印象が強い。マイはコロナ禍という状況に対してだけではなく、子育てに非協力的なケンタ(彼は自分は働いているのだからマイは家のことを全てやって当然というような態度を平気でとっている。)の存在、結果としてこなさなければならない家事や育児の負担にも苛立ちを募らせている。作中では彼女が久しぶりに会った晴人に対して恋愛感情を持っていることが仄めかされている。晴人がベッドに寝そべりながら、マイに「なんか良い匂いするね」と言う場面があるが、晴人はマイに恋人がいることを明かしており、その後の場面でもハナにプロポーズすると普通に話しているため、晴人にとっては思ったままを何気なく口にしたにすぎないのかもしれない。こうしたところにも晴人の鈍感さが表れているが、マイはこの一言でその気になっている。その後の晴人とマイのやりとりを見ていくと、マイがハナの写真を見ながら「へぇ、この人……」と言ったり「日本人?」と聞く場面には生々しい嫌な感じがある。またリモートワークが決まって帰宅したケンタにうんざりしている様子から、彼女が晴人と浮気しようと考える理由の一つとしてケンタとの関係が上手くいっていないという事情が見てとれる。典型的なモラハラ夫であるケンタは言うまでもないが、夫や子どもがいながら晴人と関係を持とうと考えるマイもまた、ある意味で悪い人間だろう。晴人とも上手くいかなかったということが彼女の苛立ちに拍車をかける。彼女がなんでまだ自分の家にいるのかと晴人を非難したり、子どもに病気が感染するかもしれないと考えないのかなどと突然言い始めたことにはそうした八つ当たりの気持ちもあると思う。マイやハナの気持ちを察することができずに自分は悪くないのにと考えている晴人に非がある一方で、マイの結婚生活が上手く行かないことやハナの仕事のこと、サーヤの死の直接的原因は晴人ではないという事実がある。そうした人間の複雑さ、他人との関係の難しさが物語の中でリアルに描かれている。晴人はハナに会うためにすぐにシカゴに戻ろうとしていたので、それが上手くいかなかったことは不運である。
作中で晴人はピノキオの人形を持ち歩いており、ハナが予定していた公演もピノキオの物語である。晴人の持つ鼻の長いピノキオの人形と、鼻が操っているロバの耳をしたピノキオの人形。『COYOTE』で晴人はピノキオの物語は明るい話ではなく、本当は後悔する物語だということを語っているが、『COYOTE』自体がそうした面を持つだけでなく、ピノキオというキャラクターが晴人と重なる要素を持つものであるので、以下でピノキオの物語について述べる。
ピノキオといえばディズニーのアニメーション作品が有名であるが、原作となるカルロ・コッローディによるイタリアの児童文学作品『ピノッキオの冒険』の物語はディズニー版のように全ての登場人物が良い存在、悪い存在に区別できるようにはなっていない。木の人形であるピノキオが本当の人間の子どもになるために、物事の善悪を教えてくれる「良心」であるジミニー・クリケットというコオロギの力を借りながら様々な恐ろしい出来事を乗り越えていくという内容だ。ディズニー版ではピノキオを騙すキツネやネコ、人形劇の興行師・ストロンボリ、馬車屋の旦那、怪物クジラといったピノキオにとっての苦難となる存在が全て悪者として描かれているが、原作ではそれほど単純に登場人物が分けられることはない。ピノッキオが生まれたばかりで物事の分別がつかないという部分はディズニー版と共通しているが、ディズニー版ほど聞き分けが良い存在ではなく、自分の意思で悪いことをする場面もある。まず物語序盤で自分に対して忠告をしてきたコオロギに腹を立て、木槌を投げつけて殺してしまう。そのため、導いてくれる存在なしでピノッキオは世の中に出ていき、様々なものと出会い(良いものも悪いものも登場し、時には初めに悪人と思われたものが良い面を見せることもある。またモンストロと呼ばれる巨大な鮫はピノッキオを気がつかずに飲み込むが、ピノッキオが父親と共に腹から脱出した際にもまるで気がついていない。そういう意味で善でも悪でもない存在として登場する。)、いろいろな経験をすることで自分の生きている世界のことや善悪について理解していくことになる。原作は連載小説の形式で発表されていたが、連載当時、ピノッキオがキツネとネコに騙されて金を取られただけでなく、木に首を吊されて死ぬというところで一度物語が終わってしまったことは有名な話だろう。(読者の子どもたちの要望により、その後続きが描かれることとなる。)原作に沿った実写映画として、マッテオ・ガローネが監督した作品『ほんとうのピノッキオ』が最近日本で公開された。
ロバの耳というのは学校へ行かないで好き勝手に遊んでいたい子どもたちが集められ、おもちゃの王国(ディズニー版ではプレジャー・アイランド)に連れていかれる場面で登場する。ピノッキオを含めた子どもたちはそこで遊んだりお菓子を食べたりして気ままに過ごすが、そうやって過ごした子どもは最終的にロバの姿になってしまい、口がきけなくなったところで人間の大人に売られてしまう。子どもたちはロバの姿のまま、死ぬまで辛い仕事を続けなくてはならないのだ。人の言うことを聞かず、悪い子でいるといつかそのツケが回って恐ろしい目に遭うという話であるが、『COYOTE』の晴人がハナが助けを必要としている時にきちんと話を聞こうとしなかったことで二人の関係が壊れてしまったということと重なる。晴人が自分の何が悪いのか、どうして人が怒っているのか分かっていない部分や、物事を深く考えていない様子も、ピノキオが世の中をよく分かっておらず、自分にとって都合の良い話にすぐに乗せられて何度も同じような失敗をするところに似ている。『COYOTE』ではこの晴人の子どもっぽい性質が前半部では自由気ままで、微笑ましいものとして映る。実際、その明るさや優しさは作りごとではなく、ハナも最初の電話の場面では晴人の気ままさに驚いたり、振り回されたりしつつ、そこに魅力を感じているというような様子で晴人と話をしている。こうした前半部の様子があるからこそ、もしも心に余裕があったならどうなっていたのだろうと考えてしまう部分もある。
現実のことを考えると人が変わっていくのはとても難しいことであるし、変わるためには時間や経験など多くのものが必要になってくる。何かを意識して変えようとしたり、自分の欠点を直したい気持ちがあっても上手くいかなかったり、同じような失敗をするということも珍しくないだろう。そう感じるからこそ、『COYOTE』の物語にはコロナ禍の経験を抜きにしても共感できる部分が多く、晴人という青年をただ愚かだとも、悪い人間だとも言うことができないのだと思う。
●『真夜中のひとりたち』
それぞれ違った形で失恋を経験した男女が偶然出会い、ある一日を一緒に過ごす物語。性格も住む場所もまるで違うものの、失恋の痛みを共有する二人は半ばヤケになりながら、指輪を質屋で売ったり、スイーツを山ほど食べたり、新宿の韓国料理屋で時価のシャトーブリアンを注文したり、他のお客さんに奢ったりということをしながら真夜中を迎える。
メンディーさんが演じる主人公の青木には片想いの相手がおり、「何度振られてもいつかは」と思っていたのだが、彼女の死によってそのいつかは永遠に来ないものとなってしまう。一方、初恋の相手の結婚式に出るために大阪から東京へやってきていた里実は、結局どうすることもできずに式を見届けてきたものの好きだった人が他の誰かの夫になったことでやはり叶うことのなかった恋の苦しみを感じている。成り行きでその日を一緒に過ごすことで二人はお互いの事情を知ることになるが、里実と同じように紙袋を持ってバス停に立っていた青木が片想いの相手の結婚式ではなく葬式に出ていたということが分かる場面が印象深い。その場面では「葬式」という言葉やその人が死んだのだということは語られず、台詞そのものも存在しない。ただ青木が黒いネクタイを里実に見せるということによって、あれは葬式の帰りだったということが察せられるのである。大切な人が死んでしまい、もう二度と会えないという事実は受け止め難いものである。たとえその人が生きている時に、もうそう長くはないと分かっていたとしてもそれは同じことだと思う。生きていればみんないつかは死んでしまうということを知らないわけではないし、死んだらもう会えないのだということを理解していても、「死んでしまった」、「もう会えない」と口にしたり考えたりするだけで奇妙な感覚がする。その事実を受け入れることを無意識に拒絶しているのだと思う。だからこの場面でも簡単に言葉にしないのではないかと感じた。
深夜の東京の街を二人きりで歩く青木と里実。真夜中の静けさ、冷たくどことなく湿っぽい空気が画面越しに伝わってくる。歩きながら二人は孤独についての話をする。物語では明るくよく喋る里見と、無理やり引っ張ってこられた形でやや迷惑そうにしつつも彼女に付き合い、時にフォローするような言葉をかける青木とのコミカルなやりとりが魅力的に展開されるのだが、この場面では雰囲気ががらっと変わっている。ある言葉が存在するから、それに結びつく概念もまた存在し、人はそのことについて考えることができる。ならば、「孤独」という言葉も概念もなければ、今こうして「孤独」な気持ちというものを感じることもなかったのではないかと話す里実は、青木に自分を抱きしめてほしいと頼む。青木はそれに応じるが、お互いを抱きしめ合いながら二人ともがそれぞれの大切な人を想って涙を流す。この場面をどう捉えるべきか。互いの気持ちが痛いほど分かり、同じ気持ちでいてくれる相手がこんなにも近くにいること、ずっと心の内に留めていた悲しみを受け止めてくれる人がいることを救いと見るべきだろうか。孤独、淋しさとは実際に一人きりでいる人のみに生じる感情ではないと思う。一人きりで過ごしていても孤独でない人間はいるし、反対に誰と過ごしていてもいつも孤独を感じている人間は存在する。里実は青木の片想いの人にはなれない。青木もまた、里実の初恋の相手にはなれない。大切なたった一人は、絶対に替えのきかない存在である。互いを抱きしめあうことで、そのたった一人の体温を感じることはないのだということが強く意識される。たとえ一緒にいられなくても、その人を想うことで幸せでいられると思えるなら、孤独というものを忘れることができるかもしれない。けれど、今の二人の心には大切な人の不在という事実がある。そのことが二人を「真夜中のひとりたち」にしているのだと思う。そこには優しさと残酷さが同時に存在している。
二人はそうやって夜を過ごし、やがて一緒に朝焼けの空を眺める。その美しさが少しだけ二人の心を明るくするのだった。最後の作品である『真夜中のひとりたち』で、最初の作品『BLUE BIRD』と同じく空が印象的に描かれていることは注目すべき点ではないだろうか。日が昇り、やがて沈んでその一日が終わり、また昇って新しい日がやってくる。『昨日より赤く明日より青く』というタイトルから、日々を生きていく人間の心の在り方を思い浮かべると共に、変わりゆく空の色の鮮やかさを想った。
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