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子どもは親をよく見ている

さて。
札幌時代、なぜあそこまで「正職員」にこだわったかな、って振り返ってみると、母の経験を身近に見ていた影響が大きかったのかな、と今は思う。
亡母は、一家で鹿児島に移住するまでは正職員の私立高校教員で、一家の大黒柱だった。亡父は、大学院生をやりながら非常勤の高校教員をしていた。その頃の父は、けっこう育児・家事をしていたらしい。『おまえのオムツもよく替えたよ』『おまえの保育園の送迎を原付バイクでしていたけど、1回おまえを落っことして、保育園から慌てて来た道を戻ったことがあったよ。曲がり角でおまえが手足をばたばたさせて無事だったんで、ホッとした』などの話を聞かせてくれたこともあった。
が、先輩の皆が敬遠した鹿児島の大学教員のポストをゲットして、正職員となり一家の大黒柱となった父は、専制君主に変貌した。一方、母(昭和8年=1933年生まれ)はその時代の多くの女性がそうであったように、いったん退職したら二度と正職員になることはできなかった。何とか教員を続けようとする母を父は冷笑し、妨害した。それでも、母はめげずにパート教員(よくあるパターンだが授業のコマ数も多く テスト作成も採点もやっていた)を続けたけれど・・・。コマツは思った。「学校の先生でもダメなんだ。もっと、どんな田舎にいても働ける『強い資格』を持たないと、あんな惨めな想いをするんだ」・・・
その想いは、戦前の函館で4階のビルを建てるほどに繁盛した内科開業医の妻となった父方祖母の呪文「オンナは手に職!」でさらに強化された。祖母は自らの口から祖父の非行を語ることは一切なかったが、母がこっそり教えてくれた。祖母は祖父の度重なる非行を黙認し、敵のように大量のエビ(彼女の大好物だった)を食べ、中年過ぎてからエビ・アレルギーになってしまった。「エビに敵を取られたじゃ~よ」と祖母は言っていた。

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