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生殺与奪の権を誰かに握らせて成り立つ社会

「生殺与奪の権を他人に握らせるな」

また鬼滅の刃の話でスミマセン。

(昨日劇場版2回目を観に行ってかなり良い気分になっているためです)

映画のおかげで200億超えの男・煉獄さんムーブメントがありつつも、私の本来の推しは水柱・冨岡義勇。

(なお、映画には一瞬しか出ません)

これはその冨岡さんがまだ鬼殺隊に入る前の炭次郎に向けた言葉です。

私は子どもが見ていたNETFLIXの配信から鬼滅に入った思いっきりレイトマジョリティなのですが、もっと早くこの言葉に出会っていたらなあなどと、ご法度のたらればを口にしてしまうほどに心に響いてます。

もちろん「他の誰かを頼ってはいけない」という話ではありません。全く他人の力を借りずに生きることは不可能です。

でも今の私はそうじゃない。あの時、大切な妹をかばうために冨岡さんに命乞いをした炭次郎にも似た状況。

だからこそ私は冨岡さんに叱られたと思って、自立のための修行を続けていくのです。まだまだ先は長いですが。

ところが未だ日本は生殺与奪の権をなるべく誰かに集中させておく制度を作ったまま放置しています。

変なところで素っ頓狂な個人主義を出してくるにもかかわらず、根元の家父長制がそのままなので末端の個人主義がグラグラなんですよね。

細かい話ですが、出産一時金だとか療養費だとか、たとえば妻が自分の貯金から払ったとしても健康保険証の被扶養者という立場だったら、給付金を支給されるのは夫です。契約者が夫だから。療養を受けた本人に払えよと個人的には思うのですが、法律に照らすとこういうことになるんです。

最近だと別居家庭の児童手当が別居親のほうに入ってることについての実態調査についてニュースがありました。


手当支給する方はラクなんですよねこの制度。でもそのラクさにあぐらをかいてるとしか思えません。制度設計する方は自分たちには関係ない話なのでこうなります。

そういや炭次郎はしばしば「長男」であることを意識に持ち出しますね。

大正時代という時代背景を考えると当然ともいえるのですが、鬼のいる世界でなければ家父長制での長男は生殺与奪権を握る側の人間ともいえます。

だからこそ、自分の不在時に家族が殺された現実は現代以上に「自分の責任」として捉えてしまっているでしょう。

そして彼自身、鬼のいない世界にいる自分は家業の炭焼きを継いで、きょうだいたちの面倒を見ることしかありえない人生だったと知っています。

生殺与奪権のかわりに自分にある他の可能性を全て無かったことにしなければならない、というのもまた悲しくないですか?鬼狩りという別の道に出会えてよかったねとはちっとも思いませんが・・・。

こんなに誰かひとりにパワーバランスを集中させる社会、辛すぎるでしょ。大正時代からあんまり変わってないと思える部分も多くて、本当にうんざりします。

令和のテクノロジーならそんな仕組みにしなくても個人向けに利益分配が適切にできると思うんですけどね。

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