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教育の属人性に負けてしまった話

教育の属人性に負けてしまった。
必ずしも教える側の問題ばかりではないはず、あのコーチでなくても大丈夫、やっていけるはず、と思うようにしていたけれど、いとも簡単にそれは崩れ去ってしまった。
これは、子どもの習い事の話だからまだよかったけれど、学校の現場でも起きていることなのかもしれないと思うと、やり切れない気持ちになる。

子どもが体操教室をやめることにした。
誰か他人のせいにはしたくないので、子どもも私も夫も、面と向かって口には出さないけれど、良いコーチに当たらなかったという思いが共通している。

AコーチかBコーチの指導を受け続けていれば、今の時点でやめるという判断はしていなかったかもしれない。
そもそも、ここまでスキルアップの停滞をすることもなかったと思う。
たとえ、停滞してしまっていたとしてもコーチといっしょに時間を過ごすことを楽しみに行けていたかもしれない。
そんなことが頭の中をよぎる。

Aコーチはこの教室のリーダー的存在で、技術も人柄も子どもを惹きつける力も申し分ない。
ただ、技術が高いがゆえに、上級グループのレッスンに入ってしまう。
Bコーチは2番手のポジションで、Aコーチよりは大人しめだけど、技術もあるし、やさしい人柄が魅力だ。
しかし、その当たりの柔らかさゆえに、ちびっこのグループの担当になってしまう。
うちの子は、上級グループでもなく、もうちびっこでもなく、ごくごく普通のレベルで(といっても、体操教室に通っていない子と比べたら断然いろんなことができていると思う)、新米のコーチにあたりやすい。
この教室では、通ってくる子の人数やレベルの変動に合わせてグループ編成が変わる。
だから、人数が少なかったときはAコーチとBコーチの指導が受けられたのだ。
そのときは、楽しく、面白く、時には厳しく指導を受けながら体操教室に通っていた。
しかし、ひとたびそのコーチたちの指導から外れてしまうと、進級できなくなるし、何とも言えない不全感を漂わせながら時間を過ごしていた。
何より、子ども自身がちらちらと隣のグループを見ながらレッスンを受けているのが切なかった。

そして、あることをきっかけに子どもは「もう行かない」と言い出した。
これまでは、何とか宥めたら渋々でも行っていたのに、何となくもう今回ばかりは何を言ってもだめそうだった。
もう上手くならない、あのコーチでは面白くない、と言葉にはしないけれど、何も言葉にしない分、言葉にしたらだめなのではないかという思いを抱えながら行くことを拒否しているように見えた。
これまで習い事を本気でやめたいと言ったことはなかった。
今までは「もうやめる?」と訊けば、首を横に振っていたのに今回は違った。

習い事なので、プロを目指すわけでもないので、私たち親としても無理強いするつもりはなかった。
でも、何となくこのタイミングでこの辞め方をするのは悲しかった。
子どもに申し訳なかった。
大人の責任だ。

学校現場もそう変わらないような気がする。
最近、算数を隣のクラスの先生に習っているらしいが、その先生の授業は面白いという。
これまで、学校の授業を面白いと言ったことはなかったのに。
(この話はまた今度書くとして)

いろいろな人に出会うことはもちろん経験だ。
でも、子どもも一人の人格を持った個人なのだから、教わる側が必ずしも受け身で指導者を選ぶことができないのはおかしいのかもしれない。
いろいろな人に出会うことの効用と教育の効果を比べたときに、必ずしも完全に効率的で最小限のリスクでなくても構わないけれど、そのときのベター、ベストはどこにあるのか考えないといけないのかもしれない。

悲しいけれど、今回は教育の属人性に負けてしまった。

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