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教育の属人性

教育は属人的なものという悲しい事実

教育って、どこまでも属人的なことがつきまとう。
どんなに素晴らしいツールやメソッドが開発されても、教える人によって圧倒的な差が生まれてしまうことは否めない。
これは悲しいけれどどうしようも無いことなのかな、と思う。
でも、やっぱりこの悲しい事態をどうにかする方法はないのだろうか、と考えないことはできない。

公立学校はどこも同じはず

日本では、教育指導要領があり、少なくとも公立の学校では同じ教育が受けられるものだと期待している。
でも、なぜかその満足度も習熟度も差が出る。
もちろんそこには個人のポテンシャルが関係してくるし、公立の場合自治体の財政状況や地理的要因などが教育環境に与える影響は大きい。
しかし、それらを差し引いたとしてもとても均一的な教育が行われているとは言い難い。
それは、同学年の隣のクラスと比べてみたら納得できる人も多いのではないだろうか。

先生の当たり外れ

隣のクラスの先生のほうがよかった。
そんなことを思ったことはないだろうか。
あるいは、うちのクラスの先生当たりだ、なんてことを思ったことはないだろうか。
同じ校内で、同じ学年の中で当たり外れが話題になるのはなぜなのか。

学校を離れた習いごとでも

うちの子が行っている体操教室には、とても子どもの指導が上手なコーチがいる。
技術の面でも、子どもたちと関わる態度も申し分ない。
未就学児から小学校高学年の子まで、どんな子の相手もできる。
集団に入りにくそうな子をレッスンに誘導することもできてしまう。
でも、そういうコーチは一人だけだ。
ほかのコーチはどうしても見劣りしてしまう。
(決して他のコーチが悪いわけではない。)
親としてはいろいろな意味で指導力のあるコーチに自分の子を託したくなる。
そして、子どももそのコーチのことが一番好きになってしまっているのだ。
これは過ごした時間とかは関係なく、そのコーチと一緒だと厳しいけど楽しいし、目をかけてもらっているのも分かりやすいし、何より上達も早いのだ。
こういう事実を目の当たりにしてしまうと、やはり今の教育現場を憂いてしまわざるを得ない。
しかし、学校とは違ってこの体操教室での救いは、必ずしも1年という長期間コーチが固定されることがないことだ。
進級してクラスが変わったり、コーチのシフトや異動などで1年を待たずとして担当コーチが変わる可能性がある。
学校でも中学校からは教科担任制となるので、中学校はまだマシなのかもしれない。

教育を属人的なものから脱却させることはできるのか

教育現場の属人性から逃げることは恐らくできない。
でも、悲しい事態と言い切る前にできることはありそうな気がする。
例えば、小学校でも教科担任制にしてしまう。
しかし、ティームティーチングの手法をとってクラス担任も教室にいたらいいのではないか。
教師が毎時間入れ替わることのデメリットを、担任を常駐させることで解消する。
教科ごとに先生が代われば、1日中、1年中外れだと思って過ごさなくて済む。
子どもが多くの大人と出会えれば、子どもの方で相談相手を選べるようになるかもしれない。
一人の大人によって子どもの世界の色や広さを決められることがないように、それを主眼に置くとまだまだできそうなことがある気がする。

これからの教育現場に望むこと

人はそれぞれ違っていて当たり前だし、違いがあっていいのも当たり前だ。
その違いをどう生かしていくのかが、教育現場にも求められる時代だと思う。
むしろ、一人ひとり違う人を育てる現場なので属人的でもいいのだ。
ただし、どの人を信頼して、教えを請いたいか、自己開示をしたいかは、教育を受ける側からも希望を出せるといいなと思う。



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