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『カラマーゾフの兄弟』読んでみた!

『カラマーゾフの兄弟』を読んだので、感想を書き残しておこうと思います!(自分用の読書メモです)
ネタバレばかりなので「これから読むんだ〜」という人はページを閉じるか覚悟を決めるかのどちらかでお願いします。140年くらい前の話なので、ネタバレには配慮いたしません。(※1880年に出版されたそうです)

【どんな本だったか】


*めっちゃ難しい。『100分de名著』であらすじだけは把握していたものの(「父親が死ぬ」「ミーチャ(ドミートリー)が無実の罪を着せられる」の2つは知ってた)、まさかこんな哲学と宗教とサスペンスとミステリーが入り乱れる話だとは思っていなかった。ミステリー小説だと思って手に取ったので、「哲学と宗教」的要素には本当に面食らった。神への解釈とか持ってないけどそんな私でも読めますか!?みたいな衝撃。

*とにかく全部読みはしたんですけど、全体の4割を理解できているかどうかも不安。「宗教的価値観」の下地が自分にないのを痛感しているため(読んだ人間は「文化的には仏教徒」だが、ほぼ無宗教に近いなという自覚があります)、「言いたいことを本当に読み取れているか?」という懸念が最後まで拭えない。日本人なら「歯を黒く染めた女性」という描写ををみて「あ、これは昔の人の話で、この女性は結婚している人なんだな」と理解ができますが、そういう「価値観の下地」がない場合に「この人はなんで歯を黒く染めてるんだろう、歯が黒いのがオシャレな時代だったのかな?」という理解をしかねないというか、そんな感じです。(なので巻末に解説ガイドがある書籍を選ぶと理解が深まって助かります)

*後述しますが、最後の最後で個人的に衝撃的なことが起こり、ほぼそれにほとんどの感情を持っていかれたところがあります。本編にほぼ関係ないんですけど、本を読んできてこんなにびっくりしたことなかったです。

【なぜ難しかったのか】


*難しいなと思う要素のひとつが「キリスト教的な文化」への理解、知識のなさによる「意味の分からなさ」。キリスト教について知っていることが少なすぎて、題材として何度も話に出されるキリスト教的な文化をよくわからないままに受け取っているため、そこになにか重要な意味があっても取り逃しているんじゃないか、という気がしています。
おそらくですが、キリスト教の知識があったらもっとお話の意味がわかったはず。

*難しい要素のふたつめが「文化(時代)の違い」。元も子もないことを言うんですが、日本とロシアとでは文化も違うし、現代との時代背景も違うので、「なんで今こんなことしてるの?」という「意味の分からなさ」がありました。具体的にわたしが引っかかったのが「他人の家に行きすぎじゃね?」というところ。もう本当に頻繁に他人の家にお使いに行ったり(お金持ってって!とかお手紙持ってって!とか)お呼ばれしたりするんですけど、こんなに人の家、行くか……?
人の家に行くまではまあわかるんですけど、その上『他人の家で長広舌をぶちかまし、号泣』みたいなシーンもあるので、なんか、なんかすげえな……と思いました。時代なのか文化なのかその人の性格なのかはわからんけど……。 

それから、これはもう時代的な背景があるから仕方ないんですが、登場人物たちの言動になんとなく「女性は男の奴隷でいたほうが楽だよ」みたいなものが感じられて(実際そういう時代だっただろうから、それがスタンダードな意見だったという理解はしますが)、う、うるせ〜!!!そんなことね〜〜〜!!!とツッコミを入れたくなるところがしばしば。そういう時代だった、という証拠として見ておくのが気が楽になる方法の一つかなと思います。男でも女でも誰かの奴隷でいることが楽なわけがない……。奴隷を使う側の理論だな〜という感じでしたね。

*難しい要素のみっつめ。「登場人物と名前が多すぎ」。
ロシアだとお名前の他に愛称?がよく使われるようなのですけど、ただでさえ多い登場人物にもう一つ名前があるようなもので「今喋ってるの誰!!??」になりました。
( )のなかが愛称です。

父親→フョードル
長男→ドミートリー(ミーチャ)
次男→イワン
三男→アレクセイ(アリョーシャ)
四男?(※)→スメルジャコフ

父と長男が取り合う女性→アグラフェーナ(グルーシェニカ)
長男の婚約者だけど次男が想いを寄せている女性→カテリーナ(カーチャ)

※スメルジャコフは作中で明確に四男であるとは言われていませんが、作中では「フョードルが父親だろう」と噂されている青年です。私生児といったら良いんでしょうか。

ねっ。お名前いっぱいある。

ドミートリーがミーチャなのはまあ許す、許せる。「ミ」が入ってるしぎりぎり許す、でもアグラフェーナがグルーシェニカなのは流石に無理ありませんか?「グ」は入ってるけど全体に占める「グ」の割合が少なすぎっていうか……。面影ないじゃん……?わかんないよロシア文学……。

これはもう読んで慣れていくしかない。わたしは腹を決めました。でもアグラフェーナがグルーシェニカなのはマジでちょっと納得いかない、どんな法則なんだ。

【どんなお話だったか】


*めっちゃ簡単に言うと「資産家のお父さんが殺され、殺人犯として長男のドミートリーが裁判にかけられて有罪になったけど、実は殺したのは別のやつだった」という話。ここに人間の醜さとか愚かさとか、揺れ動く気持ち、ちょっとした家族愛、ラブストーリー、最悪な父親、哲学、神は存在するのか、許しとは、罪とは……みたいなものを隙間なく詰め込むと『カラマーゾフの兄弟』になります。テーマが本当にたくさん詰まってるから、読み終わったあとは『そりゃ難しくもなるし研究する人もいるよね〜』という気持ちになる本。自分から手に取るぶんには諦めもついて最後まで読めるけど、他人に勧められたら途中で投げ出すタイプの難しさです。
それにしても実の父親と女性を取り合う構図、嫌すぎ。

何度も言うように簡単に読める本ではなく、色んな面で難しい本なんですが、読んでいるうちにゆるい無宗教・無神論者のわたしも『宗教ってなんだろうな』って考え始めてしまうような、そういう魅力もありました。

これはわたしの『信仰』、『宗教』への理解というか、イメージなんですけど、『宗教』そのものは人間の作った『道徳を守らせるシステム』であって、そこに神とか奇跡とかの神秘性を足すことで、『道徳という概念を理解できなくても「なんかすごそうだから守らなくちゃ」と思わせるもの』だと思っています。
『信仰』は心の拠り所であって、垂れ下がる蜘蛛の糸みたいな、あってもなくても掴んでも掴まなくてもいいものじゃない?みたいな。でも『信仰』があれば〝救われる(気持ちの上では楽になる)〟よね、というような。

だから登場人物たちの信仰とか、宗教に対する熱心な価値観がものすごく不気味に見えちゃったところがあり、序盤は正直けっこう引きました。熱心に神様の話とかされてもそもそもわたしは神様を信じていないし、信仰そのものに胡散臭い目を向けているから、熱心に語られれば語られるほど「何いってんのこの人は……」という心理的距離が開いてしまうんです。

善行をなした人間が死んだときはその遺体は腐らない(腐敗臭はしない)、みたいなのも「そんなわけないだろ」って否定してしまうんですよね。人は死んだら腐るし臭うよって。科学的に見ておかしいよって。

『カラマーゾフの兄弟』では無神論者の立場を取る登場人物もいて、それが次男のイワンなんですが、彼の話すことはやっぱりわたしのようなゆるい無神論者としても『理解できる』ものが多く、作中でもわりと共感できるのはこの人だったかなあ……。
一方で三男のアリョーシャ(アレクセイ)は本編の後半で還俗するまでは修道院にいたくらいの青年です。ゾシマ長老という修道院の長を敬愛していました。

個人的には『宗教(伝統的な価値観)』と『科学(現代的な価値観)』の対立も話の中には含まれているなと感じていて、それがアリョーシャ(修道院の人間)とイワン(ジャーナリスト、無神論者)の関係性にもちょっと現れてくるのかなぁと。(アリョーシャにはイワンもそんなに強く出てはいかなかったような気がします)

この本が書かれた当時は、価値観がどんどん刷新されるような時代だったと思います。
自然科学が発達してきて『奇跡』が『科学的理屈』で証明されはじめてくるような、神秘的なものを科学で分解してありふれた『現象』に説明してしまうような時代で、相当ショックだったと思うんですよ。当時『宗教』を大事にしていた人たちにとっては。
しかも『科学』はもてはやされて『新しい』ものだから、今後どんどん『古臭い』ものである『宗教』の居場所は小さくなっていくだろうと思われてたんじゃないでしょうか。
今まで信じていたものが嘘っぱちだったとか、神はいないとか、そういう話も当然色んな人の間でなされたと思うんですね。

おそらくですが、ドストエフスキー自体は『宗教』を捨てきれなくて『科学(新しい価値観、現代的な価値観)』に染まり切ることもなく、どちらかといえばまだ『宗教』を信じる方でいたかったのではないかな、と思います。
だから神様とか宗教に否定的なイワンをちょっと悪く書いてるし、なんなら神様を信じてなさそうなやつ、否定的なやつには『救い』みたいなものを与えていないんじゃないか(イワンとスメルジャコフの末路)?と。

現代的価値観に染まりきった今の時代のわたしが『カラマーゾフの兄弟』を読むと「なんかめっちゃ宗教の話するじゃん……」って引いちゃうんですけど、当時のドストエフスキー的には、むしろ社会全体の流れが「めっちゃ科学の話するじゃん……」みたいな感じだったんじゃないだろうか。価値観が塗り替わっていくさまは面白くもありますが、同時に恐ろしいことでもありますよね。全部想像ですけれども。

つい最近『八十日間世界一周』を読みましたが、年代を見るとだいたい同じ時代に書かれている本なんですよね。カラマーゾフの兄弟と八十日間世界一周は。だからこそちょっと興味深い点もあって。

1872年に出版された『八十日間世界一周(ジュール・ヴェルヌ作)(フランスで書かれたもの)』が当時の発達した技術などを描写する一方(つまり『科学』側とします)、1880年に出版された『カラマーゾフの兄弟』では宗教がまだ色濃くその存在を漂わせているのも、フランスとロシアの国の違い、文化の進み具合を感じてゾクゾクしました(どっちが素晴らしいとかって話ではなくて、この『移り変わる時期』の空気が怖くて面白くてソワソワするね、という意味です)。十年以内に書かれた本の中でこんなに『文化』みたいなものが違うんだ、と。
実際にカラマーゾフの兄弟では作中でなんとなく「フランスは進んでんだよな!」みたいなニュアンスの描写があった気がする。

正直なところ、今読むと『カラマーゾフの兄弟』は、「そんなに褒め称えられるほどすごい本なのか?すごいのはなんかわかるけど……?」という感じでしたが、当時の空気みたいなものを加味して考えるとめっちゃ怖い本なんじゃないですかね、カラマーゾフの兄弟。
『宗教』から『科学』に移り変わる時期に書かれた本なんだって思うとドストエフスキー氏もかなり悩みながら書いたんじゃないか、ドストエフスキー氏自体の信仰も揺らいだんじゃないか、そういう気持ちの中で書いたからこそ生まれたものなんじゃないか……と想像してしまいます。

もし時間があったら『八十日間世界一周』も読んでみると何となく私の言いたいことが伝わるかもしれません。『カラマーゾフの兄弟』の8年前に書かれた本なんですけど、「どっちが後に書かれた本でしょうクイズ」をしたら絶対みんな『八十日間世界一周』を選ぶと思います。それくらい『伝統的な価値観』と『現代的な価値観』の違いがエグいです。何ていうんだろう、『カラマーゾフの兄弟』は若干ファンタジー世界の設定っぽくすら見えてくるんですよね。

ここからは気になったところ、心に残っているところをちょっとずつ。

【愛されるアリョーシャ、愛されないスメルジャコフ、イワン】


*作中でも言われているんですが、アリョーシャはとにかく人に好かれるし愛される人間なんだそうです。カリスマがある?わたしから見ると「なんか人が良さそうなのはわかるけど人が良すぎて不気味〜」な感じなんですけど。でもアリョーシャは確かに色んな人に好かれていました。イワンやスメルジャコフみたいに他人と話しているときに論破したりしなかったからかも。『対話』をちゃんとしようとしてる人格だから、好かれるのもわかる。

*色んな意味でダメな人のフョードル(父親)もアリョーシャのことは結構気に入ってたみたいで、フョードルに育てられなくて逆に正解だったかもしれないですね、アリョーシャ。

*逆にイワンはフョードルからも距離を取られているな〜と。イワンとアリョーシャはお母さんが一緒なんですが(ドミートリーは母親がふたりとは別の人です)、フョードルは一度もイワンを愛称では呼ばないんです。イワンの愛称はワーニャらしいんですけど、たぶん作中で『ワーニャ』って呼ばれているシーンが一度もないです。アリョーシャですら「イワン」ってよんでます。

フョードルは「ドミートリー(長男)は怖いけどイワンはもっと怖い」みたいなこともいっていて、確かにフョードルはドミートリーのことを「ミーチャ」と呼んだりしてましたけど、イワンのことはずっと「イワン」で通していました。怖さが呼び方に出ちゃってたパターンなのかも。自分の息子だけど親しくは思ってなかったんですかね。アレクセイのことはずっとアリョーシャってよんでたのに……。この辺にドストエフスキーの『神を信じる人(ドミートリー、アレクセイ)』と『神を信じない人(イワン)』への扱いの差が見られる気もします。

*イワンもまあまあ『愛されていない』んですが、もっと愛されていないのがフョードルの私生児だとされているスメルジャコフ。
他の人には細やかに気を利かせたり、優しく接するアリョーシャですらスメルジャコフには何の慈しみも見せないのが不気味なんですよね(スメルジャコフがマリアの家?で辛いこととかを話しているのを垣根かなにかからアリョーシャがこっそり聞くシーンがあったと思いますが、それを聞いても慰めとかはしなかったので)。存在をほとんど無視しているというか……?

*スメルジャコフが自殺したとき(アリョーシャの敬愛するゾシマ長老が『自殺って本当に悲しくて、自殺者について神様に祈るのは罪だと言われているけれど、私はそれは許されるべきことだと思う』というようなコメントを残していたにもかかわらず)、マリアから誰よりも早くスメルジャコフの自殺の話を知らされても、アリョーシャが心配したのは長男のドミートリーと次男のイワンのことでした。
スメルジャコフは立場的には父フョードルの雇用した料理人だし、アリョーシャはスメルジャコフがフョードルを殺したのだろうと思っていたとはいえ、結構スメルジャコフには冷たかったなあと。アリョーシャは兄二人には愛を向けていたと思うんですが、スメルジャコフにはまったく無関心でしたね。

*作中では全編を通してうっすらと「子供をひどい目にあわせてはいけない、幼い頃に大切な、優しい記憶を持つことができて、それを保持できるなら、心は安寧を保っていられる」というようなメッセージ?前提?があります。
作者のドストエフスキー自体がそう思っていたのだろうし、そこには宗教も科学もなくて、それ自体が「真理」だろう、というような、「カラマーゾフの兄弟」という作品の下地として、結構なウェイトを占める思想です。

イワンが語る中にも「神様が本当にいるなら、どうしてひどい目に遭う子どもたちを救わないのか?」という問いがあり、それはそうだよね〜と思う一方で「酷い目にあってきた子供」の代表格がスメルジャコフなんじゃないのか……という気持ちもあり(おそらく強かんによって出来た私生児であり、養父のグリゴーリーには酷い言葉をかけられたり鞭で打たれたりして育ってきている……)。

本当に愛されるべき人たち(家族)に「愛されてこなかった」人間なんですよね、スメルジャコフは。虐待みたいなことをされて生きてきたから、性格もひねている。そのために余計に嫌われる。負の無限ループ。地獄です。やたら愛されて育ってきたアリョーシャとは逆の人間かも(スメルジャコフが嫌われてきた原因を考えると、嫌われるのはスメルジャコフだけのせいではないので余計に不憫。生育環境って大事)。

*上記をふまえるとスメルジャコフがああいった行動に出たこと、心の安寧を保てていなかったこと、「神がいなければ全て許される」というイワンの持論に惹かれてしまったこと、罪を犯したことも納得がいくのかなと……。
愛されてこなかった人間に「愛」を持て、慈しめ、というのは本当に酷。世界が全て敵みたいな状態で、他の人間が自分に辛く当たる状態で、どうして自分が自分以外のものを愛さなくちゃいけないのか、慈しまなくちゃいけないのか、それはもうあんまりにむごすぎる。

彼がもしマリアと結ばれていたなら、マリアが愛をスメルジャコフに与えられていたなら、彼も愛を知ったのかもしれません。その前に自殺しちゃうので本当に救いがないんですけれども。グリゴーリーの妻のマルファにはたしかに優しくしてもらっていたけれど、子供時代に受け取っておくべき愛の量には足りなかったのかも。

【ドミートリー(ミーチャ)の裁判】


*杉下右京を呼んでくれ。マジで。グリゴーリーをぶん殴って怪我させたのはほんとに悪いことだけど、実際はやっていない父親殺しまで罪をかぶらなきゃいけないのはキツすぎる。杉下右京を呼んでくれ。杉下右京なら「おやおや」ってちょっと笑って怪しい証拠を見つけ出し、重箱の隅をつつくような完璧な謎解きしてくれるから。杉下右京を呼んでくれ、頼む。そんな気持ちで読んでいました。今の時代から考えると本当にとんでもない裁判でした。

*何度も『宗教』と『科学』の話をしていますが、これも『科学』があったら成立しなかっただろうな、という裁判です。何しろ状況証拠と証拠品のみで話が進む。現代なら指紋を取って、とか現場の検証をして、とか、科学的な証拠を揃えてから行うと思うんですが、当時はそんなものはなかったので証人と状況証拠、見つかった証拠品のみで裁判が行われます。

だれかが刺殺されたとして、そしてまた別の誰かが『血の付いたナイフ』を持っていたからと言って、すぐにその人が犯人だ、とは現代ではやらないはずですが(ナイフについた血と指紋などを調べて犯人を絞り込みます)、この時代の裁判はそうじゃなかったみたいなんですよね。怖い時代です。

なので検事はできるだけ被告人が悪く見えるように話をするし、弁護士は被告人がよく見えるように(無罪に見えるように)話をするわけですが、観衆が検事や弁護士の話ですごくフラフラするんですよ。有罪だろこいつ!あっやっぱり無罪なんじゃない!?みたいに。
見たいものしか見ない、客観的な判断を下せない、みたいなのは今の時代もそう変わらないのかもしれません。

*被告人が悪人かどうかを『信じる(判決を下す)』のは、ちょっと伝統的な価値観というか、宗教に似たものを感じますね。科学的な、客観的な事実には頼らないという姿勢。
何がいいのか悪いのか、それが本当かどうかは主観(印象)によって決められてしまうので。

【自殺を思いとどまったミーチャ、自殺したスメルジャコフ】

*自殺についての経緯は省くとして、ドミートリー(ミーチャ)は一度自死を選ぼうとします。ピストルで頭を撃って自分の生に終わりを告げようとするんですが、色々あって思いとどまるんですね。その後にフョードル殺害容疑で捕まったりして、なんかよくわからんけど信仰に芽生え(個人的に本当に何でこの流れで信仰心を持ったのかわからなくなっちゃった、ドストエフスキーの描写が悪いとかではなく、わたしが信仰に理解を持たないからだと思います)、その後は恥のない人生を送るんだ!高潔な人間になるんだ!みたいな、清らかな人間に生まれ変わるわけです。おそらくそれがキリスト教的な『救い』ではないのかな、と思いました。
自殺という宗教的に禁忌とされるものを退けることで、最初の方はどうしようもなかった人間のドミートリーが高潔な人格を得る、救われる、という図式なのかな……?

*一方でそういう宗教的な価値観は正直そんなにありませんよ、なスメルジャコフは自殺を遂げてしまいます。宗教的には『救いのない』末路で、読んでいる人間がもしキリスト教的な価値観を身に着けていたなら、「あいつは父殺しの上、自殺までした本当にとんでもないやつだよ!」という印象を受けるのかもしれないんですが、個人的には『勝ち』じゃん。という印象でした。

罪はドミートリーになすりつけられたし、全方位に唾吐いて死んだような、褒められはしないけど我は通せたんじゃないか、という印象を持ちました。そもそも生まれも育ちも悪かったし、嫌な人間になってしまったことはもう、周りの人間のせいじゃないかこれ……とわたしは思ってしまうので、自殺そのものが彼にとっては『救い』だったのかもしれません。

ドミートリーと自分との違いはフョードルに認知されたか否かだけで、同じカラマーゾフの血を引いているのに自分は使用人(コック)だし、ぞんざいな扱いを受けていたし、相当ストレス溜まってた気もします。いつか全員に仕返ししたいと思ってたんじゃないでしょうか。彼ほど賢ければイワンの『神がいなければ全て許される』を引用して父親殺しを実行したとき、そしてそれを兄弟のうちの誰かになすりつけたとき、イワンに衝撃を与えることくらいは理解していたでしょうし(兄弟になすりつけなかったらイワンは別に衝撃受けたりもしなかったと思うんですけど)。

【みんな身体弱すぎ】


*これは本編にそこまで関係ないんですけど、主要な人物のほとんどが途中で体調を悪くするのが面白かったです。次から次へとみんな具合悪くなるのに、アリョーシャだけ小指をめっちゃ噛まれただけで他に身体的な不具合は出てこなかったので、なんだかそこもすごいなアリョーシャ……。

【最後に】


*本当に難しい話で読み終えられるのか不安でしたが、読み終わってみると「あれはどうなんだろう?」「これはもしかしてここに関係あったりするのかな?」と色々な切り口で物語を味わってみたくなるような話でした。とはいえ読むのに本当に体力とかカロリーとかをつかうので、なかなか読み返すのは難しいですが……!

ゾシマ長老の『自殺ってめっちゃ悲しいし、神様に自殺した人について祈るのは罪だって言われてるけど、私はそれを罪だとは思わないよ(意訳)』みたいな話も前置き(?)がめちゃくちゃ長くてどうしましょうね〜!?みたいな気持ちでいましたけど、それを踏まえてからのスメルジャコフとか、ドミートリーのことを考えると物語に深みが増すな……と思ったりして、研究する人が多くいるのも納得です。
本当にカロリーとかを使いますけど(2回目)、人生のうちに一度は読んでおくといいかもしれないと思います。


一番衝撃的だった話をしようと思います。
「難しい本だったよ~~わかんないよ~~」とか言いながら、それでも10000文字程度の感想を書いてしまうくらいの魅力がある本なのがおわかりいただけるかと思うんですが、『カラマーゾフの兄弟』って作者の構想ではあともう一冊書かれるはずだったようなんですね。
ただ、その「もう一つの物語」は書かれることなく、ドストエフスキーはこの世を去っているんです。
とはいえ一応完結していて、本当の書きかけ・未完というわけではないので「これから読んでみようかな?」と思っている方もそこは安心していただけたらと思うんですけれども。
続きが読めないのがめちゃくちゃ気になる本なんですよ。
  
わたしが今回読んだのは光文社古典新訳文庫だったんですが、光文社古典新訳文庫だと、『カラマーゾフの兄弟』は全部で5巻構成なんです。
その中で4巻だけ異様に分厚かったんですね。他の巻の2倍くらいあって(他は300~350ページくらいなのに4巻だけ700ページ)。4巻ではキリ良くミーチャの裁判パートをまるまるやってくれて、この流れなら5巻で「その後」が描かれる……!!と思ってたんです。
ミーチャが脱獄を仄めかしてたりしたし、それはもう読みたいじゃないですか。ミーチャの脱獄パート。ロシアの獄中から逃げ出してくるってそれだけで一冊書けそうですし。

5巻を開くじゃないですか。

いきなり『エピローグ』。


それで、50ページくらいで終わるんですよ。
エピローグが。

『カラマーゾフ、万歳!』

これで終わる。

じゃああとの300ページは何なんだ、まだミーチャの脱獄も見てないんだぞこっちは!ってなるじゃないですか。
あとの300ページ、何だったと思います?

解説ガイド(巻末資料)。
マジでもう度肝抜かれましたね。そりゃあ名著だってね。本一冊の6/7が解説なのはね、もうね、読み終わった自分を褒めてやりたいなと思いましたね。それだけ解説が必要な本ですってことですからね。
4巻を2冊に分けて6巻構成じゃだめだったの!?ってものすごく突っ込みたくなりましたね。絶対ミーチャの脱獄は匂わせ程度でも描いてくれてるだろうと思ってたから! そんなことはなかったんですけども!
クソーッ ドストエフスキーが長生きした世界線はないのかよ!!!

そんなわけでみなさんもぜひ『カラマーゾフの兄弟』を読んでみて、ミーチャの脱獄が一切描かれないことに絶望してみてはいかがでしょうか。

 長々とお付き合いいただきありがとうございました。

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