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『星の王子さま』読んでみた!

人間のみなさんこんにちは。大浮藻です。
読書感想文というか個人的な読書メモに近いので、今回もネタバレをしています。

まだ読んだことがないしこれから読む予定があるんだよね!というひとはページを閉じるか、覚悟を決めてください

今回はサン・テグジュペリの『星の王子さま』を読みました。名作中の名作ですね。
実を言うと『星の王子さま』自体は10歳の頃に一度手を出していて、小学校の担任の先生に「君なら読めると思うから読んでごらん」とすすめられたのかきっかけです。
 
とはいえ、実際に読んでみるとわかると思うんですが、子供向けっぽい体裁の本でありながら中身は全然子供向けじゃないんです。優しい言葉づかいとふんわりした挿絵で勘違いしましたが、本質はかなり大人向け。人生において大切っぽいことが綴られているんですが、人生について深く考えるのは大人くらいのものでしょう。10歳が人生について深く考えるかと言われるとちょっと微妙なラインです。

そんなわけでわたしは冒頭で読むのをやめて(何を言っているのか理解できなかったから)、その後この本と向き合うことはしてこなかったんですが、つい最近目にして「今なら読めるかも?」という気分になったので読んでみました。

大人になるとこどものときとは感覚も変わっているし、子供のときにはなんだか意味のわからなかった(そしてわたしがこの本を読むのをやめた理由である)、王子さまの語る

〝ぼくの星にどこにもない珍しい花が一つあって、ある朝小さな羊がそれを何も考えずにぱくっと食べてしまう。そういうことをぼくが知ったとする。それが大事なことじゃないというの?〟
〝何百万もの星という星を探してもこれ一つきりという花が好きだとしたら、星たちを眺めるだけで幸せになれるんだ。『自分の好きな花がどこかに咲いている』と思う。だけど羊がその花を食べてしまったとしたら、全部の星がなくなってしまうのと同じだ。それでも大したことじゃないというの?〟(本文引用)

の言葉の意味がわかるかも、と思ったんです。
けれど、この時点ではやっぱりよく分からなかった。何を言っているのかふわふわしていて理解できなかった。
 
10歳のときに読んだ際にも全く同じ気持ちになったんですが、どこかに『一番愛した花が咲いている星』があるとして、夜空を見上げたときにその星がどこかにあるからといって(そしてその星がどれだかわからないとしても)、その花の咲いていない『その他の星々』も大切なものに思える、が理解できなかったんですね。
『花の咲いている星』が特別なのはわかるけれど、『花の咲いていない星』までも眺めて幸せになれるものか?と。花が咲いていなかったらただの星はただの星じゃん、の気持ちがありました。

簡単にいうと、〝当たりの星(花がある)〟、〝ハズレの星(花が存在しないその他の星々)〟の2つになってしまって、「星は星じゃん(空に浮かぶハズレくじまで愛せるか?)」という。

まあでも世の中いろんな考えがあるし、たった一つの考えがわたしと合わなかったからといって全否定するのは違う気もするし、本は置かずに最後まで読もうと思って最後まで読んだんです。たぶんここで辞めたら、もう一生開かないと思いましたし。

『星の王子さま』は、自分の星を出た王子さまがいろんな星を訪れて、そこでうぬぼれ屋や王様、サラリーマンや学者にあって、最後に地球を訪れ、語り手の『私』と交流する話です。
さんざんわたしは『よくわからない』と言いましたが、構成自体は簡潔でわかりやすいものなんです。

本当に簡単な説明をすると『話の分からない大人』に『こども』が質問をして、結局『大人って変なの…』みたいなことを言いながら次の星に向かって……というパターンでできています。
 
『話の分からない大人』は王様やサラリーマンやうぬぼれ屋の形をとって象徴的に語られているので、今でも『大人の世界』がめんどくさい人には特によくわかる内容だと思います。大人って本当に意味のないことにこだわったりするんですよ。自分でも意味がないってわかってるのに、それを続けていればいいんだ、何とかなるんだ、救われるんだ、みたいなところがあるじゃないですか。目的と手段がいつの間にかめちゃくちゃになっているような。何がほんとうに大事なのか見失っているような。

そういう『話の分からない大人』に出会ったあと、王子さまは地球で一匹の狐に出会います。この狐が本当に真理しか喋らなくて、この狐何者?みたいな気持ちになるんですよ。哲学的なことを話すんですけど。

〝あんたがおれと仲良しになってくれたら、おれの生活も太陽がいっぱいということになる。他の足音とは違う足音がわかるようになる。ほかの足音だと、おれは穴の中に隠れてしまう。でもあんたの足音がしたら、音楽だと思って穴の中から出てくる〟(本文引用)

こういう考え方で人生を生きていけたら本当に幸せだと思うし、今生きてる人の人生も半分くらいはこういうものでかたち作られているのではないか、あるいは誰にでも思いあたるふしのあることなんじゃないか、と思うんです。

大事な人が増えたら世界はちょっとだけ楽しくなるし、見えるものが変わってくるはず。数日前までは魚のキーホルダーを見たってどうとも思わなかったのに、新しくできた大切な友人が魚好きだったりしたら、「ああ、これ、きっとあの子が好きだろうな」と思ったりすることってあるじゃないですか。

何かをしていて「その人」を想起するようになったら、何かに対して「その人」のことを考えるようになったら、それは愛なんじゃないかって。
どこかで買い物をしたときにお菓子のコーナー眺めたりして、「あっこれ友達が好きそうかも」と思って買ってみたりとか、そういうことってあるじゃないですか。

旅行に行ってこの景色を一緒に見たいと思ったり、美味しいものを食べて「今度一緒にこのお店に来よう」と思ったり……。

わたしは「大切な人の心音を聞きながら眠るのはどれだけ幸福なことか」みたいなことを考えることがあるんですが、なんていうか、そういうことなのかなあって。
よくわからない人の心音を聞いたってよくわからないけど、それが大切な人の心音ならそれだけで嬉しいような、世界一贅沢な子守唄だな、みたいな。
大切な人が増えるだけで世界に大切なもの、それを見たり聞いたりしたときに大切な人のことを思い出したりして、うれしくて、そわそわしちゃうような『好きなもの』『嬉しくなれるもの』が増えるのは幸せなことだなあと。

だから、狐の話(足音が音楽)を読み終わったとき、星と花の話の意味がわかりました。

すべての〝星〟を見て美しく愛しく思うのは、自分の中にある〝花〟への愛を星を通して想起するからなのか、と。
(他の解釈もあるかもしれませんが、わたしはこの解釈でいきます。)
 
「何か」を通して「誰か」を思い起こすこと、が理解できないと〝当たりの星(花がある)〟、〝ハズレの星(花が存在しないその他の星々)〟になってしまい、「星は星じゃん(空に浮かぶハズレくじまで愛せるか?)」になっちゃうのかなと。

最初は本当に何を言いたいのかよく分からなかったけれど、最後まで読むと理解ができるし、とても寂しくなる話でもあるんですよね。

大切なひととはいつか別れなくちゃいけないし、そういう日が誰にでも来る。でも、別れたあとでも何かを見てその人を思い出すことはできる。それを感傷というのか思い出というのかは人によるけれど。
大切な人が増えるのは嬉しいし切ないことだけど、それもまた人生なんだなあ、みたいな。

また何年かしたら受け止め方が変わるかもしれない本なので、また何年かあとに読んでみようかなと思います。

それはそれとして、冒頭でこの本を勧めてくれた担任には学年末に「次の学年ではもっと友達が作れるといいですね」って言われたのを覚えてるんですが、そんな人間に友達が毒蛇に噛まれて死ぬ話をオススメするなと今思いました(そんな担任いる?)。


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