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あれから7年が経ちました。

くる!!!!!

パッと目覚めて、急いでお風呂場に飛び込んだ。
その瞬間、パンと体内から水分が流れ出た。

そう破水した瞬間だ。

なぜ目覚めたのか?
なぜ破水すると予知できたのか?

理由は分からない。

けれど、野生の勘なのか、お腹の赤ちゃんからのメッセージなのか、私にはすぐ分かった。

ついに生まれるんだと実感。
2017年8月5日午前3時のことだった。

週末になると夫は東京から2時間半かけて、私の実家に来てくれた。それが前日4日の午後10〜11時のことだった。

夫は9月4日にシンガポールに経つことが決まっていた。しかし、お腹の子の予定日は8月16日。

そろそろ、出ておいで。

そう伝えたら、すぐに破水して生まれる合図を送ってくれた。ママの想いを聞いてくれた娘。

私にとっては親子でありながら、バギーのような同志の娘。

娘を懐妊してからつわりがひどすきで、2週間の休業を余儀なくされた。とにかく気持ち悪いのと動けない自分を責めて、私は社会に不要な人間なのだと毎日泣いていた。分かりやすく、メンタルダウンしていたのだ。

やっと復帰できた当日、職場のトイレで出血して、とんぼ返り。さらに2週間の自宅休養を医師から命じられたときは、さすがに落ち込んだ。

けれど、これをきっかけに妊娠していることを自覚した。それまでは優先順位の第一位が「仕事」であり、妊娠していようと関係なく深夜残業を繰り返していたから。

今思うと、娘と自分の体がストップをかけてくれたのだと思う。

当時は大宮に住んでいたため、宇都宮まで新幹線で通勤。もちろん、特急券は自腹。けれど、背に腹はかえられなかった。

新幹線に乗る50分間は妊婦といえども席を譲ってもらえず、立って通勤することはザラだった。

しかも、激務の職場であるためお腹が大きくなっても「早く帰っていいぞ」と、上司から声をかけられることはなかった。

仲良くしていた先輩たちからは心配の声をもらったけど、当時はグループの中で最年長であったため、頼られることが多かった。

私も責任感が強く、頼られると断れずに残業をすることになった。

だから、最終の新幹線で帰ることも多く、帰りは大通りのバス停まで歩かねばならなかった。15分はあっただろう。

少し歩いただけでお腹が張り、立ち止まって休憩して、また歩を進める。やっと乗れた新幹線の最終便で帰る翌日は、お腹が収縮して痛くて起き上がれず、休んだことも数えきれなかった。

途中で爆睡してしまい、大宮を通り過ぎて上野まで行ってしまったことも何度もある。

そんな幾多の試練をともに乗り越えたお腹の子と、十月十日を過ごしてきた。

破水する前日に、お腹の子にお願いした。

パパがもうすぐシンガポールに行くから、そろそろ出てきていいよ。

そこから破水し、急いで産婦人科へ。

ただ子宮口は全く開いていなくて、とりあえず1人で朝まで迎えた。

今日がこの子の誕生日なんだ

なんて感慨深く思えたのも、痛みのない朝だけだった。

一睡もできずに迎えた朝、破水後の赤ちゃんの安全を確保するため、陣痛促進剤を投与することになった。

無理やり陣痛を起こさせるため、体は悲鳴をあげた。あまりの痛さに、このまま天に召されるのではないかと思った。

私は痛みに弱いのだ。

痛みの山がくるのが、毎回恐怖で。

そして、破水してから20時間半。

8月5日午後11時半に生まれたのが、長女だ。

娘は初っ端から親孝行であった。
なんと夫がシンガポールに旅立つ当日に、お宮参りができたのだ。

義父母もわざわざ来てくださり、お祝いしてくれた。介護状態の父も大変喜んだ。

そして、今も娘は私たちを笑顔にしてくれる。

オシャレが大好きで、工作や絵画が好き。
YouTubeを見たくて、早起きする。
自立心旺盛で、朝ごはんを1人で用意する。

誰にでも優しくて、お姉さん的存在。シルバニアやお人形遊びが大好き!

そんな娘が7歳になった。

娘の存在は私の支えだ。
これからもいろんな場面を見ていきたい。
そのためにも、健康のまま長生きしないとね。

いつもありがとう。
ママをママにしてくれてありがとうね。

この一年も、あなたの世界がどんどん拡大しますように。いいご縁に恵まれますように。

娘に幸あれ!

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