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作家の林望から学ぶ「文章の品格」とは

中学入試の世界では「イギリスもの」というジャンルがあります。
その代表といえば、ケンブリッジ大学時代の研究生活のことを綴った『イギリスはおいしい』(文春文庫)で、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した作家の林望はやしのぞむさんでしょう。
林さんは、エッセイの中で、「質素な国民性」「根っからの合理主義者」「男女の性別に対する無頓着」「科学への無関心と理論的な正当化」といった話題で、イギリス流の生き方を紹介しています。

巣鴨中学の平成29年度入試問題では、『イギリスはおいしい』を話題にした林さんのエッセイ『文章の品格』が出題されました。

林さんは、文章の中で「『感情語』を使うことを避けた」と記しています。
「うれしかった」と何回くりかえし書いても、読者は「うれしい」と思ってはくれません。同様に「スゴイ」という単語を何回くりかえしても、読者には「凄さ」は伝わりません。「感動した」と何百回書いても、読み手が感動することはないのです。

歌人の岡野弘彦さんだったと思いますが、師であった折口信夫先生から「歌人たるもの言葉にできないなどと死んでも言ってはいけない。言葉にならならいものを言葉にするのが歌人だ」と言われたそうです。

書き手本人がどんなに感動していても、それをストレートにぶつけて書いたからといって、感動を表現したことにはなりません。

文章というものは、書いた瞬間から作者の手を離れて一人歩きするものです。そのため、作者の思いとは違った捉え方をされてしまうことはよくあります。
作者の思惑とは違ってしまった例としては、「ガリバー旅行記」をあげることができるでしょう。
今では子供向けの童話として広く知られていますが、もともと童話として書かれたものではなく、政治を風刺するものとして大人向けに書かれた話でした。
それが、いつからか子供向きの童話として扱われるようになってしまったのですが、これには、作者のスィフトも驚いていることでしょう。
このように、文章とは、生まれた瞬間から作者の意図とは異なり、全く違う意思と人格をもって、一人歩きし始めるものなのです。

人が文章を書くのは、なんらかの目的を達成したいという衝動が発端となっている場合が多いでしょう。
作家のジョージ・オーウェルは「なぜ書くのか」という問いに対して、エッセイの中で、「頭がいいと思われたい」「有名になりたい」と言った『純然たるエゴイズム』を答えとしてあげています。(『オーウェル評論集』岩波文庫)

日本人が文章を書く場合は、「自分の思いを伝えたい」という主観的衝動が一番の契機となっている場合が多いでしょう。
その意味でも、林望さんの「『感情語』を避ける」という言葉は、極めて本質的な部分をついたものであることがわかります。
感情を抑えた表現というのは、正岡子規が提唱した「写生」「写真」の精神に通じるものです。
この「事実をありのままに」という姿勢は、客観的に物事を判断するイギリス人が得意とするところなのですが、日本人は苦手かもしれません。
日本人は「美しいものに感動したい」という欲求が強いことから、およそ美しいとは言えない客観的な「事実」から目を背ける傾向があるからです。

日本語は、和歌の伝統から生まれた「歌的要素」や「美的要素」が強い、感情的な言語ということができます。
日本人は、自分の想いを「どのようにしたら相手に伝えることができるのか」ということに注力しながら、文章を残してきたからです。
そのため、日本語は、和歌のような韻文では、その力を存分に発揮することができるのですが、エッセイなどの散文では、思うように力を発揮することができません。
散文を書くときには、イギリス人のような冷静な合理性や客観性が求められるからです。

日本人は、日本語のこのような特性をよく理解した上で、感情語を避けた文章を書くようにすると良いのかもしれません。

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