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私説・長野県移住3000年史

長野県の駒ケ岳の標高は2955メートル。
気がつけば、note のフォロワーが2955となっている。

この一致は何を示すのか。

思うに、山々が『私説・長野県移住3000年史』を書けと言っているのではないのか。

となると、なにしろ3000年だ。
「フォローありがとう」のお礼もそこそこに、以下に進ませていただく。


縄文時代には多くが移住していた

まずは、一気に3000年前にさかのぼる紀元前976年。
3万年余り続いていた縄文時代は、あと少しで終わろうとしている。

時代は変わろうとしているが、山々の稜線は3000メートルの空に描かれている。

ふもとになると、今とは様子は異なるようだ。
森林が静かに広がり、一面は草深い。
おそらく、カッコウは変わらず鳴いていただろう。

天竜川は、ずっと幅が狭い。
しかし雨が降れば、一気に大水が流れていく。

おそらく、この縄文の頃から、竜に近いイメージの名称はあったのではないのか。

前置きはともかく移住である。

長野県には、すでに多くの移住者がいた。
関東平野に海が侵食してきて、多くの縄文人が内陸の長野県へ向けて移住していた。

なぜ、長野県なのか?

それは黒曜石である。
長野県中部では多く採掘されていた。

ここから黒曜石は全国に運ばれたし、黒曜石を求めて多くの人々が長野県に移住した。

さて。
上記は、私の記憶に沿っての私説となる。

が、移住ジャーナリスト(自称)として、参考文献を示さなければならない。

それを確かめるために、私は手元にある『極秘取材ファイル』を開いた。

するとやはりだ。
ブラタモリ』のパクリでしかない。

文献じゃないし・・・
極秘でもないな・・・

しかしだ。
NHKだから、正確さにおいては間違いないだろう。

それにだ。
この辺りは、たしかに縄文時代の遺跡がやたら多い。

土器の破片が、表土に散らばっている畑もある。
子供のころは、アホみたいに菓子箱いっぱいに拾った。

山の上などにも遺跡はあって、いくら縄文時代であっても「なんでこんなところに人が住んだの?」と不思議だった。

今になってみると、黒曜石を中心にした巨額な縄文マネーが動いていたから人も動いた、という推察は難くない。

その黒曜石の採掘場遺跡は以下である。
縄文期最大と『ブラタモリ』で紹介されていた。


星くずの里たかやま 黒耀石体験ミュージアム
長野県小県郡長和町
https://hoshikuso.jp

地図でいうと諏訪湖の上あたり。山の中なので冬季は閉館するとのこと。詳しくは公式ホームページを見られたし。

真実の移住ジャーナリスト(自称)として、決してヨイショするわけではないが、このミュージアムも遺跡も非常に興味深い。
星くずの里なんてロマンチックではないか。

ぜひ、極秘取材を敢行したい。
まあ、普通に行って、普通に見てもいいけど。

平安後期から移住に変化がおきる

時代は、弥生から奈良となる。

しかしだ。
この時代、長野県への移住は進まない。

なぜなら山国の気候には、稲作を中心とする農業生産が適さなかった。
人口増はない。

ところが、平安の後期。
変化がおきる。

長野県への移住は入植という形で行われた。
中央貴族の出資による入植団が、森林のこの地にやってきた。

この動きの変化の原因のひとつには、鉄器の普及がある。
貴族と官にとっては開墾による農地の獲得競争が、入植団にとっては新天地が求められたのだった。

しかし。
入植団は全滅という運命も繰り返した。
農事の不振だけでなく、食料の奪い合いの戦いもおきたからだ。

長野県の地に多くの人々が定住したのも、村々が誕生したのも、ずっと後年の戦国時代になってからである。

さて。
上記の私説の参考文献は、信濃毎日新聞の歴史コーナーの記事である。

信濃毎日新聞だって、たまにはいい記事も載せる。
極秘取材ファイルを開いたが、記事掲載の日付を記すのを失念している。

なんとかいう大学教授が『中央貴族の出資による入植』とも『全滅』とも解説していたが、その表現にはピッタリだなと、読んだときには納得できた記憶がある。

というのも、この村の入り口には小さな石碑がある。
『供養』と彫ってある。

石碑の後ろ側に彫ってある日付は、なんと江戸時代末期の年号となっている。

この経緯については、すでに昭和の郷土歴史家が調べてまとめていたけど、その江戸時代末期に用水路を作ろうとしたら土中から人骨がかなり出てきたという。

そして村では、戦国よりも前の時代に、戦いで全滅した一団がいるとの言い伝えがあった。
食料の奪い合いの、凄惨な戦いがあったのは想像に難くない。

そうではないのか?

近年の研究によると、この時代は軽い氷河期とされている。
これは文献もなにもなくて、事実として解明されている。

正確には、1416年から1534年の120年間は、太陽の活動が低下。
世界的な火山の大噴火が7回ある。

日本の夏は、今よりも3度ほど低かったとされる。
高地の長野県だったら、年によっては農事は壊滅的だったろう。

とにかくも、一団は全滅したから、誰にも弔らわれることもなく放置された。

この村だけのレアケースではないと、私説に付け加えたい。
通常にある光景だった。
たぶんそうだろう。

というのも去年だ。
村の郷土博物館で『江戸時代の暮らし展』を開催していた。

この村の複数の農家が保管していた古文書レベルの日記を、学芸員が読み解いてまとめたのだ。

1700年ころから1850年ころまでの出来事がまとめられて、4室の壁面に展示されていた。

このときほど「学芸員ってすごいなぁ」と敬意を持ったことはない。
鼻クソほじって昼寝している人たちではなかったのだ。

ああ・・・
学芸員に怒られる・・・
でも、よかったよ・・・

ほかに驚いたことはいくつもあったけど、一番に驚いたのは『群馬の農民200名が食料強奪のために押し寄せてきた』という日記の訳文。

驚きではないか!

太平の世といわれる江戸時代になっても、いったん飢饉になれば、まだそんな争いが起こっていた。

でもありえる。
近代になっても、フランス革命、ロシア革命、大正デモクラシーといった運動だって、すべては食料強奪が発端となっている。

人々の崇高な理念などは、バツがわるいから後で取ってつけたのではないのか?

このまま飢えて死ぬのだったら、命をかけて奪いにいくという選択を、ときに人々はするのではないのか?

でも、あなたは。
また、いうのかもしれない。
「理念とはそういうものではない」と。

もう。
ほんっとに。

あなたという人は!
むずかしい人でしょ!

でも今日ばかりは、あなたにかまっている場合ではない。
今回は3000年にわたる私説なのだ。
申し訳ないが、先を急がしていただく。

ああ、それと。
鉄器の普及が背景と加えたのは、司馬遼太郎氏の著書『義経』で読んだから。
これは順当な推測だろう。

そうそう。
司馬遼太郎氏は、源頼朝の成功は食料にあったとしている。
西が飢饉で、東が豊作だったのを挙げている。

木曽義仲の軍には、多くの飢民が合流した。
京へ向かう義経は、最初は食料運搬隊の責任者だった。

すると。
あなたはいうのかもしれない。
「でも義経はちがう」と。

うん。
義経が好きなのはわかった。

けどスルーするよ。
3000年だから。
なんだったらコメントをいただきたい。

そしてだ。
司馬遼太郎氏は『義経』でも『箱根の坂』でも、くり返し中世の道の狭さに触れている。
草深い中の、人が1人通れる狭い道を描写している。

たしかに、この村にも鎌倉道だったという由緒ある道があるが、田んぼを通るただの狭い道である。

まあ「司馬遼太郎は大袈裟だしな」と思っていたら、そうでもないらしい。

1877年(明治10年)に来日したイザベラ・バードも、著書『日本紀行』で狭い道を繰り返し記録している。

まだ外国人居住区が定められているこの頃に、イギリスの紀行作家の彼女は、西洋人女性としてはじめて東京から青森までを踏破した。

それによると、主要な街道はそこそこ広い。
でも村を離れると、道は狭くなる。

山道になると、手をついて這って上がる箇所もあって、馬は人が担ぐようにして上がったとある。

雨が降ると、狭い道は川のようになる。
泥だらけになって進んでいる。

船運が中心だったのだ。
明治になっても、陸路は整備されてない部分が多かった。

で、なにがいいたいのかというと、海もなく、川も狭くて急流の長野県では船運は見込めない。

その上、これほど道が狭く、しかも山に囲まれている長野県への物資の搬入は、そうそうは大量にはできなかったと推測される。

そんな長野県では、中世でも戦国であっても、飢饉となれば別の地域からの食料の搬入も待ちきれずに、手っ取り早く戦いがおきたのも納得できて、私説とさせていただいた。

江戸時代の移住と謎

江戸時代は、幕府の政策による移住だろう。

1人を挙げるとすると、福島正則か。
広島城の修繕で、徳川秀忠に言いがかりをつけられて、長野県へ転封となる。

現在の高山村で5年を過ごして、1624年に63歳で没した。

Wikipediaによると、ここでの福島正則は『領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残した。』とあり。

大名の転封には家臣と家族が同行しただろうけど、一般の農民は移住が自由にできなかったのかな?

諸説あるようだが、なにしろ3000年だから細かいことはすっ飛ばす。

そうそう、転封といえばだ。
去年、20年来の謎が解けた。

その20年ほど前。
私は兵庫県へ数日の出張した。

すると取引先の人に、播州弁では「ゴウわく」というけどわからないでしょう、と訊かれた。

私はわかっていた。
「腹立つ」という意味だ。

なぜかというと、この長野県の寒村の年寄りも「ゴウわく」を普通に使うのだ。

不思議だ。
誰も兵庫県とはまったくの繋がりがないのに。

ただ彼とは、福原のソープにいってから酒を飲んでいる最中の「ゴウわく」だったので、不思議はどうでもよくなってしまった。

そして20年が過ぎた去年。

村の郷土博物館にいくと、江戸時代に、長野県中部から兵庫県に転封した大名がいたことが判明する。

大名の名前は忘れてしまった。

極秘取材ファイルにも記入してないし、ネットで調べたがわからないし、なにしろ3000年だから、また村の郷土博物館にいって確めるとするに留めておく。

なんにしてもだ。
播州弁の「ゴウわく」とは、その大名と共に長野県から移住した人たちが使ったのではないのか?

播州弁「ゴウわく」長野県元祖説を提唱して『私説・長野県移住の3000年史』は明治に移りたい。

もし「ゴウわく」はこっちが元祖だという方は、コメントをいただきたい。
正当であれば記載させていただく。

明治から大正の移住ブーム

次に長野県に移住ブームが訪れるのは、明治の後期。

ただ、この移住ブームは長野県へではない。
長野県から移住するのだ。

いったいどこへ?

ブラジルだ。
1908年(明治41年)からブラジルへの移住(移民)は国策としてはじまる。

それから1941年(昭和16年)の33年間で、日本から約18万人が移住した。

都道府県ごとの内訳は独自調査中になるが、資料を精査(ネットをみただけ)した限りでは長野県民が多かったのは確かである。

思い出すのは、私が子供のころの40年以上も前。

叔母がブラジル移住について話していた。
村人を集めて、今でいうセミナーみたいなものが開催されていたと聞いた。

「ブラジルはいいですよ、ほんとうにブラジルはすばらしいですよ」と話されていたが、うさんくさかったと言いたげな顔で話していたのを覚えている。

私の父親も少年のときに、ブラジル移住したいと言ったら周りから猛反対されたという。

情報がない当時でも、移住してはいけないと薄々感じられていたのだ。

実際に、ブラジル移住したものなら、コーヒー農園で朝から晩までの奴隷労働で悲惨だったらしい。

あーあ・・・
話がしめっぽくなっちゃった・・・
せっかくの3000記念なのに・・・

このあたりは、たくさん体験談があるので参考文献を挙げるまでもない。

昭和初期の国策による移住

1932年(昭和7年)からは、満州への移住がはじまる。
全国で1番に多く満州へ移住したのは、長野県人の3万1264人でダントツである。

2番目が山形県の13252人。
3番目が宮城県の10180人。
以下は1万人未満。

ワーストは、滋賀県の93人、愛知県の634人、大分県の735人など。

いかに長野県人が多いことか。
満州国じゃなくて信州国としてもいい。

長野県では官民一体で、各村々で人数が割り当てられて、満州へ移住したと信濃毎日新聞で読んだ。

移住の背景には、山がない土地への憧れ、農地の欲しさ、そこに重税の厳しい生活があったとは推測できる。

この長野県から移住した人々にも、悲惨な最後が来た。

ソ連の侵攻があり、逃避行があり、集団自決もあり、シベリア抑留もある。

このあたりも、たくさん体験談があるので参考文献を挙げるまでもない。

今になって残念なのは、私が子供のころは、そこから帰ってきた人は周囲に多く生きていたのに、誰1人として体験談は話さなかったこと。

触れてはいけない出来事のようにして、誰1人として話さなかった。

移住した27万人のうち、8万人が命を落としたのだ。
あまりにも悲惨すぎて、子供に聞かせたくなかった。
あるいは思い出したくもなかったのかな。

今になって、慌てるようにして後世に伝えようとして、さまざまな取り組みもされているので、逆に若い世代のほうが知っているかもしれない。

長野県の阿智村には、満州移住の資料が展示されている記念館がある。

ちなみに阿智村は『星がもっとも輝いて見える場所』と環境省から認定されている。


■ 満蒙開拓平和記念館 ■
https://www.manmoukinenkan.com/

天空の楽園とか日本一の星空として観光名所にもなっている阿智村。そこに満州移住の記念館というコントラストに驚くのは私だけ?

なにがあったとしても、阿智村はいい。
うん、いい。
いいよ。

私が東京でビジネスマン(端くれ)をしていたころ、阿智村出身の人には、神楽坂のキャバクラに連れて行ってもらった。

だからというわけではない。
真実を告げる私に限ってそれはないが、阿智村はいい。
訪れる際には2日が必要だ。

1日は星空を堪能して宿泊。
メシもうまいにきまっている。

もう1日は、いっちょ趣向をかえてみて、満蒙開拓平和記念館ではどうだろうか。

結論

でもなぁ。
なんかわかった気がする。

長野県移住の真実などというアカウントを開設して、移住ジャーナリスト(自称)など名乗っているのが。

「長野県で新生活!」だったら「がんばって!」となる。
「長野県で田舎暮らしを!」でも「長野県でのんびり暮らす!」であっても「いいんじゃない」と思う。

「長野県でセカンドライフ!」でも「長野県で自然豊かな生活!」でも「長野県でエイジョイライフ!」だって「そうだね」と普通になんでもない。

しかしながら。
「長野県へ移住」となると「ちょっと考えたほうがいい!」と全力で止めてしまう私がいる。

『移住』という語感に原因があるのか。
よくないことが起きると、知らずに反応しているのかも。

あと長野県の移住には『星』が関係があるようだ。
縄文の黒曜石は星くずと言われたし、現代になると星空がよく見える場所にもなっている。

3000年前でも、時代が変わっても、山国でも大陸であっても、移住をした人々は同じ星を見れた。

人は死ぬと星になるという。
もし、それが本当だとしたら、この私説の登場人物の全員は星になっているということか。

いや、小太りのくせに!
そんな詩人の真似事をぶっこいてはいけない!
まだ生きている人もいるじゃないか!

感情的に結論するのはいかがなものか。
長野県移住ジャーナリスト(自称)としては、合理的に理論的に客観的な結論にしなければ。

それらを精査しての結論としてだ。
現代の長野県への移住は明るい。

窓からこうして、向こうに陽が隠れた山の麓を眺めると、40年前よりも多く設置された街灯が、村を照らしていることに気がつく。

いや、そういう明るさじゃない!
客観的すぎるだろ!

なんにしてもだ。
書くのにつかれちゃった。
だって3000年分だもん。

すっかり陽も落ちたし、もうガマンできない。
ちょっとだけ農協の裏のスナックにいってくる。

レポート作成に使わせていただきます。 ありがとうござます。