とある表現する人の肖像


気持ちを込めて描かれた肖像画は
それを描いた画家の肖像画なのだ

…「ドリアン・グレイの肖像」オスカーワイルド


私は自分を表現する人だと思っている。
「表現者」等という立派なものではない。「表現する人」だ。
イラスト、小説、ゲーム制作、コスプレ、などオタク的興味のあるものはすべて手を出したし、それも全て「表現したい」からだ。
好きな世界観を、作品を、キャラクターを表現したい。それらの素晴らしいと思うところを拡大して、どれだけ愛しているかを伝えたい。
そう思って生きて、いつのまにか齢30も越えた。

ここにきて、大切なことに一つ気がついた。
どれだけ大切かというと「noteでも始めたら?」と勧める友人たちに「ハハハ お戯れを」と茶を濁してきた私が「これは大切だから書き留めておいたほうがいい」と感じたほどだ。

さて、考えをまとめながら書くので、乱筆を辛抱して欲しい。


ここに前提がある。

表現する人は、コンテンツを作る。
だが、表現する人は作ったコンテンツと同一ではない。
(作者 ≠  作者の作ったコンテンツ【作品】)

表現する人が自分の生み出したコンテンツと自分を同一視するとどうなるか。
コンテンツは流行り廃りがあり、競争もあり、観客の興味は移ろいゆく。もちろん作り手の社交性も重要になるし、時には妥協することもある。しかし、同一視していると自分の作ったコンテンツがつまづいた時にそれを自分のつまづきだと思ってしまう。
これは創作者にとって致命傷になりかねないと私は思う。


ややこしいので具体例を使って説明していく。

田中さんはコスプレーヤーだ。
コスプレを得意な表現とする田中さんは、とある作品のボブというキャラを好きになった。
愛情表現の仕方が劇場型の田中さんは、ボブのコスプレをして発信し、集まってきた人たちにキャラ愛を伝えた。

幸運なことに、ボブはとても人気なキャラクターだったので、田中さんのコスプレ写真はわりと好評で、SNSでも反響があった。
しかし、前述の通りボブはとても人気なキャラクターなので、他にもボブのコスプレ写真を発信している人はたくさんいた。
その中には賞賛しか聞かないような飛び抜けて人気の人や、色々な人に招かれて撮影している人、とにかく「みんなの憧れでスター的立ち位置」のボブのコスプレーヤーがいたのだ。しかも何人も。

田中さんはここでつまづいてしまった。
私はこんなにボブを愛していて、愛も込めて時間もかけて魂を削ってボブのコスをしているのに、どうしてあの人たちが呼ばれるような集まりに呼ばれないのだろう。誰よりもボブを愛しているのに、どうして数字が伸びないのだろう。どうして表現したいものがわかってもらえないのだろう。どうしてどうして。
そうか、私のボブのコスプレには価値がないに違いない。

そうして田中さんはボブのコスプレをやめた。
自分の存在は価値がないという虚無を感じたからだ。


田中さんは「自分のボブのコスプレ」と「自分」を同一視さえしなければ、心の平穏を保てたし、コスプレをやめずに済んだのかもしれないと私は考える。

彼女はなぜ「私のボブのコスプレには価値がない」と感じたのだろうか?
まず、ボブはとても人気なキャラクターだ。グッズが予約で売り切れて転売されたなら10倍で売られている程度の人気とする。
それだけ人気なのだからボブへの愛を表現している人はたくさんいる。コスプレだけではない、イラストでの活動もとても賑わっていて、毎日100枚ほどの絵がSNSに投稿されているとする。

ということは、そもそも「ボブの二次創作コンテンツは最初から一つ一つの価値が限りなくゼロに近い」ということではないだろうか。


まず二次創作のコンテンツというものは、推す人の推しへの愛情表現なので、推されるキャラクターがいる。(田中さんの場合はとある作品のボブという登場人物)

表現する人は推しの「かわいい」「エモい」と感じたところを表現したくて二次創作コンテンツを大量生産していく。
しかし、情熱的で熱心な人ほど、作っているうちにコンテンツがその人の魂の一部、もしくは魂を削って生み出したとても思い入れのあるものになり「これは私自身だ。たくさんの感情を込めて作ったものだ」と感じることがある。

個人的に、これは悪いことだとは思わない。表現する人としてそこまで熱を入れられるのは、とても素敵だとすら感じる。

しかし周りの人から見たらどうだろうか。
たとえばボブが好きな山田さんは、Xでボブ推しの絵師やレイヤーを片っ端からフォローしている。田中さんのボブのコスプレ写真も流れてくるが、同様に他の人のコスプレ写真もイラストも洪水のように流れてくる。山田さんはこれらを全て等しく「尊い」と感じて「いいね」する。

このとき、彼女が無心で「いいね」してはフリックしていくコンテンツたちに、個としての力はあるか?
いや、ないと私は思う。

悲しいが、作り手の込めた思いや、時間、愛情は、そう簡単には観客には伝わらない。

つまり田中さん風に言うと「すべてのボブのコンテンツに等しく価値がない」のだ。

ボブのコンテンツそのものに価値がないのだから、最初から田中さんは関係のない話だ。だから、コンテンツと自分を同一視した時点で彼女の挫折は決定的だったように思える。

「最初から自分の作品と自分を切り離して考えればよかったね」ということである。


では田中さんが見た「賞賛しか聞かないような飛び抜けて人気の人、色々な人に招かれて撮影している人、みんなの憧れでスター的立ち位置」はどうだろう?その人たちは特別なのだろうか?
ただコミュニケーション能力が高いだけだ。
その人たちは自己マーケティングが巧みだから腕のいいカメラマンに撮ってもらえるし、有名なコスプレーヤーとの企画にも参加できる。なんならファンサービスにも長けている。
田中さんの目指していたボブのコスプレとは少し違う話なのであって、そもそも比べる対象ではない。 

ここでX(旧Twitter)というツールについて言及するが、そもそも、文字数制限があって画像も4枚しか投稿できず、時間帯によってトラフィックにも差があり、ユーザーの使い方にもバラ付きがあるので、Xでバズりたいなら攻略法を身につけるか金脈を掘り当てるしかないと私は思う。
そもそもSNSはユーザーのほんの一瞬を切り抜いているのだから投稿者の意図も伝わりにくいし、トレンドや間引きという仕様があるのだからコンテンツのファーストフード化も加速する。
そんなトリッキーな発信ツールなのに手軽さゆえに表現する人たちがコンテンツの発信に使っている事実にアンビバレンスを感じ得ない。

SNSなのだからコミュニケーション能力の高い人ほど脚光を浴びるのは当たり前なのだ。田中さんはこれも理解するべきだった。


私が大学でレポートを書いていて印象に残ったことがある。提出した時に成績が悪かったのだ。そしてたくさん頑張ったのに成績が悪かったので、傷ついて悲しくなった。
その時、教員が落ち込んでいる私をこう言って励ました。「君が悲しいのはこのレポートが自分の一部のように感じるからだよ。でも、実はレポートと自分は別物なんだよ」

別の時、とあるゲームのクリエイターが問題発言で炎上していた。でも私はその人の作るゲームがとても好きだった。だから、非難の声を聞いて「作品と作者は別なのに」と思った。

違う点があるとするならば、二次創作特有の「推しへの愛情表現」という要素が加わったことで田中さんは混沌に陥ったのかもしれない。でも、根本的には、切り離して考えるというのは、この二つの例と同じだと思う。

「こんなに作品やキャラクターを愛しているのだから私の作る二次創作には価値があるに違いない」という考えがすでに驕りなのだ。


二次創作コンテンツには、本当に特別な事情がなければ猛烈なパワーは生まれないし、そもそも人気作品の二次創作になってくると、数が多すぎて個々の作品に力はない。

なのに、作品への愛が深く、熱心で、情熱的な頑張り屋さんほど自分の作品にパワーがあると感じやすく、また、それが観客に伝わらないとジレンマに陥りやすい。

でも私 ≠ 私の作ったコンテンツというスタンスであれば、作品の反響で自分価値や自己肯定感を損なわなくなるはずだ。

最後にひとつ付け加えるとするなら、そんな田中さんの作品も「本当に好きだし価値を感じているし田中さんにしか作れない作品だ」と思っている人が必ず一人はいるはずだ。
田中さんがもし今後も推しへの愛を表現するということを諦めないのなら、作品への反響の数よりも、人気者になれるかどうかよりも、そういった光明のようなフォロワーを大切にしてほしいものだ。

以上が、私という田中さんがコスプレを少し休んだ結果たどり着いた真理です。