SNSを消すというプチ失踪
消えたいと思っても簡単に実行できないのは「完全失踪マニュアル」にも明記してあった。やや時代遅れの本だが、家出以上の失踪や消失、いわゆる戸籍を変えて別人になると言う意味での完全失踪には、時間も人脈も金もかかると解説されていた。逆に言えばそれだけ投資すれば完全失踪できるというわけだが、そこまでのエネルギーはない、でも消えてしまいたい、でも今は死にどきじゃない、そんな日は誰にでもあると思う。
ふと思ったのだがSNSを消すのはどうだろうか?昨今、斎藤環氏や岡田尊司氏による承認欲求にまつわる書籍を読んだ。それらの本によると、インターネットにどっぷり浸かっている人ほど生き物としての欲望に承認欲求が含まれている、つまり、食う寝る遊ぶと同じレベルで承認されたいという欲がある、そういう人が増えているというわけだ。そしてその承認欲求の飢えが満たされる一番手っ取り早い方法がSNS上の「いいね」で、社会的に浸透したツールの代表としてX(旧Twitter)が挙げられている。それなら、Xを重きにおけばおくほど、生活の大半をTLで過ごせば過ごすほど、そのアカウントを消すという行為は自殺に等しいと、そんな気がして仕方ない。
ところで人間にもし魂があるとして、その在処はどこなのだろう?現実世界をきちんと生きられている人にとっての魂の在処は間違いなく肉体だと思う。だが、私のように現実世界をきちんと生きられない人種はどうだろうか?私は思春期に学校でひどいイジメとシカトを経験した。逃げ場になるはずの家庭もグシャグシャで、自室のドアに鍵をかけて布団の中に籠っていたのだ。その時に助けられたのがインターネットの掲示板であり、チャットであり、メールでの文通で、あるいはビデオゲームであり漫画であった。思えば、その頃から私にとっての現実はこの現世というものから文字や活字の世界にシフトしていて、いつのまにか現実と空想の境目がなくなって、どちらがよりリアルに感じられるかの境目が曖昧になっていたように感じる。その私にも魂があるのだとしたら、その在処は肉体という器の中ではなく、空想の世界、ないしは文字の世界だと思う。そして、そういう人は増えている。リアルで満たされないさまざまな渇望をネットで満たす人が増えれば増えるほど、魂の在処はシフトしていく。
だから「プチ失踪としてのXの削除」を推奨したい。別にXじゃなくてもいい、インスタでもpixivでも原神でもFF14でもなんでもいい、自分がメインに使っていてまあまあ親しいコミュニティに属しているツールを、その魂の置き場をごっそり消してしまうのはどうだろうか。私の周りにはすべてに疲れてXのアカウントを削除した人が何人もいる。中にはなんの前兆もなく、本当に青天の霹靂で消滅する人もいて、生死が不安になることもあるくらいだ。生きているか死んでいるか、その生存確認の手段が断たれてしまうならば、もうそれは失踪にかなり近い状態のように思う。
でも心配はいらない。人間は死んだら朽ちてしまうが、SNSは消しても一定期間ないなら復活できるのだから。ネバダちゃんこと佐世保の女子小学生が同級生を刺殺したのに「本人に謝りたい」と言ったのは「ゲームはリセットすればすべてが元通りになるから、同じように現実もリアリティがないのではないか?」と指摘する心理学者がいたという。その切り口は、SNSのアカウントごと自分を「殺し」ても数日以内なら不死鳥のように戻って来れるというのに通じる気もする。
好きな時に消えられて、好きな時に戻って来れるなら、なんとお手軽なプチ失踪だろう。私はうっかり復活期間を超えてしまいそうなので、アカウントは本当に消したくなった時にしか消さないが、きちんとカレンダーを把握して復帰できるほどマメな人なら、これも一つの「消えていなくなる」手段かもしれない。