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#23 私たちのまちと戦争の記憶

あけましておめでとうございます。
2023年もどうぞよろしくお願いいたします🌅

皆さんは、どのような年末年始を過ごされましたか?
お蕎麦やお餅を食べたり、初詣に行ったり、駅伝やお笑いを見たり、家族や親戚、旧友と集ったり…。普段は忙しいという方も、久しぶりにゆっくりする時間が持てていたら良いなと思います😌

そして、お正月も明け、今年の抱負を考えた方も多いのではないでしょうか。
私は、「何気ない日々の幸せが続くために必要なことを行動に移そう」という想いをベースに、今年の抱負を立てました🕊
というのも、特にここ数年の国内の情勢を鑑みるに、「平和で満たされた日々があるのは当たり前のことではない」と思うことが増えたからです。

昨年12月から大きな話題となっている出来事がありますね。2023年度予算案の閣議決定です。
防衛費の大幅拡大とその財源確保について物議を醸す中、「新しい戦前」という言葉が出てくるなど、不穏な空気が日本全体を覆っています。漠然とした恐怖感、政府への不信感が募る一方、私たち若い世代は「戦争」に対するリアリティを持ち合わせていないため、「じゃあ具体的に何を考えて、どう行動すればいいのか?」という人が多いのが現実。私自身も、その中の一人です。

そこで今回の記事では、昨年8月2日に開催された第一回『山の談話室』の内容を踏まえ、戦時中の大岡山での様々な出来事をクローズアップします✍️
皆さんも、今一度戦争の記憶を辿り、平和について考えを巡らせてみませんか?

1. 『山の談話室』って?

『山の談話室』とは、大岡山・千束地区まちづくり協議会が主催する、まちの人たちのための気軽な談話室です🏔 懐かしい写真を見たり、昔話をしたり聞いたりすることで、世代を超えてまちについてのあれこれを共有します🗣大岡山に住む人だけでなく、大岡山に興味がある人なら誰でも参加することができます!

一回目のテーマは、「空襲の体験」
私たちのまち・大岡山は、どんな戦災にあったのか。戦後はどんな暮らしだったのか。幼い頃に戦争を経験した方や、家族や親戚から戦争体験の話を聞いたことのある方など、20名ほどが集まり、このまちの戦争の記憶や思いについて語り合いました。一番若い世代では、小学生が参加してくれました!

東工大蔵前会館で開催された「山の談話室」

2. 大岡山地区の戦災

まずはこちらの消失図をご覧ください。
(出典:1945年日本地図株式会社発行「戦災消失区域表示 帝都近傍図」

大田区の消失図
大岡山・千束地区の消失図

赤色で示されているのが焼失した地域です。
大田区は当時、大森区、蒲田区の2つに分かれていました。蒲田区(上図右下)には軍需施設が集中していたために、敵国に徹底的に狙われ、ほぼ全域が焼失しました。

黒い帯状の部分は、鉄道に沿って建物が撤去(=建物疎開)された場所を表しています。かつて目黒駅と蒲田駅との間を結んでいた目蒲線に沿って、強制撤去になった家々が並んでいるのが分かります。大岡山から洗足までの間で残ったのは、軍需の仕事をしていた家具店だけだったそうです。
建物疎開とは、逃げ場となる道を広げるためや空襲による火災の延焼を防ぐために強制的に行われたものです。下の絵のように、専門とび職の指導で大黒柱に荒縄をかけ大勢で引っ張って壊しました。そこには、つい昨日まで住んでいた家が目の前で取り壊され、悲鳴をあげる住民たちの姿も…。

建物疎開の作業をしている様子を描いた絵
(出典:ヒロシマ平和メディアセンター

3. 学童集団疎開

戦況が悪化し空襲が予想されるようになると、政府は子供たちを地方へと集団疎開させました。大岡山でも1944年8月から学童集団疎開が始まります。清水窪小学校(当時は清水窪国民学校)からは190人、赤松小学校(当時は赤松国民学校)からは438人が親元を離れ、先生や寮母さんとともに静岡や富山で生活しました。

皇居の方向へ子供達が拝礼する宮城遥拝
(清水窪小学校の疎開先「静居寺」にて)
朝礼の様子
(清水窪小学校の疎開先「静居寺」にて)

疎開当時の話は、2017年に実施された座談会で語られたものから抜粋しています
(司会:まちづくり協議会会長・田ノ倉さん、体験談を話してくれた方:赤松小学校から1名、清水窪小学校から3名)。全文をご覧になりたい方はこちらから。

疎開先での生活

疎開先での生活は、行き先によってまるで境遇が違いました。ご飯がしっかり用意されたり、大人たちが盆踊り大会などを催してくれたりと、楽しい思い出が多い疎開先もあれば、あまりまともな食事が取れないなどと、二度と味わいたくない思い出として残っている疎開先もありました。

清水窪小学校の生徒たちは、疎開先のお寺で勉強をしていました。空襲後の再疎開先では、午前中は毎日バケツを持って片道40分ほどかけて町へ行き、豆腐屋にオカラをもらうのが日課だったという子供も。その時は、食糧を得るために働くことに必死で、勉強どころではなかったそうです。

山門前で教科書を開き、野外で勉強
(清水窪小学校の疎開先「静居寺」にて)

炊事は、寿司善さんやあたりやさん(とんかつ屋)など、地元の飲食店ゆかりの人々が担当してくれていました。それでもお腹が空いている子供たちは、ミカンの皮を焼いたり、サツマイモのツルを食べたりしていたそう。

学童疎開の思い出話っていうと、食い物がなくて、腹減った、腹減った、て話。
それから、シラミに悩まされたって話、僕らの話題はそんなところだよ。腹ペコで腹ペコで、ミカンの皮焼いたりサツマイモのツル食べたり、なんでも喰えるものは喰って、それでも腹減ってる。

清水窪小学校出身 松山さんの話から抜粋

また、疎開先には、親が10人くらいで交代で面会に来ていました。自分の子供に食べ物をあげたいが他の子にあげる分はない、という親たちは、お手玉の中に炒った大豆を入れてそっと渡しました。子供たちは、それを他の子に見つからないようにこっそり食べていたといいます。

1日の最後には、東京の方角に向かって
「お父さん、お母さん、おやすみなさい」と挨拶をする
(清水窪小学校の疎開先「静居寺」にて)

親との再会、そして別れ

米軍上陸の可能性や食糧難などを理由に、最初の疎開地からさらに移動する「再疎開」も行われました。
赤松小学校の子供たちが静岡から再疎開先の岩手に向かう際には、途中で品川駅に停まった疎開列車に親たちが殺到し、大騒ぎになりました。「赤松の何年生の列車はどこか」と無我夢中で探し回り、しがみついてお守りを渡す親、大泣きしながら別れを惜しむ親…。それでも皆、泣きながら「万歳!万歳!」と叫んでいました。
この一時の親子再会は、1945年5月の空襲によって東京が焦土と化した直後の出来事でした。親たちからすれば、「我が子と会えるのもこれで最後になるだろう」という予感があったのでしょう。当時の阿鼻叫喚な様子は、想像しただけで涙が止まりません。

4.戦中の東京工業大学

1944年4月、太平洋戦争も熾烈な戦況となり、大学も臨時体制をとることになります。職員と学生で自衛消防隊を結成し、昼夜の別なく住み込みで消火活動が行える体制を整えました。これが「東京工業大学防護挺身隊」です。隊員は応募制で、若手の職員を中心に27名が集まりました。

名簿の中に、自分と同じ建築学科の学生の名前を発見したときはハッとしました。
これは昔のことだが、自分に関係ない誰かのことではない、と。

東京工業大学博物館から頂いた資料の中に、このようなものを発見しました。
隊員たちの士気高揚のために作られた隊歌の歌詞です🪖
楽譜が残っていたので実際に歌ってみました。これを歌って自分たちを奮い立たせ、訓練に励んでいた若い男たちの姿が目に浮かぶようです。

青空高く聳え立つ
科学の殿堂 守り抜く
使命を肩に熱鉄の
至上は溢れ競い立つ
ああ、栄光の挺身隊

東京工業大学防護挺身隊隊歌 第一番
(東京工業大学博物館提供)
東京工業大学防護挺身隊隊歌 楽譜
(東京工業大学博物館提供)

東工大は兵器などの軍事研究を行っていたため、爆撃対象地区となり、住宅も含め周辺の建物は強制疎開されました。北口の方にあった東工大の木造校舎も、人々の手によって取り壊されました。

また、当時の大岡山は目立つ施設がほとんどなく、その中でそそり立つ東工大の本館は格好の目標となると思われました。
一説によると、奇跡的に爆撃を免れたのは、本館は米軍の飛行ルートの目印として使われていたため壊さないようにという指令が出ていたからであるとか。

迷彩色に塗装された東工大本館 1947年

1945年5月24日未明。米軍のB29爆撃機による焼夷弾の波状攻撃を受け、大岡山北口方面の被害に遭いました。東工大の木造の実験室や研究室も被弾し、火災が起きました。防護挺身隊の努力によって一時は消火に成功したものの、度重なる攻撃に抗いきれず最終的には全焼。「大和寮」と呼ばれた彼らの宿舎も消失し、隊員の家財や当時の資料は全て失われました。

東工大の敷地内に落ちた焼夷弾の残骸を、学生と教師で拾い集めた

1945年8月15日。東工大の学生の多くは、大岡山キャンパスで、日本が戦争に負けたことを知らせる玉音放送を聴きました。本館の中庭にラジオを出し、皆で集まって聴いたといいます。
当時の様子について、東工大の名誉教授であり、戦時中、旧日本軍が米国本土攻撃に使った風船爆弾を製造する際に用いたこんにゃくのりの研究に従事した畑敏雄氏による日記が残っています。

8月15日(水)
正午に陛下自らの放送が行われる旨予告があり、全国民の謹聴が要望された。その前の午前のひととき、この歴史的な日の感想を書き誌す。
この数日学生諸君をはじめ、若い人々と語り合う機会をしばしば持った。そして、誰からも国体を憂うる至情を聞かないことはなかった。今朝も徳山さんがこの部屋に来て泣いた。
この厳粛な若い人々の心に自分は無条件に頭を下げる。批判はいくらでも出来る。だが…。
× × ×
詔書の放送を聞く。学生諸君は教室に帰って半日泣きくらしていた。勝賀瀬、徳山、落合の令嬢も。誰も彼も。この時先生だけは午后から登校せられて、今までの強要せられた研究を心を偽って学生に与えたことの苦痛を語り、これからが本来の我々の研究だと勝利したもののような高揚を以て僕の部屋へ来て話された。噫、我又何をか云わんや。
戦時研究員に指名された時のあの誇らしさ。軍嘱託、軍依託に対する欲望の強さ。
しかも、学生、助手に対する指導性の皆無。思想や人生観の如何に拘らず戦時には戦時の平和時には平和時の科学者の責務がある筈ではなかったか。真摯な人生とは何であるかを知って居られるのか?さらにこの歴史的な瞬時に論理を超絶した感動に心をふるわす純情を持ち合わせては居られないのか?
常に一枚看板のように若さを口にし、純情を口にするこの人の、若さを理解せず自ら偽り多きことよ。
(この歴史的な日の所感が恩師に対する不満で締められたとは情ない)

東京工業大学博物館提供(全文)

戦後も食糧難が市民を襲い、本館前にある現在の芝生スロープ部分はサツマイモ畑として利用されていました。

本館前のサツマイモ畑

5. おわりに

戦争のために、何ヶ月も親元を離れて生活しなければならなかったこと。
自分の住んでいた家が強制疎開のために目の前で取り壊されていくこと。
食べ物が十分得られず、子供も大人もひもじい思いで過ごしていたこと。
私たちが住むこの大岡山のまちでも、このようなことが現実に起こっていました。
しかし、これらは惨状のほんの一部でしかありません。

山の談話室で聞いたお話の中で特に印象深かったのが、司会・田ノ倉さんのお祖父様のお話です。田ノ倉さんは当時、まだ赤子でした。

夜中に空爆があり、突然空襲警報の音が鳴って逃げ惑ったと聞いています。空襲で火災が発生し、家族みんなで逃げている途中、祖父が「もう逃げるのは嫌だ」と言って炎の中に立ち尽くし、家族が本当に困ったと言っていました。

田ノ倉さんのお話から抜粋

生き延びようとするより、そこに残ることを選ぶという心理状態が生み出される当時の状況は、どんなに無力感や絶望感に満ちたものだったのでしょう。自分の家族に置き換えて考えた時、悲しみとも怒りとも取れない複雑な感情が湧いてきて、大変ショックを受けました。
さらに、終戦から80年近く経っているにも関わらず、当時の建物の強制疎開先に嫁いだ戦争体験者の方がおっしゃった、「戦争は嫌だなと思います」という言葉の響きがあまりに悲痛で、生々しさと共に胸に刺さりました。

人間らしく生きることもままならず、ましてや明日の命の保証すらない。
大切なものが目の前でどんどん奪われていく。
今回、皆さんの貴重なお話を聞き、当時の記憶を描いた数々のスケッチを目にし、戦争は何があっても決して始めてはならないと改めて強く思いました。

当時7歳だった方によるスケッチ。
「1945年3月10日 疎開先の茨城県現つくば市から約50キロ離れた東京に、
夜空をこがす大火と火の反射を受けたB29の機影がはっきりと見えた。」

今年で終戦から78年になります。
同じ過ちを繰り返さないために。何気ない日々の幸せが、これからも続くように。
若い世代が戦争の記憶を引き継ぎ、次の世代へと繋げていかなければなりません。「忘れない」ということが、まずは私たちに出来ることです。
そして、自分たちの意思で自分たちの未来を選択できるよう、実際に目や耳で確かめ、思索し、議論する時間を設けることが、今までよりも重要になってくる気がしています。
何かあった時犠牲になるのは、戦争を始めた人たちではなく、私たちなのだから。

不戦の願いを込めて、今回の記事を終わります🕊🌿

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