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モーツァルトの絶筆は本当に「ラクリモサ」の8小節目か?

モーツァルトは1791年12月5日の死の直前まで《レクイエム》を作曲していて、途中の「ラクリモサ(涙の日)」の8小節目が絶筆となった、というのはよく聞く話。「モーツァルト 絶筆」などで検索するとそうした説明をしているページをよく見る。

「ラクリモサ」の8小節目部分

しかし、そうではない違う可能性もある。


▼ 実は”絶筆”は「オスティアス」の終結部分ではないか?

自筆譜をきちんと見ると、じつは「ラクリモサ」でおわっているわけではなく、次の 「ドミネ・イエス【主イエス】」、さらに次の「オスティアス【賛美の生け贄】」までは不完全だけど残されている。不完全とは言っても、四声合唱のすべての旋律と通奏低音、要所要所のオケの旋律などは書き込まれているので、音楽の骨格は出来上がっている。

つまり順番で言えば、「ラクリモサ」の8小節目まで書いたものの中断して、その後の「オスティアス」まではほぼ仕上げて、そこで力尽きてしまった、となる。

「オスティアス」の最後の部分


右端を拡大したのが下の写真。
字が書かれている。


おそらく「quam olim  Da Capo」だと思う。ダ・カーポで前の曲の「quam olim」の部分まで戻って繰り返せ、ということ。実際に今はそう演奏されている。

なので、「最後の最後どこで筆を置いたか?」という問いへの答えは ”「オスティアス」の最後の「Da Capo」の文字”となるかもしれない。

ただ、もちろん作曲が曲順にしたがって行われたかどうかは実は分からない。
曲と曲の間が数ページ空白になっているところが数か所あるのは、あとで困らないように少し空けておきながら順不同で作曲を進めていた、とみることもできる。
(例えば、「ドミネ・イエス」と「オスティアス」の間も3ページ分の空白がある)

つまり「ラクリモサ」より後ろの二曲をまずある程度仕上げてから、「ラクリモサ」にとりかかって途中で力尽きた、と考えることもできる。

「ラクリモサ」を途中で中断して後ろの二曲を仕上げたのか、それとも後ろの二曲をある程度仕上げた上で「ラクリモサ」にとりかかって8小節目で終わってしまったのか、論理的にはどちらも等価なので正直どちらが正しいか分からない。

この曲については本当に研究され尽くしているだろうから、作曲の順番問題もなんらかの結論はあるのだと思うし、どなたか教えていただければ嬉しいのだが。

▼「ドミネ・イエス」も「オスティアス」も名曲、きちんと聴かれないのはあまりにもったいない

ただ、個人的には「ラクリモサ」の8小節目が絶筆だ、とだけ喧伝されてしまい、結果的にその後の二曲、実はモーツァルト自身がほとんど仕上げていた二曲も「なんだ、凡人の弟子の作品か」みたいに軽んじてとらえてられてしまっているのが、なんとももったいない気が強くする。
「ドミネ・イエス」のど迫力のフーガとか、「オスティアス」の絶妙な転調なんて、本当に素晴らしいと思うし。


「レクイエム」のモーツァルトの自筆譜はこちら → https://s9.imslp.org/files/imglnks/usimg/d/de/IMSLP293694-PMLP02751-Mozart_-_Requiem_K626_-autograph_fragment-.pdf

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