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コンテクストデザインと肯定するデザイン

私は、コンテクストデザインに、二度救われた。

一度目は、将来に悩んでいたときだ。DESIGN TOLKS+で渡邉康太郎さんを拝見し、コンテクストデザインという名前を知ったことで、目指すものができた。

私はいつからか、普通の人が日常の中で作るものに興味があった。玄関を飾る置物や、効率的に作業をするための細工。一人ひとりの生活に合わせて作られ使われているそれらは、ものがいきいきとしているように見える。

コンテクストデザインの、読み手が自らの物語を作る様子が私の関心と重なり、目指したいものが少し言葉になった気がした。

▲ ブロック塀の上に置かれた陶器の置物
愛を込めて作られたことがわかるばらばらなもの達が整列している様子が可愛い

そして二度目は、自分に自信を持てずにいたとき。私はずっと、正しいことを言わなければと思っていた。例えば、感想や意見を求められる場面では、相手が聞いてきたことに対して真正面から返答しなければいけない。何かを説明する場面では、誤ったことを伝えてはいけない。そう思っていると、頭の中に文章が浮かんでも口から出る前に多くを消してしまって、黙るしかなかった。

授業で渡邉さんが大学に来た際、お話しする機会に恵まれたが、憧れの人が目の前にいるというのにちっとも "いい話" ができなくて、結構落ち込んだ。しかし、そこから救ってくれたのも渡邉さん(が掲げるコンテクストデザイン)だった。

コンテクストデザインでは、誤読を歓迎している。作者の意図とズレていても、読者が自らの言葉で語ることに意味がある。自分が感じたことに正しいも間違いも、良いも悪いもなく、まずは感じたことを言葉にしようと思うようになった。

私は、デザインで小さな日々を肯定したい。

いびつかもしれない創作物を愛でることや、ずれているかもしれない考えを外に出すことで、私は不完全な世界を受け入れようとしているのだろう。

日常の中の創作物に惹かれるようになったきっかけは、路上のものを愛でる考え方を知ったことだ。超芸術トマソンや、考現学。それまで何も考えずに通り過ぎていた風景を面白がるようになると、世界が輝いて見えるようになった。

世界を変えることはできなくても、世界の見方を変えることで、自分の周りの環境を肯定することができるのではないだろうか。

また、多様な個々人が力を持つようになった今、誰もが批評家になることができる。そんな状況において、自分と違うものを無理に好きになったり賛成したりする必要はなくても、他者の存在を認めることが大切だと思う。

誤読を歓迎することは、自分と違うものの存在を歓迎することだ。一人ひとりがものがたりを紡ぎ、そのものがたりたちが共存するデザインができたら、今過ごしているこの日々を肯定することができるのではないだろうか。

生きづらいと思うことが多い毎日の中でのびやかに生きていくために、コンテクストデザインと肯定するデザインを考えます。続く。


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