バンクシーの絵はなんとなく展示では見たくない

こんばんは。
今日は特になんの変哲もない普通の戯言を書き散らかしますよ。

といっても別に書きたいことは無いんですけど、個人的に最近気になってるのはバンクシーのストリートアートの扱いについてですね。

結構前に知人に「バンクシー展行こうよ」って誘われたんですよ。
わたしは元々よく一人で美術館や展示を見に行きますし、まあ今年はご時世的にあまり行ってないんですけど思い立ったように漫画の原画展やコンセプト展示に行くのが好きなんですね。
過去のものですともうどく展とか、人体展とか、化ケモノ展とかそういうのなんですけど。大体サンシャイン水族館が好きそうなやつですね。もちろん普通の画家の展示も行きます。わたしは画家の中では特にサルバドール・ダリが好きですので、いつかスペインに行きたいなあとは思っていますがあいにくと日本から出る予定はありませんので向こうから来ないかなあと思っています。それはさておき。


展示でストリートアート見るの?

バンクシー展の謳い文句なんでしたっけ。天才か反逆者かでしたっけ。
まあその中二病感満載の謳い文句については心惹かれるのが半分、「どっちも共存できるだろ」と思う気持ちが9割で合計14割と10割を越えているんですけど、まあとにかくなんかわたしの趣味じゃない。

別にわたしはここ数年ハマっているラップというジャンルも、ロックというジャンルも、ストリートアートと言われるジャンルも別にものすごく詳しいわけありません。が、それらの根本に感じているものは厭世というか社会に対する批判、それこそ風刺みたいなものです。タギングはストリートギャングのマーキング的なものだと思ってますので完全に別物と考えています。

でね、まあ門外漢なことについて長々と語るのは無知をひけらかすだけなので恐縮なんですけど、わたしがバンクシー展について思ったのは、「ストリートアートっていうのは展示して見るものじゃないだろ」ってことだった。

まあバンクシーにどんな意図があってああいう形でストリートアートを描いてる…描いてるっていうかステンシルですけど、そういうのは知る由も無いので知らないのは当然なんですけど、バンクシーが日本で話題になったのはオークションで落札された1億5千万の絵がうどんになった時ですよね。
あの時は現代アーティストの悪ふざけか、ぐらいにしか思ってなかったんですけどそもそもあの時点で1億5千万ぐらいの値をつけられる絵だったんですよね、あの赤い風船と少女の絵。わたしが知らないだけで既にバンクシーは海外では有名だったんですね。

で、今となっちゃバンクシーの絵が描かれた壁が保護され、バンクシーが描いたかどうかも分からない絵が日本でも保護され、世界は神出鬼没なバンクシーのストリートアートに翻弄されている。

そして最近といってもちょっと前ですけど、わたしが最高にロックじゃん!!って思ったのがロンドン地下鉄のニュースだった。知ってる人も多いと思いますけど、バンクシーが地下鉄車内に描いた新作の絵をバンクシーの存在を知らない清掃スタッフが消したというニュースです。インスタに動画というか作品が上がった頃には既に絵そのものは消されてて、清掃員の仕事の速さに最高に笑ったし、最高にエンターテインメントだと思った。

そして、ストリートアートとはこうあるべきだとも思ってしまった。


保護されるストリートアート

全ての事象に対して〇〇であるべき、っていう発想は烏滸がましいというか危険というか、少なくとも門外漢である一般人が抱いていい感想ではないとわたしは思っているので大変なブーメランが刺さっているんですけど、それでもついストリートアートはそうあってほしいと思っちゃったんですよね。だって元々落書きなんですもん。誰が描こうが、公共の場にされた落書きは消すべき。保護するなんてとんでもないし、保護するなら周りの環境もまとめて全部保護してほしい。

最近で言うなら、柱に繋がれた廃棄自転車の近くの壁に描かれた自転車のタイヤでフラフープする女の子の絵ですね。あの絵は近くに廃棄自転車が無いと何を指してるのかすらも分からないから、というかそれ込みでの作品なわけですから絵を保護した以上はあの繋いだ廃棄自転車も撤去するわけには行かないでしょう。そこも含めて風刺されてるんじゃないかと見ているわたしには感じられてしまうのです。

お前らオレの絵にすっげえ価値つけてるけど、その廃棄された自転車にも価値はあるのか?と

いやあ、ロックですね。最高にロックだ。
本来の意図はどうあれ、絵画を始めとした世の作品は見ている人の心象が全て。国語のテストみたいにでっちあげられた作者の気持ちなんて推察する必要はないのです。感じたまま思ったままに、その作品に対して感想を言えばいい。ロックとストリートアートを結びつけていいものかも分かりませんが、わたしにはロックだという感想しか出てこない。

そして、わたしにはストリートアートを展示したり保護したりする意味が全く感じられない。

カンバスに描かれた絵は好きに飾ればいいと思うんですけど、ストリートアートは町中をカンバスにして額縁にしているようなもんですからね。


額縁のない絵を飾るようなもの

美術館に絵を展示する時にも額縁ってすごく大事なんですよ。額縁というのはただ絵を保護するためだけじゃありません。額縁は、最大限にその絵を引き立てるために絵ひとつひとつに対してちゃんと選ばれているんです。

もちろん選ぶ人の感性によっても額縁は変わるし、この絵にはこの額縁でないと!みたいな絵って恐らくないと思います。額縁だって痛みますしね…。そして、わたしはストリートアートの額縁は描かれた場所そのものだと思うわけです。もちろんアートだからってどこに描いてもいいわけじゃない。公共の場に描かれたアートは消されて当然ですし、そうあってほしいです。

バンクシーが描いたから、有名な画家が描いたからこのストリートアートは許される。保護される。例外になる。じゃあ、そのストリートアートの額縁が廃棄された自転車なんかよりも非社会的なものだったらどうするんだろ?非社会的な額縁だけを無かったことにして、絵だけを保護して称賛するんです?それって本当に価値があることなのかな、わたしにはわかりません。そんな社会だから風刺されるんですよ、昔から。

まあですので、最初の話に戻れば風景から切り離された展示なんかどんなに凝ってたとしても見る気が起きないし、そもそもストリートアートってそういうもんじゃないんじゃないかなあという疑問が湧いたわけです。実際PVを見て行く気を無くしただけで最初は興味があったんですけどね。何かの機会に行くことがあれば掌をドリルするかもしれません、わたしはそんなに自分の主義主張にプライドがありません!

ストリートアートにあれだけの価値を持たせたっていう技術や才能は本当に凄いなって思うんですけど、どんなにすばらしい技術や感性を持っててもやってることは落書きってスタンスはわたしは崩して欲しくないなあと思っちゃいますね。倫理的とかじゃなくて、そっちの方がアートとしてカッコイイと思っちゃうから。

ただ、写真集とかが出るっていうならすごく興味あります。知らない作品多いですしね。まあアートなんて銘打っても落書きは犯罪ですし、一生出さないでほしい気持ちはあるんですけど、もし亡くなった際には画集とか何かかしら出ちゃうかもしれませんね。


いつの時代も絵描きの生き様っていうのは、死んでから勝手に価値をつけられ知らない誰かの肥やしにされてしまうんだよな。作家もそうですね。